オーストラリアドルが魅力的

ユリの出産(1)

 

 

声が聞きたくなっただけだった。

どうせ留守電のメッセージだろうが、奴の声が聞けたらいいと思った。

お嬢ちゃんが出たらほんの少し世間話をしても気がまぎれるかもしれない。

もし本人が出てしまったら無言のまま切られるのに任せればいい。

どうせあのうちにナンバーディスプレイなんてないんだし。

 

そう思ってかけた電話に出たのはあの男で。

「もしもし」

という低い声を無言のまま聞く。

「どなたですか。声が聞こえませんが」

と少しいらいらした声。

しばらくお互いに無言が続く。

急にくしゃみが出そうになって息を詰めてやり過ごす、そのほんの一瞬に何か特徴があったのだろうか。

「キリコだな」

と言われ、反射的に

「会いたいんだ」

とつぶやいていた。

 

こんな時に会ってはいけない。

こんな安楽死に失敗した時に。

すぐに電話を切らなくては。

そう思うのに

「外にいるのか。雨の音がするぞ」

という声に、ああとうなずいてしまう。

今まで気づかなかったが、本降りになっている。

病院を出た時には小雨だったのに。

うちに来るかと尋ねられ、よければうちでと答える。

お嬢ちゃんには今会いたくなかった。

元気に話しかけられただけでも頭がガンガンして、ひどく傷つけてしまいそうな気がした。

 

いや、本当はこいつにだって会ってはいけないのだ。

こんなことで甘えてはいけない。

だがぐずぐずしているうちに

「家だな。すぐ行く」

という声とともに電話が切れた。

 

切れてしまった携帯をしばらく見つめた後、たたんでポケットにしまう。

何事かと聞かれても正直に話すことはできないのに。

 

単に疲れているだけだ。

こういうことは、時々あること。

巡り合わせが悪かった。

運がなかった。

それだけのことだ。

その度キリキリときしむ思いをしても、それは誰とも共有できない。

特にあいつには絶対に言えないのに。

 

家に着いた時には疲れ切っていた。

無意識の動作で重くなったコートをコート掛けにつるし、着替えなければ、せめて髪を拭かなくてはと思いつつ、ほんのちょっとのつもりでソファに腰掛ける。

目が疲れた、とつぶったところまでは覚えている。

 

――――***――――

 

受話器を取った時に聞こえたのは、雨の音だった。

あとは町のざわめきがほんの少し。

話しかけても無言だったので最初はいたずら電話かと思ったが、雨の中わざわざかけてくるのが変な気がしてしばらく付き合っていたら、なじみのある気配がした。

あいつか。

うちの方は雨が降っていないから、すぐ近くからと言うわけではなさそうだ。

「うちに来るか」

と聞いたが

「よければうちで」

と言われ、何かがあったのだろうと推測する。

普段なら、ピノコの相手を楽しそうにする男なのだ。

俺がこっそり嫉妬するくらい。

 

ピノコに

「急用ができた。今日は帰らない」

と言って出る。

「あん! お夕ご飯カレーなのに!」

と嘆く声がするが、それなら明日も明後日も残っているだろう。

奴の暗い声。

何があったのかはきっと教えてもらえないだろうが、それでもあいつは俺に電話を掛けたのだ。

あの弱みを見せたがらない男が。

 

車を飛ばし、奴の家に着くころには大粒の雨が降り注いでいた。

庭に車を止め、玄関に行きつくまでにかなり濡れる。

ドアの鍵は開いていた。

ソファに後ろ姿が見える。

コート掛けにかかった奴のコートの下の水たまりに眉をひそめつつ隣に俺のコートをかけ、その背に近づく。

男は髪の毛すら拭かずに眠っていた。

疲れきった顔で、眉間にしわが寄っている。

勝手知ったる他人の家、洗面所のタオルを失敬して髪の毛を拭きつつ戻り、ちょっと湿ったそれを奴の頭にかぶせてかき混ぜる。

「うわっ」

という声は無視。

こんな格好で寝やがって。

風邪引くだろうが。

普段言われるばかりのことを言うのは、妙な気分だがちょっと楽しい。

 

ごしごしこすっていたら、いつの間にか髪がぐしゃぐしゃになってしまった。

手ぐしをかけてやりながら

「世話の焼ける奴だな」

と言われるばかりのセリフを返しつつ、腕を引かれるに任せる。

奴の体に乗り上げるようにしての接吻は、普段と異なり少々乱暴で苦しかった。

腰と頭の後ろをがっしり掴まれ、咥内を余すところなく蹂躙される。

息継ぎがうまくできなくなり、最後は渾身の力でもぎ離した。

 

