(4)
大きなシミの出来たカーペットをはぎ取り、適当に切ってからごみ袋に詰め、換気をし、ソファを拭いたりテーブルのカップを洗ったりすると、彼女の痕跡は跡形もなくなった。
ソファテーブルにはいつものようにウィスキーの用意とキリコの作った簡単なつまみ。
改めてソファにどかりと座り、キリコが放ったビールを受け取る。
プルタブを引き上げ、グラスも使わず、そのまま一気に飲めるだけ飲む。
はあ、うまい。
「おいおい、乾杯もなしか」
と笑いながら俺の隣に座る男。
ほとんど中身のなくなった缶を相手の缶に押し付けたら、べこ、と鈍い音がした。
それにまた笑いながら中味を飲み干す。
「どうだ、おじさんになった気分は」
と訊ねると
「変な感じだ。俺はユリが妊娠していることも知らなかったんだから。それよりおむつを換えてやった子の赤ん坊を取り上げるなんて、自分がすごく年を取った気分だよ」
と照れくさそうな顔で答えた。
「まあ、確かにあの思いきりには驚いたな。医者だとはいえ、自分の兄とその、俺に取り上げてほしいっていうんだから」
と言うと
「『俺』ってなんだ? 世界的な名医か? 恐ろしく業突張りの悪徳医師か? それとも兄の恋人か?」
と突っ込まれ、ぐっと詰まる。
いや、もし一番目の理由ならいい根性としか言えないがな。
「ま、時々は血のつながった甥を見に行くんだな。幸せ家族にあてられてきな」
と何の気なしに言ったのだが、隣の男には異なる響き方をしたようだった。
「幸せ、ね。あいつにとっての幸せは小さい頃のように家族がそろってニコニコしていることなんだろうな。思い出は美化されるものだから。完ぺきを求めて俺まで巻き込まないでくれると嬉しいがね」
と苦く笑う。
そう、思い出は美しい。
確かに親子4人で過ごした日々は俺にも懐かしい思い出だ。
けれどそれは細部を忘れてしまうからだ。
母はユリを産んだ後体調を崩し、精神的にも脆くなったから、俺がちょっと男の子らしい冒険をすると激しくなじられた。
ユリがわがままを言うと、ヒステリーを起こして母も泣く。
特に疲れの出る夕暮れ時はいけなかった。
俺はよく
「妹の面倒をよく見るいい子」
と言われたが、何のことはない、平穏な時間が欲しかったからに過ぎない。
「本当の幸せっていうのは、過去か未来にあるのかもしれないな」
と奴がつぶやく。
幸せを感じる瞬間というのは存在する。
だけどそれはほんの一刹那で、次の瞬間は過去のものになってしまう。
例えば今日の出産だ。
あいつは激しい苦痛の末に、とてつもない多幸感に襲われていた。
ひどい苦痛と引き換えの脳内麻薬はまだ効いているかもしれないが、明日は排尿の苦痛にあえぐだろう。
10日後には寝不足でふらふらすることだろう。
1か月後には子育ての大変さに泣いているかもしれない。
そして早く手がかからないくらい大きくならないかと願うことだろう。
それでも今から10年か15年も経てば「生まれたてのあのころが一番良かった。すべてが私のものだった」と懐かしく思い出すものなんだろう。
つぶやくキリコをじっと見る。
俺も幸せな時間はほんの一時だって知っている。
苦労して頑張って、だからこそ大きな幸せが得られるってのは本当だ。
何年も血のにじむ努力をして、俺は常人以上の動きが出来るようになった。
それでもほんの少しサボれば、そんなのすぐに衰えてしまう。
書類を読んでいる時にボールペンを指の間に巡らせ続けるのは俺の無意識の癖にまでなっているが、そうして保つ指先の繊細さもちょっと腕を怪我すれば元の木阿弥。
天才と謳われるからこそ動かなくなった時の恐怖は巨大で、怪我する度これは動くようになるか、どれだけ訓練すれば元に戻るかとリハビリばかりを考え、過酷な訓練を課している。
オペが成功した時の多幸感は忘れがたいが、それまでの長い闘いの時間や部外者との諍いに巻き込まれた時には、俺は何でこんなことをしているのだろうと思いもする。
けれど。
「思い出が美しいからこそ、そんな思いを又したくて頑張るんだろう?」
と問いかけると
「お前は血のつながりが欲しくはないか」
と問いで返された。
ああ。
もしかしてそれを気にしていたのだろうか。
こいつは馬鹿な奴だな、と思う。
こんな俺だが、子供は好きだ。
自称18歳のピノコどころか単なる患者でもつい思い入れてしまうくらいだから、もしわが子なんてできたら大変なことになると思う。
こんなやくざな商売だ、結婚だの子どもだの考えてもないよ、と嘯いてはいるが、今日のように幸せな出産を見ると、こういうのもいい風景だと思う。
俺もいい年になってきたし。
でも、俺の血を受け継ぐ子供はいらない。
血のつながらない他人同士でも、こんな縁があればいい。
子どもの出来るかもしれない女より、こいつのことを俺は選んだ。
血のつながりのないピノコのことを、俺は誰よりも大事にしていく。
俺が欲しいのは血じゃない。
それよりも儚くて目に見えないけれど確かにある、こんな縁だ。
親のかすがいになれなかった俺が言うのもなんだけど。
