債務整理手数料

(3)

 

 

お役御免になった俺は、だがすぐに帰れなかった。

台風が来ているとかで、飛行機が飛ばなかったのだ。

患者に囲まれて、だが俺には何もできない。

依頼はあの息子のオペだけだったから。

何かやれることはないかと病院に掛け合ったが、無駄だった。

「痛みを取るための努力は私どもでもできます。でもここに来る患者に延命はできないんです。助かる見込みのあるものは、ほかの病院に搬送されるのですから。先生のお手を煩わせてはいけないと、上部から厳命を受けております」

と院長は言うと、キリコの名を呼びながら患者の元に走っていった。

 

ここに必要なのはキリコで、俺ではないのだ。

突きつけられた事実が痛い。

 

それでも部屋にじっとしていることができずに病院をさまよっていると、キリコに出会った。

奴が黙っているのをいいことに、病室に入るのについていく。

「先生が嫌がることをするよ。いいのかい」

と声をかけられたが動かずにいると、軽くため息をついた男は鞄を開け、支度を始めた。

安楽死の支度だ。

 

男はそれから数人を見送った。

日のある中の安楽死には、普段のような禁忌の色はなかった。

キリコが最後の確認を取ると、みな一様にほっとした顔をする。

施術が進むに連れ、苦痛にゆがんでいた顔に安らぎが訪れる。

 

俺はそれを黙って見ていた。

無力感にさいなまれながら。

俺はここで何をしているのか。

俺の手は、何のためにあるのだ。

 

今まで、無理だと思う症例をたくさん手がけてきた。

難病、奇病も。

けれど、相手からの依頼がなければ動けないのが医師だ。

承認なくオペなどしたら、ただの傷害。

刃物を持ったキチガイなんだから。

 

動き続ける奴の手を見ながら、ぼんやり思った。

今、人口増加が続いている。

爆発的に増え続けた口を潤し続ける資源はない。

発展途上国から始まっている飢饉はやがて世界中に広がり、弱者は切り捨てられるようになるだろう。

たとえば病人とか、老人とか。

「丈夫なものだけが生き残るのだ。動物も皆そうしている、自然の摂理だ」

と教え込まれる日が来てもおかしくはない。

そんな世界では医師とは命を救うのでなく、苦痛なく終わらせるために存在するかもしれない。

安楽死医こそが表の医者で、命を伸ばすためにあがくことは禁忌になり、闇の稼業になるのかもしれない。

 

どちらにしても俺が大手を振れないのは一緒だけれど。

 

 

いくつめだったか、奴についていった部屋の中に患者はいなかった。

男は奥の床に安楽死装置を置くとグラスを2つ取り出し、酒を注ぎながら

「座れよ」

と言った。

キリコの部屋だった。

部屋と言っても患者の病室とそう変わりない。

水道とトイレ兼シャワー室がある分、ましな個室だというだけ。

ソファも、余分の椅子すらない。

俺の部屋と一緒だ。

 

ベッドに座り、渡されたグラスをただ黙って口に運んだ。

奴も何も話さなかった。

ただそっと頭に手が置かれ、肩に引き寄せられた。

そのまま緩やかに手が動く。

頭を撫でられている、と気付いたのはしばらく経ってから。

 

憐みか。

俺がぶざまか。

 

普段ならそう言ってはねつけていただろうが、その時の俺は疲れすぎていた。

盗み見た顔は眼帯の側。

こいつは普段俺の右には座らないから、これもわざと、なのだろう。

 

力を抜いてもたれかかると、キリコが話し始めた。

「さっき俺が減らしたベッド、しばらくするとまた埋まっているんだ。最悪の事態は回避したと発表しているが、内実は酷いもんさ。

ここにたどり着く前に亡くなった者は退避圏内の焼き場で焼くが、放射能のせいで遺骨を遺族に渡すこともできず、一応箱に入れて大穴に並べているんだそうだ。

退避圏内で暮らすものも多い。

原発関係の後方支援は金になるし、そこまで危険じゃないから、と中高年以上のものがかなり出稼ぎに行っている。

とにかく仕事がないからな。

空き家は荒らされ、使えるものは闇で売買されているらしい。

退避圏内で農業を行い続けるものもかなりいる。

本当はいけないんだが、危険でも飢えよりはましと言うわけだ。配給の食べ物は子供に回して、大人はそんなのを食べるのさ」

 

ああ、この男は疲れている。

この人々を一人で看取るなんて、無茶だ。

だがこいつは、自分が倒れるまで使命を遂げようとするだろう。

 

 

「お前さんは素晴らしい医者だよ」

あ。

言ってはいけないことを言ってしまった。

 

 

男の腕が離れ、一瞬後に両肩をつかまれた。

顔を見られるのが嫌で懐に飛び込む。

頭上で嗚咽をこらえるような音がしたが、気付かないふりをした。

 

そのまま固く抱擁を交わすうち、男の重みがかかってきた。

眠ってしまった男をそのままベッドに横たわらせ、壁との狭い隙間にねじりこむように入って添い寝した。

こんな風にこの男の吐息を聞くのもこれが最後だろう。

この髪に触るのもこれが最後。

そう思いながら頭を撫でると眉間が解け、吐息が深くなった。

ピノコみたいだ。

くすりと笑った途端、一気に睡魔が押し寄せたようで、それから以降の記憶がない。

 

目が覚めると、一人だった。

少々寝坊してしまったらしい。

台風前線が停滞しているため、今日中に飛行機が飛ぶかは微妙だったが、俺の気持ちは持ち直していた。

もうずっと熟睡をしていなかったから、少々ナーバスになっていたのかもしれない。

 

今日は食い扶持分の働きをするだけだからと地元の医師を説き伏せ、治療にあたるのに成功した。

オペが出来なくても、俺が出来ることはある。

それこそ、山のように。

最終的には安楽死を選ぶのだとしても、それまでの間をただあきらめて過ごすのでなく、苦痛を和らげ、励まし、生きていてよかったと思える何かを見つけさせてやりたい。

一口の水がうまかったでも、顔に当てた濡れ布巾が気持ちいいでも、何でもいいから。

 

働き続ける俺を見ても、奴は何も言わなかった。

俺がもう奴の邪魔をしないことが分かっていたからかもしれない。

 

 

ここは、もしもの世界。

逆さまの世界。

起きてはいけなかった世界。

 

でも事は起きてしまった。

 

台風に少しだけ感謝した。

キリコといられる時間が持てたから。

奴はもう日本には帰らないだろう。

この国はこいつを必要としている。

残念ながら。

ああ、この男が必要なくなる世界などないのだろうか。

 

 

人よ、願いすぎてはいけない。

真に願えば神はかなえる。

それが人の希望通りとは限らない。

 

 

 

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