(下)
「馬鹿。早く水で冷やせ」
突然手首を掴まれて水道に引っ張られる。
「あーあ、お前さん何してるんだ、大事な右手を。湯を切らずに水を入れても、下の方は熱いってのもわからないか」
ざぶざぶと水をかけられ続けた手はすぐに痛いほど冷たくなったが、しばらく放してもらえなかった。
「まだ赤いな。痛むか?」
後から抱え込まれているから仕方ないが、耳元で話すのはやめてほしい。
ただ心配されているだけなのに、ピノコの前で赤面しそうだ。
「もう平気だ」
と言うと
「後で薬付けろよ」
とやっと手を放され、背中のぬくもりが消えるのを惜しく思いながらもほっとした。
「しかし、ただ蕎麦を茹でるだけでここまで騒動にできるとはな。お前さんらしいと言ったら、らしいけど」
呆れたように腕組みする男の隣で鍋を覗くと、蕎麦は一塊の妙な物体に成り果てていた。
それどころか鍋の吹きこぼれでガス台が白いねばねばで覆われているし、菜箸は床に転がっているし、数時間前にきれいに掃除した部屋とは思えない。
「まあ一応先生とお嬢ちゃんの手料理だからな。水で絞めれば何とか…」
呆れたように言いながらも鍋を掴んで何とかしようとする男は普段のキリコだった。
さっきまでの投げやりな男ではない。
俺達のこと、いつから見ていたんだろうか。
蕎麦はどれも10センチ位に切れたものばかりで
「細く長く生きられますように」
という縁起にはあやかれそうになかったが、食べられはした。
鍋底にへばりついたのが多くて夕飯には足りず、缶詰や瓶詰がずらりと並んで独身男の宴会みたいになったが、だれも、ピノコすらおせちを開こうとは言わなかった。
あれは正月の特別なものだ。
新年になって、新たな気持ちで食べるもの。
夕食後、鍋とレンジを洗おうとしたが
「おまえは冷やしとけ」
と小さな保冷パックを握らされ、後の二人が掃除をするのを眺めることしかできなかった。
きれいにしているんだか汚れを伸ばしているんだかわからないと思っていたピノコの手際はいつの間にか格段に上達しており、子どもの吸収力の強さ、彼女の向上心の高さを感じることになった。
風呂の後、キリコのTシャツをウエストで絞り
「ひらひらして、ドレスみたい」
と跳ねまわっていたピノコも紅白を見ているうちに船を漕ぎだしたので、キリコが鍵を開けてくれた部屋のベッドに寝かしつけた。
お疲れ様。
居間に戻ると、奴はただ虚空を見ていた。
前のソファに座り、男を見つめる。
しばらくすると男は瞬きし、俺が前にいるのにちょっと驚いた顔をした。
「酒でも出すか」
と腰を浮かそうとするのを
「正月になってからでいい」
と制し、隣に移動する。
少し体重をかけても拒否はされなかったので、もう少しもたれかかってテレビの画面を見るともなしに見ていると
「聞かないんだな」
と声がした。
「聞いていいなら聞くぞ」
と言うと、しばらくして
「いや、いい」
という呟き。
俺たちは知っている。
言っても詮無いことがあることを。
人には他人と共有できないものがある。
こいつの絶望を、俺は理解できないだろう。
俺の憎しみを、こいつは知ることがないだろう。
どんなに推察しても、本当の深淵を覗くことはできない。
きっと、ずっと。
どんなに近しい人間でも、たとえ親子だって相手のすべてをわかることなんてできないから。
生まれた赤子の気持ちを親がすべてわかったら、赤子はあんなに全身で泣いて己の要求を知らせないだろう。
だが赤子は泣き、親はその子が今欲しいのは何かを必死で考え、ためす。
そうやって親と子は親子になっていくのだ。
幼い俺も注意深い観察と努力と愛情で寝たきりの母のほんのわずかのまばたきを読み解いた。
俺は確かにお母さん子だったが、事故前にそんなこと、できた訳なかった。
知りたくて、知りたくて、少しでも知ろうと母の元にはべったのだ。
すべてを知ることはできなくても、ほんの少しでも知りたくて。
相手を知りたいと焦がれるなんて気持ち、母に使い切ってしまったと思っていたんだがなあ。
奴の背中とソファの間に腕を突っ込み、しっかりと腰を抱くと
「なに、アプローチ?」
と面倒臭そうに問われた。
「違う。たまにはお前がこっち寄れ」
ともう一方の手で男の頭を掴み、俺の肩に乗せると
「きつい。いくら俺の胴が短いって言ったってお前さんより背が高いんだ」
とか何とか聞き捨てならないことをしばらくぶつぶつ言っていたが、俺の気が変わりそうにないのを悟ったらしく
「どうせならこっちがいい」
と体を倒して俺を膝枕に寝転がった。
しばらくすると人間の頭の重みに足がしびれてきたが、自分から言い出したことだ。
我慢して髪を梳いているとかすかな寝息が聞こえてきた。
かがんで顔を覗き、眉間のしわがなくなっているのにほっとして俺も目をつぶる。
エアコンで温かいから、一晩くらいここで寝たって風邪をひいたりしないだろう。
夜中に尿意を感じて起きた時、のどは大丈夫だったが足がしびれてなかなかトイレに立てず、大変な思いをした。
這いずるようにトイレに行き、ふと時計を見るともうすぐ12時。
戻ると奴が起きていた。
なんだ、そっとどいたつもりだったのに、と思ったが、手招きされるままに横に座ると
「新しい年だな」
とささやかれた。
酒でかすれた、でも二人の時の声で。
男の目を覗く。
まだ悲しみの澱はあったけど、俺のことをしっかり見ていた。
「今年もよろしく頼む」
と言うと
「お手柔らかに」
と苦笑する。
「病院でかち合った時はその限りじゃないがな」
と言うと
「お前さんがムキにならなければ世の中簡単なのにな」
とため息をつく。
「何だと。お前さんがムキにさせるんじゃないか」
と言おうと思ったのだが、途中でさえぎられ、そのまましばらく口付けに没頭。
ああ、やっと男の体が熱い。
そうやって熱くなれよ。
いつも一人でいられるのは知っている。
感情の起伏を少なくするのは仕事柄の自衛なのだということも。
多分こうして俺が近づくたび、お前はその後の調整に苦労するんだろう。
それでも。
抱擁を解いた後も奴の顔を見続けていたら、くるりと後ろ抱きにされた。
奴の膝の上で居心地悪く身じろぎしていると、耳元に
「このおせっかい」
と吹き込まれる。
「お前は本当に節介焼きだ。人の都合も考えないで。台風みたいに暴れまわって」
憎まれ口をききながらぎゅうぎゅう抱きしめてくる男の腕に手を沿わすと
「今年もよろしく」
とポツリ。
そのタイミングで言われたら増長するぞ、とおかしく思いつつ、いつでも来ていいと言われたようで嬉しかった。
『旅文章』→『お正月』の前の部分です。
ニアピンリクを30日から書き始めたら正月に行き着く前にかなりの枚数になったのと、リクエストから外れてしまったので独立させました。
ine様、ちょっとリクエストから外れますが、一緒に考えたものなのでこちらも捧げさせていただきます。
どうもありがとうございました。