人はみな、自分の牌で勝負するしかない。
事故に遭ってから長い間自分の牌を恨んできたが、あの配牌だったからこその今の自分だ。
俺には血の絆という牌には縁遠いが、別にいい。
その代わり、こんなにすごい牌を引き当てたんだから。
もちろんそんなこと、こいつには言ってやらないけれど。
出産に立ち会って気分が高揚しているせいか、疲れているはずなのに体がおかしい。
むずむずする。
新しい命の誕生に立ち会ったせいだろうか、本能が俺にも子供を作れと言っているらしい。
作れと言われても男同士じゃできないんだぜ、と本能に言い聞かせながらも欲望だけはしっかり受け継ぎ、奴に寄り沿う。
肩に手をかけ、そのまま顔を近づけた。
後のリードは任せる。
今は覇権争いをしたくない。
触れて、ほんのちょっと上唇を、下唇を噛まれ、なんだよ、と言おうと口を開くと舌が差し込まれる。
緩く合わせ、巻き合わせ、表面をこすり合わせながら、こんなことがしたい、と声を出さずに言い合う。
舌そっくりに体をゆっくり這い回る指。
けだるげなそれは気持ちいいけれど、それだけではだんだん我慢できなくなってきて、舌でねだる。
興奮しているせいかお互い唾液の分泌がよく、それを何度も飲み込みながら。
前は唾液が混じること自体が気持ち悪くて仕方なかったのに、俺も変わっちまったなあ。
こんな風にねだるどころか地肌に触れられること自体、反吐が出るほど嫌だったのに。
組み敷かれるなんて屈辱でしかなかったのに、今はこうされるのが好きだ。
もちろんこいつ限定だが。
こいつを抱きたい、というのも半分体面を保つための言い訳みたいなもので、本当はこんな風にされる方が気持ちよくなってしまっている。
うわ、こいつ今日はかなり情熱的だ。
溺れそうになりながら縋り付き、何とか負けずにリズムに合わせる。
音のなくなるこの瞬間。
オペの成功以外にこんな恍惚があるなんて知らなかった。
もしそれがこれきりのことになっても、今の瞬間のこの気持ちが消えるわけではない。
ユリさん、幸せになってくれ。
こいつだって少しずつ変わるよ。
俺だって変っているんだから。
それであんたと親密になるか疎遠になるかはわからないけれど、こいつもきっといい方に変わっていく。
だって今日、こいつは電話をかけてきた。
あんたの兄さん、俺に頼ったんだぜ。
ユリさんに言えなかったことを心でつぶやき、俺は脱力した男の重みを心地よく抱き留めた。
―――***―――
しばらくして体を離し、一緒に風呂に入った。
俺はさっきシャワーを浴びていたので、こいつの体を洗ってやることにする。
傷だらけの肌の上に、俺がしたいたずらの跡。
今日は助産師までして疲れたのだろう、今にも閉じそうな眼をしている。
「ほら、温まったら出ていいから」
と湯船に誘うと、躊躇なく俺の脚の間に入り込み、力を抜く。
後ろから抱きしめて、その肩口に湯をかける。
あの時こいつが部屋を出た後、ユリに言った。
お前はお前の家族を大事にするんだ。
確かにこの子にはほんの少し俺と同じ血が入っているだろう。
それにこの子を取り上げたという絆もできた。
けれど、後のことはお前たち、家族のものだ。
心配事や不満は、旦那や旦那の両親に言え。
言い合ううちに気心ってのは知れていくんだから。
こっちはこっちで忙しいんだ。
お前もよくご存じの、あの傲岸不遜な先生さ。
まだ続いているのって失礼な奴だな。
だから、お前のお守りは卒業させてもらうよ。
そう言うとユリは
「どっちがよ、私の方が清々したわ」
と言った後
「でも医者の知り合いとして、この子のことなんかで相談に乗ってくれるわよね」
と不安そうに言った。
もちろんさ。
医者の兄として、お前の心配事の相談には乗るよ。
お前がどんな俺になっても俺を捨てられないように、俺もお前が心配だから。
どんなに我慢させられても、やっぱり大好きだったユリ。
今はお前より大事な奴がいるけれど、やっぱりお前も大好きだ。
でも、お互いに別の一番がいる。
ゆっくり自然に疎遠になろう。
それは悪いことじゃない。
親より、兄妹より、血の絆より大事な相手が出来て、全くの他人がお互いを知りあい、蚕が繭を作るように少しずつ縁を深めていく。
お前も旦那とそんな縁を深めていくんだろう?
俺ももう、無理してお前と距離を置こうとはしない。
それでもお互い優先順位が変われば、少しずつ離れることになるだろう。
それが一人前になって、独立するということだ。
でも、心からいなくなるってことじゃない。
気づくと男がずしりと重い。
「のぼせるぞ。拭いてやるからベッドまで歩け」
と肩をゆすると何とか片目を開けたので、湯船から引きずり上げて、ふらふら揺れる体をバスタオルで包む。
抱きしめると寝ぼけながらも同じ力で抱きしめ返してくれる、力強い体。
肉親よりも誰よりも近づきたい相手。
この日俺は本当の意味で未来に顔を向けたのだった。
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