酔っ払う(上)
街中でキリコを見つけた。
一瞬声をかけようかと思ったが、例の安楽死装置を持っているのに気付いたので後を付ける。
やはり行き先は病院だった。
奴の後に部屋に乗り込み、苦虫を噛み潰す男の顔を横目で見ながら患者を説得する。
今回は脈があるな。
大赤字になりそうだが。
だがまんまと奴の仕事を横取りしようとした瞬間、俺の仕事をも掻っ攫った奴がいた。
あの白拍子というぼっちゃんだ。
いつからつけられていたんだろう。
脳外科において自分の右に出るものがいないと豪語する男は
「こんな業突く張りの悪徳医師になんか任せることはありません」
と自分の病院への転院を勧め、俺のことをなんとも言えない嫌な目で見やがった。
どうやら安楽死関係の男は目に入っていないらしい。
問題の男はさっさと帰り支度をしている。
俺もこのまま退散することにしよう。
誰かが俺より安価で請け負うと言うなら、わざわざ俺の出る幕じゃない。
もともと大損になる予定だったんだから。
男に続いてドアを出る後ろから、なんでオペを見ていかないんだとか、尻尾を巻いて逃げるのかとか言われたけど、こいつの依頼人だったという以外には何の興味もない患者だ。
普通の医者にはほぼ無理な症例だと思うが、あの男ができると言うならそれでいい。
暇ならお手並み拝見するのもいいかもしれないが、別にそんなに暇じゃないし。
と言ってもこれからの予定は、この男の後を付けて嫌そうな顔をするのを見る位なのだが。
茶を飲み、食事をし、バーまで付いて行く頃には男はすっかり諦め顔で
「お前さん、今日はもう話し足りただろう。いい加減にしないと最後の最後まで付き合ってもらう羽目になるぞ」
と言った。
「最後の最後ってなんだ。やっぱりまだ行くところがあるのか。俺をまこうッたってまけるもんじゃないぞ」
と言いながらくすくす笑う。
なんかさっきからおかしくて仕方ない。
さっきの食前酒がやたらうまくて食事中もハイピッチで進めてしまったせいだろうか。
「お前さん酔っているな。酔っているだろう」
とため息をつく男も男だ。
普段なら病院を出れば
「じゃあな」
と言って右と左に別れるはずなのに、今日は俺が付きまとっても本気で嫌がった顔をしない。
店が変わるたびに
「まだついてくるのか」
と言うだけだ。
それがなんとも心地良く、ついつい何杯も空けてしまった。
俺は普段、外ではたしなむ程度にしか飲まないのに。
隙を見せたらぐっさりやられても仕方ない商売をしているから、1杯か2杯引っ掛けて、足りなかったら家で飲む、が普段の俺の流儀だ。
「先生が笑い上戸だったとはなア」
とため息をつく男の顔が無性におかしくて
「ため息をつくと幸運が逃げていくって知っているか」
と笑いながらぐいっとグラスを空けると
「いい加減にしておけ。本当に今日は変だぞ。あんなのいつも先生が俺にしていることじゃないか」
とグラスを取られる。
構わず手を上げてバーテンにおかわりを頼もうとしたが
「もう勘定にしてくれ。この先生ぐてんぐてんだから」
と追い払われてしまった。
「何だよ、後1杯くらいいいじゃないか」
と言ったが
「立って歩いてから言うんだな。お前さん今きっと千鳥足だぞ」
と言われ、そんなわけあるもんかと思って立ち上がってみたら、あれ、本当にまっすぐ歩けない。
「まったく。お前さんどこのホテルに泊まっているんだ? 何まだ決めてない? こんな時間じゃ近場であるかな」
と言いながらバーテンに聞いたホテルまで引きずられるようにして歩く。
きちんと歩けるはずなのに、どうにも道が蛇行して見えるぞ。
おかしいな。
ビジネスホテルに着いたキリコは
「シングル2つ、いや、ツインにしてくれ」
と俺の腕を改めてよいしょと肩に回すと
「ほら、もうちょっとだから部屋までがんばれ」
と俺を引きずっていった。
なんだか愉快だ。
自分で歩かなくても誰かが運んでくれるなんて、体が不自由だった時以来だろう。
あの頃は誰かに体重を預けないといけないのが悔しくて切なくて、よく一人でこっそり泣いたもんだけど。
体も心も小さく縮こまって、なるべく重くならないようにとばかり気を使っていたっけ。
こんなふうに遠慮なく誰かに体重をかけるのは、もしかして父親が失踪して以来かもしれないな。
とあんな親なのに少しだけ懐かしく思い出した時
「お前さん、本当はもうちょっときちんと歩けるんじゃないか」
と頭をこつんと叩かれた。
その叩き方がまだ家にいた頃の父親そっくりで泣きたいほど懐かしく、だがあの男を懐かしく思うことは母を裏切ることだと大急ぎで感傷を振り払う。
お母さん、俺はあなたを裏切ったわけじゃないんだ。
あんな奴、父親じゃない。
だが記憶の中の母は微笑んで
「お父さんを許してあげましょう」
と言う。
お母さん。
「ありゃ、今度は泣き上戸か。歩けないからしがみつくんじゃないよ。ほら後10歩でベッドに着くから。ああこりゃあ参ったね。ほら、沈むんじゃない。うわ、大丈夫か。ちょっと待て、トイレはこっちだ」
そんな言葉を聞いた気もする。
気が付くと俺は便器にしがみついた格好のまま寝ていた。
背中の布団は奴の仕業か。
くそ、キリコめ、中途半端な介抱しやがって。
トイレの粗相を流し、水を飲むついでに歯磨きと洗顔だけして俺も空いたベッドに入ろうと思ったのだが、使われていないほうのベッドはしっかりベッドメイクされたままだ。
何だって日本のホテルはこんなに厳重にぎゅうぎゅうベッドメイクするんだろうな。
すぐに寝られそうもないのが面倒くさくなり、さっきの布団をかぶって床で寝ようかとも思ったのだが、酔っ払いはそこまで戻るのも面倒臭い。
ふと隣を見ると、すぐ寝られるベッドがあるじゃないか。
「おい」
という問いに答えず奴のベッドの隙間にもぐりこもうとしていると
「おいブラックジャック。お前のベッドはそっちだ。ここは俺だ」
と乱暴にゆすられ、落とされてなるものかと奴にしっかりしがみつく。
俺今日はここで寝るんだ。
もう決めちゃったんだからな。
酔いとは恐ろしいもので考えが脳みそまで届かず脊椎あたりでUターンしてしまうのか、その時の俺はそれが一番の策だと思い込んでいた。
「ああ、もうこの酔っ払いが」
男は苦労して俺の腕から抜け出すと、まだじたばた暴れる俺をあきれたように見下ろして
「お前さんがいけないんだからな」
と言って顔を近づけてきた。
どんどん近づく。
止まらない。
止まらない。
え。