後日譚
やはりずいぶん無茶をしたようで、一旦眠った奴はなかなか起きなかった。
丸1日と半分の間ほとんど目覚めることはなく、たまに起きてもトイレに行き、何かをつまむとまたすぐにベッドに潜り込んでしまう。
でもきっとこれが奴の傷の直し方なのだろう。
その間俺はルームサービスを頼み、現地のテレビを見たり、持参の本を読んだりして過ごした。
時々うめき声が聞こえるとそばに寄る。
髪をなでても額に触れても目を開けることはないが、大丈夫だ、とささやきながらしばらくすると眉間のしわが取れる。
申し訳ないが、携帯はOFFのままだ。
仕事は今だけ勘弁してくれ。
後で間に合ったら、必ず行くから。
奴が寝ている間はそんな風に過ごしていたのに、目を覚まして、出歩けないまでも起きていられるようになってくると、だんだん二人きりでいるのに息切れしてくる。
ずっと一人でい過ぎたせいか、誰かと同じ部屋にこもりっきりで居続けると空気が薄くなったように感じられるのだ。
奴が嫌なのではない。
ただ、ほんの少し独りになりたくなるだけ。
奴の方はお嬢ちゃんと暮らしているせいかあまりそういうことはないようだが、鈍い奴にしては敏感に察したらしく、昼食の後外に出てこい、と言われた。
自分の代わりに1日かけてお嬢ちゃんの土産でも見繕ってこい、と。
ホテルから出てしばらく歩いた後、流しのタクシーを拾って繁華街に出る。
ホテルの敷地内のタクシーは外のタクシーの倍以上の値段を吹っかけるから、そうしろと教えられたのだ。
あいつのことはすごく気に入っているのに、何でずっと二人きりでいられないんだろう。
閉鎖空間に二人きりなのがだめなんだろうか。
一人でいるのに慣れすぎているのかもしれない。
そういえば、以前付き合っていた女たちも、1日一緒にいると気が狂いそうになったっけ。
あいつとは丸3日もい続けられたのだから、最長記録更新ではあるのだが。
とにかく今は一人の自由を満喫しようとぶらぶら歩く。
土産物屋を冷やかしたり道端のタバコを1本買いするのは楽しかったが、3時間もすると置いてきた奴のことばかり気になってきた。
テレビだけでは退屈だろうから、古本屋で日本語の本でも物色しようか。
英字新聞、俺も読むだろうし、買っていってもいいか。
あの菓子、甘そうだが奴なら食べるだろうか。
気づくとお嬢ちゃんでなく、奴へのものばかり買っている。
これはいけない、と本格的に土産屋に入り、女の子の好きそうなきれいな小箱と美しいベッドカバーを買い、ホテルに戻るべくタクシーを捜した。
部屋に戻ると奴がびっくりしたような顔をした。
夕飯も外で食べてきていいぞ、と言われたのにこんな時間に戻ってきてしまったのだ。
もしかして奴ももう少し一人になりたかったのだろうか、と思ったが、もう帰ってきてしまった。
悪い事したかな、と罰が悪い気持ちだったが
「早かったな」
と言う顔は機嫌のいいもので、菓子を差し出したらもっと機嫌がよくなった。
持参のティーバッグでお茶を入れ、奴が食べるのを見ていたら
「明日のチケットが取れたから帰ろうと思う」
と言われた。
傷はまだふさがってはいないが歩いてもふらつかなくなってきたし、お嬢ちゃんが心配なんだろう。
俺の取った航空会社は今日を逃すと明後日しかフライトがないので、では明日でお別れか。
「じゃあせっかくだから夕食はどこかに食べに出るか」
と言うとしばらく奴らしくなく下を向いていたが、顔を上げざま
「なあ、したい。だめか」
と真剣に詰め寄られた。
少々たじろぐが、よく見ると指先がズボンのひざをぐちゃぐちゃにしている。
こいつ多分、今すごく緊張しているな。
本当は怪我をしたばかりなのだからそういうことはしないほうがいいと分かっているけれど、何かのトラウマを拭おうとしているのかもしれない。
なるべく腕に負担をかけないようにそっとすれば。
「お前がおとなしく抱かれているなら」
と言うと
「俺が抱いちゃだめか」
と問われる。
もしかしてダメージを受けた、男性としてのアイデンティティを取り戻したいということだろうか。
そう考えるとちょっとほだされそうになるが、いつも「ああ」なこいつが左手だけでどんな事をするか、ちょっと想像して即座に「ごめんだ」という結論に達する。
俺はそこまで聖人ではない。
「抜糸の済んでいない奴が何を言う」
と言うと不満そうな顔をちょっとして、それでも黙って顔をすり寄せてきた。
口を吸いながら服を脱がせていく。
いつも通りのごつごつした体。
傷跡がいたるところで盛り上がった、お世辞にも滑らかとは言えない。
でもそのでこぼことした感触がないと、すでに寂しい。
暗闇でも、たとえもう一つの目をつぶされても、触ればきっと分かるだろう。
綺麗ではないかもしれない。
でもこいつがこの傷を誇っている限り、これはこいつに似合っている。
顔を体に落とそうとしたら、急に飛びのかれてこけそうになる。
「悪い、やっぱりシャワーを浴びないと」
と言う奴が、今すごく憎たらしい。
「ここまで来てお預けか」
とすさんだ声が出てしまう。
だが視線をそらして
「俺、カレーくさいような気がして嫌なんだ」
と言われると、それも仕方ないかと思う。
正直、こっちでカレーばかり食べていると、自分の汗がカレー臭くなっていくのが分かる。
トイレに入ると、出てくるものが香辛料臭いのだ。
もちろん日本に帰ると空港が大豆臭いので、どっちもどっちと言うところなのだが。
寝てばかりいて汗もかいただろうし、利き手が使えないのでシャワーだって不十分だったはず。
こいつはこういう時には潔癖だから気になるんだろう。
自宅に帰ってもしばらく不自由するのだろうから、スキンシップも兼ねてしっかり洗ってやるか。
もちろん風呂の中ではそれ以上のことをするつもりはないが。
バスタブに湯を入れながら、右手にしっかり防水する。
なるべく動かさないよう注意していたから薄い膜が張っているが、こういうときに無理をすると傷口が裂けてひどく痕が残るのだ。
こんなふざけたことを思い出させる傷を残すなんて嫌だ。
俺も脱ぎ始めたらちょっと動揺した顔をしたが
「何だ?」
と聞くと
「何でもない」
とそっぽを向いた。
何気ない風を装っているが、バスタブに向かう右手と右足が一緒に出ている。
知るほどに味の出る奴だ。
バスに入り、奴を抱きこむ。
石鹸をあわ立て、湯の外に出ている所を洗っていこうとすると
「それだと湯が汚れるんだよな」
とため息をつかれた。
根っからの日本人である奴は入っている湯を汚すことに抵抗があるらしいが、ではどうやって洗うのだろう。
ゆったりバスに浸かってから湯を抜いて体を洗っていくのだろうか。
そんな湯の無駄遣い、許されない気がするのだが。
まさかシャワーで頭や体を洗った後に湯を入れなおして浸かるとか?
そんなの、こんな風に湯の出の悪い場所では風邪を引くんじゃなかろうか。
「バスの湯は汚すものだから仕方ないだろう」
と言いつつ、まだ緊張して硬い体をまさぐるようにして洗っていく。