お笑い芸人

シーの夜(上)

 

 

「それ、あの時の金か」

後から声をかけられる。

振り返らず

「車に残っていればいいのに。ピノコが1人になるじゃないか」

と答える。

「車のキ−は抜いてきた。ほんの少しの時間なら安全だろう。それよりも」

と言い募る男に

「ああ、そうだ。今日はつき合わせて悪かったな」

と言うと、くしゃっ、と乱暴に頭をなでられた。

「ここからは俺が運転するから、お前さんは助手席に座りな。体、かなりつらいんだろう?」

という言葉にお前こそ、と思ったが、体がつらいのは事実だったので助手席に回る。

自分の車の助手席なんぞ乗ったことがないから、変な感じだ。

こんなラインを走ったら左車線にはみ出てしまうんじゃないか、なんてつい考え、俺の位置が左なんだと気づいて苦笑する。

「なんだ、思い出し笑いか?」

という問いに適当に応え、目をつぶる。

疲れたけど、気分転換になったのは事実だ。

ピノコも案外俺達に気分転換をさせたいと思っていたのかもしれない。

 

 

夢を見た。

あの時の夢。

俺は窓一つない部屋で拘束されていた。

多分リンチやその手の事に何度も使われているのだろう、妙に生臭い匂いがする部屋。

血と汗と涙と小便と精液と、もろもろの体液が床に滲みこんで落ちないのだ。

陰湿なその匂いだけで、普通の人間なら心萎えてしまうだろう、そんな場所での"説得"。

 

俺は拘束とか脅迫なんかが大嫌いだ。

そんな事をされたら余計に頑固にならざるをえない。

だから頑固にしていたら、そのうちに風向きが変わってきた。

「なら気が変わるまで俺達の相手をしてもらおうか」

っていう、あれだ。

「先生、ちょっと俺たちの診察もしてくれよ」

「どうせちょっとオペがうまいだけのもぐりなんだろ」

という下卑た言葉に

「こっちは世界的に名の知れたもぐりだぜ」

と啖呵を切る。

それで1発多く殴られようが、知ったこっちゃない。

ガツンと打たれて頭が一瞬ぼんやりしたところで転がされ、タイをむしりとられた。

後はお定まりのコースを一直線。

 

散々なぶられ、笑いものになり、変な道具をつけられたり入れられたりして、写真だのビデオだのを撮られた。

出口をせき止められたまま、機械の刺激を受け続けて気が狂いそうになる。

「こんな淫乱、突っ込んだら俺のがイカレちまう」

「はは、違いねえ」

男達はそんなことを言いながら俺の顔めがけて放尿し

「きったねえなあ」

とわき腹を蹴る。

多分すでに肋骨が2,3本折れているのだろう、痛みが脳髄に響き渡る。

「先生、そろそろ気が変わったかい」

「こんなビデオ、世に広めたくはないだろう?」

という勝ち誇った声。

 

そんなビデオ、なんだってんだ。

そんなことが脅しになるようなら、こんなモグリ、やっているもんか。

人からさげずまれるのには慣れている。

この姿になってからずっとそんな目で避けられ続けていたのだ。

大体こんなビデオで抜ける奴、いるか。

こんなのただの暴力でしかない。

広めたくても赤字になるのがオチだろうよ。

 

「おい、顔はだめだ。顔は殴るな」

「この野郎、甘やかしておけば。やっぱりくそ先生は機械じゃなくて俺達にヒーコラされないと満足できないようだな」

「確かあっちにエイズって噂の奴、いたんじゃないか」

「それより先生にヤクをやって医療ミスさせたほうが手っ取り早いんじゃないですかい」

「それもそうか。おい、誰かちょっと調達してこい」

ぼんやり聞いていて、とんでもない、と思う。

この俺が、クスリで医療ミスなんて。

そんなの、いやだ。

絶対に。

 

ああ、だけどもう指一つ上がらない。

 

