手のひら (1)
(キリコ、独白)
もうだめだ。
終わりだ。
ドアが荒々しく閉まるのを背後に聞いた。
壁の時計の音が耳につき、振り向いた時には誰もいない。
今までいたほうがおかしかったのだと思う。
最初から1人だったのだ。
すぐに慣れる。
そのはずだ。
空気が動いている。
それが電話の音だと気付くのにしばらくかかった。
受話器を取った時には切れていた。
依頼だったのかと思うが、仕方ない。
相手にその気があればもう一度かけてくるだろうし、あきらめたらそれだけの縁だったということ。
多分。
気が付くと部屋が暗くなっていた。
カーテンが開きっぱなしなので、街頭の明かりで闇にはならない。
ぼんやり空腹だと思い、だが食べる気にはならなかったので水を飲む。
味気ない。
酒に変えるが、何の味もしない。
のどを通る時に熱くなる、それだけが水との違いだ。
灰色の部屋。
当たり前だ。
俺の人生に色などあるはずがなかった。
今までの方がおかしかったのだ。
明日はちゃんと社会生活をしよう。
受話器を取って人と話し、飯もたべよう。
不意にあの男の姿が浮かび、頭を抱えた。
過ぎたことだ。
過ぎ去ったことだ。
俺の使命は何だ。
何のために生きているのか、思い出せ。
死んでいった戦友、手にかけた人々、彼らの顔を思い出そうとしても、次の瞬間あいつの顔に変わる。
これほどまでにしっかり根付いたものを追い出すのは容易ではないだろう。
でも、忘れなくては。
一生無理な気もするけれど。
(BJ)
奴と大喧嘩をした。
怒鳴りあい、相手の急所をえぐりあう真似をして部屋を出た。
もうダメだ、おしまいだ。
大体ハナから無理だったんだ。
俺とあいつでは違いすぎる。
意見も性格も何もかもだ。
腹の底から煮えくり返って外に出て、車の中でありとあらゆる悪態をつき、ピノコの夕食に文句をつけ。
寝る段になって後悔する。
ピノコ、ごめん。
八つ当たりだった。
お前を泣かせるつもりなんてなかった。
涙の残る頬を撫で、ごめんと心でわびながら頭を撫でる。
彼女の顔がふんわり弛緩していくまで。
朝起きると、日常があった。
ちょっとこげた目玉焼きとトースト。
レタスが2枚。
俺には少々薄いコーヒー。
「いただきます」
と元気に食事を始める少女。
何も不足はない。
依頼は来るし、なくても人に煩わされないから結構なこと。
パイプにつめるすてきな香りの葉もあるし、食後に入れなおしたコーヒーはいい味だ。
興味深い事例の書かれた雑誌も届いたばかり。
なのに、文字を追うことができない。
浮かぶのは奴の顔だけ。
どうしているだろう。
ストーカーから離れられたとすっきりしているだろうか。
「せんせい、なんかさみしそう」
小さな手の平が頭を撫でる。
「そんなことないよ」
と言いながら、その手のひらが大いに慰めになっているのを知る。
ああ。
あいつにこんな手があるだろうか。
妹さんはいるが、彼女は結婚して子供もでき、自分の家族に忙しくなっているはずだ。
「そうやってゆっくり疎遠になればいいと思っているんだよ。あの子はやっと愛情の行き先を見つけたんだし」
と笑っていたあいつは、言葉を濁して彼女の家には寄り付いていないらしく、2度ほどキリコの様子を電話で聞かれたことがある。
女関係は、どうだろう。
その気になればいくらでも付き合える男だから、きっといるだろうな。
もともとヘテロだし、客観的に見れば奴はいい男だ。
顔は踏めるし、金離れもいい。
職業と性格には難ありだが、スマートでそれなりに親切だ。
もう俺のことなんてすっかり忘れて、遊びまくっているかもしれないな。
はあ。
ため息しか出ない。
胸にぽっかり穴が開いてしまっているので、いくら息を吸い込んでも肺が膨らまず、抜け出てしまう。
でも現実には穴なんかないので、吸い込みすぎた息を吐くのにため息になる。
ちゃんと酸素は取れているのだから、こんなに空気ばかり吸い込む必要なんてない。
頭ではそう思っても、俺の体は酸素が足りないと息を吸い込む。
どんなに肺を膨らましても、穴のおかげで酸素は血液に混ざらない。
満たされない体がため息を作る。
それををごまかすためにパイプを吸っていたら、チェーンスモーカーになっていた。
「せんせいのおへや、もくもくでけむい!」
とピノコに怒られ、窓を開けるが
「んもう、このおへやにいたらせんせいもけむりでいぶされちゃう。ピノコがおそうじしたげるから、いいっていうまでお外に出てなさい。」
と家を追い出されてしまった。
仕方なく、久しぶりに崖を降りて海岸を歩くことにする。
