酔っ払うーK(上)
俺は依頼人の元にいた。
彼女と会うのはこれで3度目、そして最後になるはずだった。
お別れの用意をしようとカバンを下ろした病室のドアを、突然開けた奴がいる。
俺の仕事をどこかから嗅ぎつける、あの男だ。
患者に向かって説得する男を見ながら思う。
この男はもう楽になりたいと思ったことはないのだろうか。
つらくて苦しくて、いっそ息の根を止めてほしいと思ったことは。
なかったはずはあるまい。
男の色違いの皮膚は見るものをぎょっとさせるが、彼の傷はそれだけではないのだ。
先日オペの着替えのとき垣間見たのだが、傷は顔だけでなく、体中にくまなくあった。
まるで爆発にでも遭ったような、今の日本ではありえない類の傷跡を見た時、俺は気づいた。
地獄を見たのは俺だけじゃない。
この男も何らかの地獄を経験しているのだ、と。
多分こいつは地獄から這い上がった経験がある。
そして己の経験から、患者を説得したいのだ。
あがけ、と。
すべての人間がこの男と同じくらい強いとは限らないし、強運だとも限らないが。
だが男がただの安っぽい正義感から妨害するのではないと気づいたおかげで、これまでよりは冷静に対処できそうな気がする。
俺が奴に気づかれたことこそが、この依頼人にとっての強運なんだろうし。
とりあえず今回の依頼はお役御免だろう。
悔しいがこいつのオペは天才的だし、俺と張る時、こいつはなぜか良心価格を提示するから。
とここまでは内心のため息だけで済んでいたのだが、この件、このまままとまらなかった。
なんとこの男の仕事を横から掻っ攫う人間がいたのだ。
急にドアが大きく開き
「そこまでだ」
と見得を切る姿が先ほどのこいつと妙にダブる。
そこにいたのは、普段は都内の大病院でメスを振るっているはずの、白拍子という男だ。
男はこの医者は法外な金額を毟り取る闇医者であるから、自分の病院に転院し、適正な値段で手術を受けろとまくし立て始めた。
患者は驚いて目をぱちくりしている。
そりゃあそうだ、今日でこの世からおさらばする予定がいつの間にか生きるの前提、しかもどの医者で手術するか選べ、という話になっているんだから。
もう安楽死の「あ」の字もない。
この白拍子という男のことは知っている。
かなりの大病院の外科部長であり、オーナーの一人息子のはずだ。
俺はこの男の病院には何度もお邪魔しているのだ。
俺の仕事はタウンページにも載せられないし、宣伝もできない。
なのになぜお客からの電話があるか、知ってるかい。
それは噂が流れるからだ。
言っておくが、俺は流しちゃいないよ。
ただ、手の施しようのない患者、頼れる人も転院先もなく、行政からも見放された患者の耳になぜか俺の噂が入るのだ。
ちなみにもう一つ、さらに重要なことを言うと、俺は病院に無断で処置をしたりはしない。
必ず院長にこういう依頼がありましたと言いに行く。
無断で処置をして主治医や看護師のミスにされてはいけないし、患者が自分の病状を正しく把握しているとは限らないからね。
たいがいの院長は、それは患者さんと俺だけの話にしてくれと言い、門前払いにはしない。
俺に依頼が来るようなのは、病院側でも扱いに困る患者なのだ。
病院関係者が俺の噂を流したと見られる場合もあるしね。
逆に患者が前途を悲観しているだけだとわかり、対策が講じられる時もある。
白拍子とは、そんな対策協議の折に数度会った。
この男、言ってみればBJの劣化版というところだ。
必ず自分が助けてみせると言い、だが無茶なオペのせいで逆に患者の苦しみが長引いたり、患部は取れたが寝たきりになり、再度の依頼が来たことも数度。
再度の依頼時、院長室に入ると院長は黙って小さく頭を下げる。
俺は誰にも見つからないようそっと移動し、患者と最期の時を過ごす。
そしてこの男は決して俺を視界に入れないようにする。
ま、そういう因縁のおかげで、お坊ちゃんには俺なんて病室に不自然に落ちた石ころのようなものだった。
BJに対して不遜な口を聴くこの男の目は意識的に俺から逸らされ続け、俺なんてまったくの蚊帳の外。
ま、慣れているからいいけどね。
大病院にとっては俺なんてただの必要悪なんだろうさ。
議論の値打ちもないのだろう。
荷物をまとめ、今まで依頼人だった人に
「お大事に」
と微笑みかけてドアに向かう。
後はあの二人で話しあえばいいこと、と思ったのだが、BJが俺の後に続いたのには驚いた。
もっと粘るのだと思っていた。
俺には裏の世界の仁義など無視して患者をよこせと言い張る男だったから。
こんなふうに引くこともできる奴だったのか。
普段なら奴はオペの交渉で病院に残ったりするものだし、オペが成功した後なら奴の顔など見たくもないので、こんなふうに一緒にただ歩くのは新鮮だった。
いつもは口論の果てに嫌気が差しているものだが、今はお互い仕事にあぶれた同類だと思うと邪険にできない。
何で俺と同じテーブルについてコーヒーを頼むかな、とはちょっと思うが、俺もこんな時はあてもなく雑踏を歩きたくなるもの。
要するに人恋しいのだ。