その時、急にあたりが騒がしくなった。

今までとは違う、暴力的な殴り合いの音がするが、俺の体は痛まない。

どうして、と無理やり目をこじ開けると目の前に依頼人であるこの組の組長と、俺のよく知る長身の男が立っていた。

 

男は

「これは彼にオペをさせるのは無理ですな。大急ぎで他をあたったほうがいいですよ」

と言いつつコートを脱いで俺にかけると、そのまま俺を乱暴に肩に担ぎ

この男は一応知り合いなので、連れて行きます」

と言いながらゆっくり歩き出した。

振動が、苦しい。

だがそれよりもコートから硝煙と血の匂いがするのは何故だ。

 

オペってなんだ。

あの患者はどうなった。

なぜお前がここにいる。

どんな仕事をさせられた。

何故血の匂いなんか。

聞きたいことはたくさんあるのに、痛みで意識が遠のいていく。

 

 

「着いたぞ。鍵を開けてくれ。俺はお嬢ちゃんを抱っこするから」

と言われ、あわててシートベルトを外す。

彼女はぐっすり眠っていた。

キリコがベッドに置く時だけ身じろいだが、うふふ、と笑うように口元が動いただけだった。

今日は靴だけ脱がして、着替えはいいことにする。

布団をかけると大きくため息をついて、呼吸が本格的な寝息に変わる。

気持ちよさそうな寝顔に頬が緩む。

 

なあピノコ、今日は楽しかったかい?

俺は今日、疲れたけどやっぱり楽しかったよ。

お前が楽しかったなら。

 

遅いのと疲れているのとで、簡単に風呂に入って寝ることにする。

奴は患者の部屋に行こうかと言ったが、俺のベッドの横に布団を敷き、そこに寝かせることにした。

布団を運ぶのは面倒なのだが、なんとなくまだ男の容態が心配なのかもしれない。

 

 

気がつくと、俺はキリコの家にいた。

私室ではなく、患者の部屋だ。

どうやら風呂に入ったらしく、体がさらさらしているし、いつものパジャマを着せられている。

胸にはコルセット。

寝転んだまま手足をもぞもぞさせながら体の状態を確かめようとするが、気力が続かない。

 

目をつぶって次に開くと部屋の中には朝の光が入っていた。

トイレに行きたくなり、歯を食いしばって起きる。

畜生、腰の中が空っぽになっちまった様で、足に力が入らない。

もつれる足をあやしながら、何とか前に進んでいく。

あいつ、どこだろう。

なんとなくすぐに様子を見に来る様な気がしていたが、用を足し終わっても物音一つしない。

 

腹が減った。

リビングを覗いたがいないので、ゆっくり2階への階段を登る。

奴の部屋をそっと覗くと、死んだように眠る男の姿があった。

気配に聡い男が、寝返りも打たずにひたすら眠っているようだ。

よほど疲れているのか。

そっと出てドアを閉め、階下に降りる。

適当に冷蔵庫を漁らせてもらおう。

 

台所の戸棚にカップ麺があったので失敬する事にする。

うまい。

腹に染み渡る。

感涙にむせびながらずるずるすすりつつふと周りを見ると、裏口の前に大きなゴミ袋が置いてあった。

さっきから変な匂いがしているの、これだろうか。

気になって口を開いてみると、むせるような血の匂い。

そこに鋭い硝煙の匂いが混じる。

奴のコートとスーツ1式には、血がべっとりこびりついていた。

 

そうだ、コートに包まれた時、この匂いは何だと思ったのだ。

あいつ、どんな状態で俺を担いだのか。

 

もう一度手すりにすがりながら2階に上る。

足音を立てずに枕元に向かって顔を覗くと、奴はたくさんの枕に埋もれたような、半分起きた姿勢で寝ていた。

そっとカーテンを引くと、普段より余計に白い顔。

なのに頬だけ奇妙に赤い。

熱があるのだ。

 

 

 

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