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キリコも腹をくくったらしく丁寧に手を消毒して触診をする。
破水のせいか、それとも運転なんて無理をしたせいなのか、すでに子宮口は5センチ以上開いているらしい。
これもいい兆候だ。
こんなに破水してしまっているのだ、ぐずぐずしてはいられない。
お産と言うとある時急に大量に破水して、なんて想像する向きも多いだろうが、あれはテレビの演出で、実際には陣痛が先にある方が多い。
最初の陣痛は不規則で間隔も長く、2、3度あったと思うとそのまま消えてしまったりして安定しない。
規則的な陣痛が来てその陣痛間隔が短くなり、ある程度子宮口が開いてから破水があり、それを機に陣痛が強くなっていく…というのが一般的な進行だ。
ちなみに陣痛だってずっと痛いわけじゃない。
最終的には3分間隔くらいで痛みが来るが、痛む時間は長くても30秒から1分くらいで、痛みのない間はおしゃべりしたり飲み物を飲んだりすることもできる。
剛の者は、合間にうとうとしたりもする。
怖いものじゃないとわかっていれば、女性の体は驚くほどタフなものなのだ。
破水から始まるにしたって、普通はこんな風にドバっとは出ない。
出口から遠いところから破水した時なんて尿漏れと区別できないくらいにしか漏れないので、下着の匂いを嗅いで生臭いから破水だとわかった、なんてのはよく聞く話だ。
けれど、今回の場合は勝手が違う。
横になったら出る量が減ったとはいえ、こんな風に羊水が勢いよく出るときには出産は早く進行するものだし、逆に進行しないと危険だ。
雑菌が入り込み、万一羊水が侵されたら怖い。
またいきんだ時に羊水が少なすぎると、赤ん坊の動きが取れなくなり、お産に時間がかかりやすい。
産道で時間がかかりすぎると赤ん坊の脳に酸素がいかなくなり、障害が出ることもある。
ま、そんなこと滅多にないがね。
「陣痛間隔は、今どのくらいだ? 君にしかわからないんだから時計をしっかり見て、自分で測りなさい。陣痛が来たらなるべく息を細く長く吸って、長く出すんだ。息を止めたら余計に痛くなる」
と時計を渡すと、横向きに丸まって必死で針を追っている。
本当はいつ陣痛が来ているかなんて、傍で見ていてもわかる。
今は7分間隔だ。痛みのある時間は約20秒。
けれど自分でしないと正確なことが伝えられない、と思うと人間、痛みなんて忘れてしっかり計ろうとするものだ。
キリコが聞いた旦那さんの連絡先に、電話する。
今から3、4時間でそちらに着きます! という力強い言葉を聞き、なるべく急げと発破をかける。
初産だからと言って時間がかかると思ったら大間違いだ。
人によっては恐ろしく進行が速い。
そして彼女はそういう安産タイプらしい。
陣痛間隔は既に3分。
子宮口も8センチ以上になった。
初産婦にしては早い。
だがまだ10センチに足りない。
子宮口が10センチまで開けば赤ん坊の頭が産道を通ることが出来る。
つまりはいきむことが出来るのだが。
かなり陣痛が強くなってきたのだろう。
「うー。うー」
とうめきだした彼女に、なるべく声を出すなと注意する。
うめくとほんの少し楽になったような気がするが、腹に力を入れては胎児に十分な酸素が行き渡らないのだ。
キリコが彼女の耳元で何かを囁きながら腰のツボを強く押すと、体のこわばりが少し抜けた。
さすがに痛みを逃すのがうまいな。
出産が長引くからマッサージで楽にしすぎてもいけないという医師もいるが、俺はそうとは思わない。
どちらかと言うと、リラックスしているとお産は早まると思う。
信頼する人に医療の知識があり、診察してくれているというのはいいものなのだろう。
さっきまで狐憑きかと思うような険しかった彼女の顔が、今はかなり穏やかだ。
陣痛の合間にも腹に手を当て、これから出てくる赤ん坊に何やら話しかけている。
その上からキリコの手。
三度目の内診で、子宮口が10センチになった。
いわゆる、全開大だ。
