オーストラリアドルが魅力的

(2)

 

 

けがの功名か、一度電話で気をそがれた分持ち直し、滞りなく終えることが出来た。

入れるときは少々痛そうだったが、馴染むまで想像の尻尾に力を込めて動くのを我慢したので、動き始めてもあまり痛そうではなかった。

それどころか浅めの所で小休止した時

「そこ、だ」

と言われ、腰を軽く揺らした時の奴の表情と言ったら。

網膜にしっかり焼き付けたつもりだが、脳みその中味をプリントアウトする技術はできないものだろうか。

それですっかり興奮してしまい、そこから全力疾走になってしまったのが返す返すも残念だ。

 

「ふう」

 

と俺をどかせた男は大きく息をつき、コメントを望む俺のことをちらりと見ると

「とりあえず最低ラインは突破したかな」

と今までで一番の高評価を下した。

俺をからかうようなほんの少し皮肉気な笑みには最初の暗さのかけらもない、いつもの男だ。

顔に赤みが戻ったし、少なくとも気分転換にはなったらしい。

奴は拾ったシャツが濡れているのに顔をしかめて

「ちょっとシャワーを浴びてから着替えてくる」

と部屋を出て行った。

 

やった。

この分ならもしかしたら数年後には上下逆転もありうるかもしれない。

やはり男に生まれたからには好きな相手を思うさまアンアン言わせてみたいものだ。

中年男相手にそういうことを妄想してしまうことに少々疾しさを覚えながらも、野望は野望。

精進しよう。

 

気分よく後始末している時、また電話が鳴った。

留守電が入っているせいか、今度は3回コールしただけで留守メッセージが流れる。

こいつへの電話なら、安楽死依頼だろう。

メッセージを入れられたら動かずにいられなくなる。

相手がそのまま切ってくれれば、という思いと邪魔しなければ、という思いの間で迷っていると相手が

「兄さん、いないの」

と話し出した。

思わず受話器を取ってしまう。

 

「兄さん」

と急き込んで話し出そうとする相手に

「妹さんか?」

と問うと、鋭く息を吸う音の後

「ブラックジャック先生ですか」

という声がした。

 

「兄は今、いるんですね」

という声にうなずくと

「これから伺いますから、私のことは言わないで。そのまま兄を出さないでくださいね」

という声とともに電話が切れた。

え。

俺がいるんだけど。

ま、真昼間からこんなことをしてしまう、俺達の方がいけないのか。

これは面倒でもきちんと着替えておかないといけないな。

 

きちんとタイまで結んだ俺に、キリコは驚いたようだった。

「なんだ、もしかしてこれから用でもあるのか」

とバスローブ姿で言う。

普段、俺もそんな恰好でうろついているからな。

特に一戦交えて、そのまま止まる予定の時には。

でも、絶対に今はまずい。

そんな格好していたら、今までどんなことをしていたかがばれてしまうではないか。

彼女には俺達の関係を知られてしまっているとはいえ、あまりあからさまにそれを示したくはない。

「用はないが、お前もびしょ濡れだったんだからきちんと着替えた方がいいぞ」

とかなんとか屁理屈をこねて、着替えに行かせる。

 

「やっぱり変だ。お前、何にか隠しているだろう」

と俺の淹れたコーヒーを飲みながら、キリコが睨む。

うーん。

こいつの妹にはああ言われたけれど、よく考えたら俺は別に分かったと言ったわけじゃないし、まあいいか。

先程の電話のことを話すと、キリコは苦虫を噛み潰したような顔をした。

なんだ、この兄妹はまた何かうまくいってないのか。

俺は間の悪い時に来てしまったかな。

 

「別に何でもない。ただ俺があいつの家に行かないから電話がかかってくるだけだ。いい加減、旦那に専念してもらいたいもんだが、子供もできないとなかなかうまくいかないのかね」

と苦笑する男。

たまに行けば相手も気が済むんじゃないかと思うが、息が詰まるのだという。

「もう道を違えてしまったことを、認めてくれればいいんだがな」

と言う男の顔は少し老けたようだった。

 