一人ぼっちの、俺の居場所。
さみしいシャチがいた。
だめだと言っても毎日俺に会いに来て、力尽きて死んだ。
浅瀬に横たわるトリトンの幻が、奴に変わる。
あいつもきっと、誰にも何も言わずに静かに力尽きるだろう。
だめだ。
それは許せない。
焦燥感に包まれて階段を上りながら、ならどうするのだ、と己に問う。
安楽死を続けるあいつを見ると、密室に閉じ込めて俺の意のままにしてやりたくなる。
そのオペは本当に患者の為だったのかと問われると、考えれば考えるほどわからなくなる。
俺はみじめだ。
卑怯な己と向き合うのが怖くて、怒鳴り散らした。
おためごかしの正論を吐いて、奴を詰った。
もう金輪際会うもんかと啖呵を切って奴の前から逃げたのだ。
もやもやするのは当たり前だ。
ため息が出るのも当たり前だ。
自分が悪いことが分かっているのに、自分も悪いことをされたからお返しだ、なんてガキのすること。
しかも大人は正当化がうまい。
ガキの時のように、自分が悪かったことにすらすぐに気が付かないんだから。
そのまま奴の家まで車を駆ったが、留守だった。
アポなしで来たんだから、こんなものか。
それから都内に用があると、奴の家に寄った。
奴にはなかなか会えなかった。
いつものように電話やメールは使いたくなかった。
だがそうなると、「遭遇」という言葉を使わなければならないほど会えないものなのだと痛感した。
3か月経った。
朝食の席で、ピノコが
「このごろキリコのおじちゃん、こないね」
と言った。
「ああ」
と答えると
「先生はどこかで、あってる? おりょうりおしえてほしくて、なんどもおでんわしてるんだけど、おへんじこないの。いつもなら1しゅうかんとか、1つきくらいでおでんわくれるのに」
と口を尖らせる。
「最初に電話をかけたのはいつだ?」
と聞くと
「うーん、ずいぶんまえよ。バレンタインのチョコ、おしえてほしいとおもったときだから」
と言う。
じゃあもう、2か月も経つじゃないか。
おかしい、と思った。
俺と絶交したからピノコも無視したのかもしれなかったが、それでも何度もかけていれば何か一言くらいありそうな気がした。
思い切って奴の家にかけてみたが、やはりつながらない。
数日の間、時間帯を変えたりして何度もかけなおし、そのあと情報屋に連絡した。
「ドクター・キリコかい? このごろ各地に出没しているらしいね」
といったん切れた電話は10分後に鳴り
「やっこさん、3ヶ月くらい前から仕事のスタイルを変えたみたいで、1週間ほど前までは精力的に国内外を駆け回っていたようだ。
けどそれからばったり消息がつかめない。とりあえずわかった分だけリストを送るよ。もうちょっと待ってくれ」
とまた切れ、今度は翌日になってもかかってこない。
かなり腕利きの情報屋なのに。
FAXで送られたリストを見ると、本当に奴は驚くべき移動を繰り返しているようだった。
もしかしたら、俺と別れてからまともに家に帰っていないのかもしれない。
もうあの家には戻らないつもりなんだろうか。
俺と一緒にいた場所すら、奴にとっては忌避すべき場所なんだろうか。
気持ちがくじけそうになったが、2日後にかかってきた情報屋からの連絡を聞くと、そんな気持ちも吹っ飛んだ。
奴の最後の足取りが分かったのだ。
そこはZ国。
安定した経済力と治安の良さを売りにした国だったが、数年前に原子力発電所の事故が起こってからこの国は一変した。
政府と野党、原発企業が責任のなすりあいをし、政治が迷走。
対応が後手に回り、一度は持ち直したかに見えた原子炉の燃料プールが溶解したのだ。
結果、首都を含む国土の半分が避難地域になった。
もともと低かった食料自給率がほぼ0になり、物価が高騰。
島国なので、自力で国外に出ることもかなわない。
指導者にあたる人間達が、金を積んで真っ先に逃げた。
自分は逃げずとも、家族を逃がした。
そんな非難ばかりが国会で幅を利かせ、政治は泥沼。
航空券はうなぎのぼりで、残された庶民には手が出ない。
放射能の恐怖から、国際的な援助も遅れている。
結果人心が荒み、窃盗、強盗が日常茶飯事の荒れ果てた国になったという。
今は渡航禁止になったその国に、奴は招かれたまま行方が知れないというのだ。
そんな。
突如足の下にぽっかり穴が開いたような気がして、目の前の机にしがみつく。
奴のスーツの後ろ姿ばかりが思い出される。
「あばよ」と後ろを振り向かずに去っていく姿。
最後に別れた時、去ったのは俺のほうだったはずなのに。