これで子どもは降りてこられる。
「深呼吸をした後、いきんでいいぞ」
とキリコが促す。
せえの。
「うーん」
とうなる女。
顔が真っ赤になっているが、これはだめだ。
腕と足に無駄な力が入ってしまって、肝心の腹には力が回らない。
「ストップ」
と言うキリコの声。
ハアハア喘ぐ妹はぐったりしている。
「足に力を入れても、赤ん坊は苦しいだけだ。腹だけに力を入れるんだ」
と注意し、次の陣痛の波を待つ。
せえの。
やはりダメ。
「わからない。いきむってどういうことなの。どこにどう力を入れればいいのかわからないわ。力もうとすると足に力が入っちゃうんだもの」
とべそをかく女。
よく大便をするつもりで、なんて言うけれど、こればかりは体験したことがないのでどう言えばいいか。
「使うのは腹筋だから、頭を起こしてみたらどうかな。体操の腹筋、あれをイメージしてみるんだ」
とキリコ。
なるほど。
次の合図とともに女の後頭部を持ち上げ
「自分のへそを見るようにするんだ」
「声を出すな。息を止めろ」
と二人して指示を出す。
「いきむのやめろ」の合図で頭を元に戻し
「腹に力を入れるな。なるべくそっと息をして」
と言いつつ股の間を覗き込む。
ほんの少しだが髪の毛がのぞいている。
「出てきてるぞ。もうちょっとだ」
と励まし、次の波を待つ。
せえの。
「次で出るぞ」
と言うキリコの合図でもう一度。
頭が見えてきた。
「力を抜いて。赤ん坊に任せるんだ」
と脱力を促す。
頭の向きが変わり、肩がぐりっと押し出される。
出てきた赤ん坊はすぐに大きな産声を上げ始めた。
元気な男の子だ。
赤ん坊をタオルで簡単にぬぐう。
それをキリコが
「元気な男の子だよ」
とユリさんの胸に乗せた。
まだへその緒でつながっている、でもすぐに分かたれる女の分身。
胸をはだけてやると、それまで泣きわめいていた赤ん坊が何かを探すしぐさをする。
キリコが赤ん坊の口に彼女の乳首を銜えさせて頭を支えると、ちょっとじたばたした赤ん坊はおとなしく乳を吸い始めた。
何度見ても、不思議だ。
なんで生まれたばかりの赤ん坊が、乳房の吸い付き方を知っているんだろう。
そしてそれまで泣きわめいていた女が、この瞬間に母の顔になるのだ。
生まれた子供に乳を与えながらユリさんが言った。
「兄さん。兄さんがどう生きようと、どう死のうと、うちの血は残っていくわ。この子がいるもの。ほら、この目はうちの血筋よ。兄さんと同じ色の目だわ。兄さんがどんなに切り離そうとしても私たちは一生兄妹だし、この子は兄さんの甥なの。だから、会いに来てくれなきゃ嫌よ。でないとこの子のキリコって名づけてしまうから」
その時玄関のベルが鳴った。
手を洗い終えた俺が向かうと、ずんぐりした男が立っていた。
この男がユリさんの旦那か。
キリコと正反対の、熊のような男。
だが目には懸念の中に愛情が光っている。
せっかちに話そうとする男にわざとゆっくり話しかけ、コートをかけさせ、まず手を丁寧に洗ってから水を1杯飲めと言う。
あとほんの少しだけ、あの兄弟を二人きりにさせてやりたかった。
旦那には悪いがどうせこれから飽きるくらい3人で暮らせるのだ。
あとちょっとだけ待ってくれ。
旦那にへその緒を切ってもらい、彼女の後産の間赤ん坊を抱かせる。
壊れ物を扱うようにこわごわ腕の中の赤ん坊を見る男。
赤ん坊は初めてのおっぱいと身をくるむふわふわのタオルに満足したらしく、武骨な腕の中でうとうとしている。
「かわいいですねえ。赤ん坊がこんなにかわいいなんて知らなかった」
と泣き笑いの男。
「奥さんも心細いし大変だろうから、休日や夜は旦那さんの出番だよ」
と軽く彼女に援護射撃しておく。
この家には赤ん坊を預かる設備がないので、手塚病院に電話して、いつものように手塚に頼み込んだ。
この男はぶつぶつ言いながらも必ず力になってくれる。
病院の救急車にユリさんと旦那と子供、3人を乗せる。
見送るキリコに
「お前はいいのか」
と聞いたら
「旦那が来れば、俺は用なしさ」
と苦笑いされた。