これじゃ妹さんも切ないだろうが、こいつの気持ち、俺にも分からないでもない。

俺も和解を迫る親父に反吐を吐きたくなったから。

もちろん、奴の妹と俺の親父では月とすっぽんだが、もう道を違えてしまった、という感覚は理解できるような気がするのだ。

 

黙り込んで冷めかけたコーヒーをすすっていると、庭に車が入る音がした。

しばらくしてドアがノックされる。

入ってきたこいつの妹を見て驚いた。

妊婦だったのだ。

しかも臨月。

お腹が下がりきっているからもういつ産まれてもおかしくないだろうに、自分で車を運転してくるなんて、無茶だ。

キリコも

「お前、そんなお腹で車の運転なんかして、陣痛が付いたらどうするんだ。お前だけの体じゃないんだぞ」

と大声を出している。

だが口で女に勝てる男なんていやしない。

「だって兄さん、何度来てって言っても全然来てくれないし、この頃なんて電話にも出てくれないじゃない。赤ちゃんのことを驚かそうと思って楽しみにしていたのに、もう産まれちゃうわ。だんなは仕事で忙しいし、近所に知り合いもほとんどいないし、不安なことばかりだし、だからお医者の兄さんにいろいろ聞きたかったのに」

と泣きそうになりながらも同じくらいの声で言い合っている。

前にも思ったけれど、優しい顔して言うことはきっちり言う人だよな。

 

でも妊婦って体の中がどんどん変わるし、ホルモンのバランスも崩れるし、精神的にも追いつめられるから仕方ないのかもしれない。

特に初めての子どもの時には、分からないことだらけだ。

頼る親もいない彼女は心細くて仕方なかったんだろう。

「悪かったよユリ。ホットミルクでも作ってやるから、落ち着け。だんなさんは、今日はいるのか?」

と問うキリコにユリさんは首を振った。

「出張で明日まで帰らないの」

とうつむく彼女を前に

「俺は用を思い出したから」

と立ち上がる。

 

2人にはもう少しゆっくり話す時間が必要だろう。

俺はいないほうがいい。

「いえ、お二人の邪魔をするつもりじゃ」

と慌てて立ち上がったユリさんが、固まった。

「え?」

と股間を抑える彼女の足元に水が落ちる。

それはみるみるカーペットを濡らしていく。

破水だ。

それも普通の破水のようにちょろちょろと出るものじゃない。

 

呆然とするキリコに

「治療室に運ぶぞ」

と怒鳴るとはっとして彼女を抱えた。

俺が先導してドアを開け、ベッドにビニールシーツをかける。

ロッカーを開けて白衣を見つけ、着ながらキリコに

「俺は湯を沸かすから、お前は彼女の支度をしてくれ。ついでに触診しておいてくれ」

と言うと

「俺は出産は専門外だ。代わってくれ」

と、普段の威勢の良さがどこかに行ってしまっている。

「専門外でもできるだろう」

と出て行こうとしたが

「頼むから、触診だけはお前がしてくれ。他人ならともかく、妹相手に…」

と困った顔。

あ、そうか。

 

触診なんて当たり前にするものなので全く意識していなかったが、産婦人科での触診というのは産道や子宮口の状態を確かめるために膣に指を突っ込んで行う。

今まで患者相手にやましい思いなんて感じやしないから

「私は医者だ」

の一言で突っ込んできたが、旦那のいる実の妹相手に、とか思い始めると躊躇してしまうものかもしれない。

俺はどっちかというと大事な奴はほかの人間に触らせたくないほうだけど、もし妹、というポジションの奴がいたら微妙な気持ちになるのかも。

 

そんな風に慌てふためく情けない男二人を一喝したのはユリさんだった。

「どうせ二人ともお医者さんなんだからどっちでもいいわ。先生だって、兄さんだって。だって兄弟だもの。兄さん、父さんの時にはオペしてくれたのに、私にはしてくれないの? 確か私が赤ちゃんの時におむつだって換えてくれたんでしょう。なら」

と言ったところで縮こまる。

陣痛も付いたようだ。

初産でこの進行は、幸先がいい。

破水の後なかなか陣痛が付かずに、結局陣痛促進剤を使う羽目になるお産もあるのだから。

 

 

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