それが乱暴だったか、それともむっとして見えたのか、はっと震えて

「悪かった」

とうつむく。

そんな風に謝られたいんじゃない。

「そう思うなら、何か食わせろ」

と言うと、やっと

「色気より食い気の奴だな」

と口元をゆがめた。

そのまま台所に立とうとするのを遮り、今度はこちらから抱きついて口に吸いつく。

吸い付いたまま体重をかけてソファに倒し、びっくり見開かれた目を見つめながら舌で唇をノック。

潜入に成功する。

 

俺だってそれなりに舌の使い方を覚えたのだ。

そりゃあこいつには勝てないが、こいつの弱点が上あごの内側だということぐらいは覚えた。

余りそっちに集中すると、舌の裏側の中心線をなぶられてこちらもやばくなるのだが。

 

満足して顔を上げ

「別に色気を先に食ってもいいぞ」

とこけた頬を指でたどる。

ちょっと驚いた顔をした後

「お手並み、拝見しようか」

と皮肉気に笑う男。

表面は調子を戻した男に、こちらもにんまり笑い返す。

よし、今日は俺が挑んでもいいんだな。

 

男のシャツは湿っていて、ボタンが外しにくかった。

もたもたしているうちに俺の上半身も剥かれている。

相変わらず手際のいい奴だ。

首筋にむしゃぶりつくと、くすぐったそうな振動が起こる。

耳を甘噛みしながらベルトを抜こうとしたが、普段と逆方向の服を乱すのは思ったよりずっと難しい。

特に見ないでやるとなると。

 

それでも何とかファスナーも開け、中に手を突っ込んで片手でその質量を確かめる。

まだほとんと育っていないものを2、3度扱き、手を当てたまま舌ともう片方の手で奴の体をたどる。

もちろんこれは奴の真似だ。

よくこうして俺の体は調べられる。

あてたままの手をレーダー代わりに見えないツボを探られるのだ。

俺だって繊細でいい手を持っているはずなんだから、落ち着けばきっとわかるはず。

この男のいたずらな手がなければ。

 

背中を踊る手。

軽くタッチしてすぐ離れ、全く別の地点に触れるその指が気になって、自分の指先に集中できない。

髪の毛をくしゃりとかきまぜられ、思わず手の中のものに力を込めてしまい、低く呻かれる。

今のはわざとだというふりをしてそのままもぞもぞと手をうごめかせると、喉仏がごくりと動いた。

喉を大きく銜えて喉仏に舌を這わせると、危険を感じるのか手の中の勢いが心なしかそがれる。

そこでもう一度扱きあげたらまた喉仏が大きく動き、それとともに小さな声が聞こえた。

 

あ、これはいい、と思った刹那、わき腹を撫で上げられて飛び上がる。

「いたずらするな」

と軽くすごむと

「手馴れてきたじゃないか。どこでそんな悪いこと覚えてきた」

とニヤニヤされる。

「ここ以外、どこにある」

と言うと

「なるほど、教師がいいんだな」

とまたニヤニヤ。

くそ、しょってやがる。

けれど本当に事なので言い返さずにまた探る。

 

ピクリという反応。

俺は魚釣りはしないが、もしかして魚がかかった時にはこんな反応が返るのだろうか。

脅かしてしまったら、エサも食べずに逃げてしまう。

慌てて竿を持ち上げたら、魚はばらけて逃げてしまう。

うまく呼吸を合わせて掬い上げる、その興奮。

 

手の中の興奮が膨らんでいくにつれて、俺の興奮も増していく。

嬉しい。

楽しい。

物事に動じないような男が目を眇め、浅い呼吸を繰り返すさま。

普段より高くなったトーンで漏らす声。

今、これを聞いていいのは俺だけなんだ。

他の奴には聞かせるものか。

 

唐突に電話が鳴った。

お互いに動きを止めたが、すぐにキリコが

「いいから続きをしろ」

と俺の頭を抱え込んだ。

「用のある奴ならまた後で掛けてくるさ」

という男の言葉に甘えることにして動き出す。

電話は5回鳴ると留守電になったが、用件を話す声に

「兄さん」

と聞こえたような気がした。

 






(2)へ