俺達は理不尽な目に遭うことが多く、だがそれを誰かに話すこともできない。
けどきっと今この男は俺と同じような気持ちなんだろう。
普段ならそれなりに饒舌な男がほとんど話さないあたり、それなりに傷ついているのかもしれないな。
なんて考えていたら、つい
「オーソブッコのうまい店が近くにあるんだが、量もイタリア風だから一人じゃ食いにいけないんだ」
なんて話していた。
男が目をしばたく。
しまった、これじゃ誘っているみたいじゃないか。
こいつと一緒にいる時間なんて、なるべく減らしたいはずなのに。
この店、オーナーが宣伝しないのでほとんど知られていないが、味も量も昔ながらのイタリア風なので、誰かとシェアしなければなかなかコースで味わえない。
だから女性と知り合うたびに通っていたのだが、まさかこいつと来てしまうとはね。
普段ならここでお互い気が合えば、後は軽く1杯傾けてそのままどこかでベッドイン、というのがいつものコースで、だからかおなじみのウェイターは俺の後ろの連れを見ると一瞬眉を上げてみせた。
いつもは窓際のテーブルを案内してくれるのに、今回は奥の目立たない席に通される。
まあ俺たち二人が窓際に陣取っては、入る客も素通りするだろうけど。
意外なことだが、この男と食事を共にするのは悪くなかった。
手の動きや食べ方で、男も料理を味わい、気に入り、楽しんでいるのがわかる。
ワインもいける口だから、こちらもセーブする必要がない。
アルコールで気持ちがほぐれたのか、うまい食事がそうさせるのか、さまざまな分野の話題が次々に出て、しかもそれを楽しめた。
思えばそれなりに共通点も多いのだ。
こいつは怒るだろうが、世間の目から見たら俺達なんて同じくらい胡散臭い人間なんだし。
「今日はとても楽しそうですね」
ウェイターが店のサービスだという食後酒をテーブルに置きながら微笑むので、魔法がさめた思いでお互いを眺める羽目になった。
そして、今のこの様だ。
古びたビルの地下にあるこのバーには、今まで誰も連れてきたことがなかった。
ウィスキー好きのオーナーのお陰で数種のシングルカスク(1つの樽から直接瓶詰めしたもので、アルコール度数は60度くらい)や地方の地ウィスキーが味わえるこの店は、知り合いに会わずに一人で飲める、まさに隠れ家だったのだ。
自分から隠れ家をばらすなんて、俺は馬鹿か。
だが想像していた通り、男もウィスキー好きだった。
うまいウィスキーは男をリラックスさせるものだが、普段笑い顔など見せないこの男の口元がほころぶのを見るのは楽しかった。
酔って始まるいつもの説教も、こんな席だとなんだか心配性の女にかき口説かれているみたいだ。
ふざけて
「なに? 俺のこと心配してくれてるの?」
と首を傾げると
「そんなわけあるか」
と言い、だがそのまま見つめ続けるとふと目をそらせてそっぽを向く。
その様は、以前数度寝た女を思い出させた。
あの女はいい女だった。
俺のことを本気で心配してくれたっけ。
もう顔も名前も忘れてしまったけど。
ま、そんなことを連想するなんて、俺も酔ってしまったんだろう。
男のほうは、完全に出来上がってしまったようだった。
今日のことで自棄酒というほどではないだろうが、やはり飲まずにいられなかったのだろうか。
この男が声を立てて笑うなんて、しかも俺の前でだなんて、おかしいと思わなければいけなかったのに。
気づいた時には男の姿勢は半分崩れていた。
これはまずい。
裏稼業の人間は、外で気を抜いてはいけないのだ。
こいつだって俺と似たもののはず。
ここで見捨てて後で刺されたなんて聞いても寝覚めが悪い。
送ってやろうとホテルがどこか聞いたが、まだ決めていないと言う。
参ったな。
バーテンに近場のホテルを聞き、男を即す。
何がおかしいのか耳元でくすくす笑う男を半ば担いで外に出る。
こんな格好で裏道は物騒だから、遠回りだけど大通りを歩くしかないか。
苦労して移動して、チェックインして、部屋に入る。
男は笑い上戸だけじゃなく、泣き上戸でもあったらしい。
ポロリと涙を一粒こぼして
「かあさん」
と呟くと急にしがみついてきた。
バランスを崩しそうになりたたらを踏んでこらえていると、不穏な気配。
男が急にえずき出した。
わあ、ちょっと待て。
トイレに滑り込み間一髪でセーフ。
いや、ちょっとだけアウトだったか。
掃除のおばさん(おじさんかもしれんが)ごめんな、と心の中で謝りつつロールペーパーをちぎって乱暴に床を拭き、水を渡して背中をさすってもう1度吐かせ、便座を抱え込んで寝入ってしまった男の口元を乱雑にぬぐって水洗をひねり、大きくため息。
この男をベッドに運んで、また吐かれたら目も当てられないな。
運ぶの重いし。
クローゼットに入っていた予備の布団を男にかけ、水の入ったコップを手近に置いてやり、介抱終わりという事にする。
酔った女なら介抱のし甲斐もあるってもんだが、野郎だからな。
ああ、疲れた。
けどまあ、昼間の厄落としにはなったかもね。
なんて安眠をむさぼれたのはつかの間。