コスメ娘。

屋敷を後にして(上)

 

 

ホテルの部屋は、別々に取った。

本当はホテル自体も別々にしたいくらいだったが、残念ながらえり好みできるほど大きな町じゃない。

それにこの男をまくのは本当に難しいのだ。

恐ろしくしつこい奴なんだから。

 

食事は共にしたが、俺の部屋のドアの前まで着いてきた男の鼻先でドアを閉める。

ちょっと油断したら、またさっきみたいな目に遭ってしまう。

いくら医者同士だと言ったって、あんな始末までつけられるなんて。

その様を思い出しそうになり、あわてて首を振り窓を開けて、新鮮な空気を吸う。

思い出すまい。

俺が思い出したら、態度がおかしくなって奴に伝染する。

こんなことで気まずくなったらたまらない。

気まずくなって疎遠になれば願ったりかなったりであるはずだが、それがこんな理由なのは願い下げだった。

俺はあいつに軽蔑されるようなことはされてないんだ。

ただの不可抗力だったんだから。

 

今日は眠れないかと思ったがベッドを一目見たら気が変わり、服を脱いで毛布の中に潜り込む。

電気を消して目をつぶった途端に急転直下した俺の思考は、だが突然急上昇した。

どこかで叫び声がしたのだ。

なんだこの声は。

 

あ、俺だ、と気づくのに一呼吸かかってしまい、口を押さえる。

近所迷惑なことをしてしまった。

大きくため息をつき、のろのろと身を起こす。

昼間のことを夢に見たのだ。

 

寒くて体が動かず、ろくに抵抗できないまま体の自由を奪われ、散々屈辱的なことをされた。

抵抗をあきらめると

「つまらない」

と首を絞められる。

気道が狭まり舌が膨らみ、脳が酸素を欲して目の奥が痛み、涙も鼻水も止まらなくて、何もかもが真っ白になる直前に圧迫がなくなる。

不自由な体を折るようにして咳き込む様をあざける声が耳を叩く。

いつの間にか戒めが解かれていて

「逃げてみせろ」

と主人が笑い、従者をけしかける。

舌なめずりする男に怖気をふるってもドアまではたどりつけない。

 

こんなの、世の中には良くあることだ。

戦時中には無残な死体をいくつも見た。

女子供は性の餌食になり、目を背けずにいられないものも多かった。

俺もあんな死体になるのか。

こんな死に方、俺には似合いだろう。

知りもしない男の八つ当たりで腹を満たし、仕事は果たせずじまいで、あの男に無残な姿をさらす。

これから数時間後には山の中にでも放り出されるか、地中に埋められるか。

けものの餌になるか蛆虫が湧くのが先かはわからないが、誰にも知られずに消えてなくなる、そんな死に方。

 

けれど、今それを選ぶことはできなかった。

俺が死んだら、秘密を知ったあの先生もただではすまなくなる。

それとも、単に死ぬのが怖かっただけかもしれない。

どちらかはわからないが、とにかく今は死ねないと思いながらただ責め苦に耐える、長い長い時間。

 

男が俺の腹の上で大量の血を吐いた時、ざまあ見ろと思ったのは確かだ。

反射的に救命活動を行ってしまったが、奴が飛び込んでこなければ適当な所で切り上げたかもしれない。

そして安楽死を施した時、俺は本当に真摯な思いで立ち向かえていただろうか。

 

はーっ

はーっ

 

闇の中では自分の呼吸ばかりが耳につくので、手を伸ばしてライトをつける。

白々した明かりの中、俺の目の前にある手首には、どす黒いうっ血班。

体中に残る傷やあざを、あいつはどう思っただろう。

 

とんとん、とん。

 

ドアが遠慮がちにノックされたが、無視する。

しばらく続いたノックがようやく止まり、足音が隣に戻るとほっとして身を起こす。

こんな姿、見せられるか。

こんな、夢におびえる姿なんて。

 

もう眠れそうにないので起き出して冷蔵庫をのぞく。

何も入っていないのにがっかりしていると、どこかで物音がした。

なんだ? 隣か?

もしまたノックされてもドアには鍵がかかっているはずだし…かかっているよな。

心配になって入り口のドアを確認し、念のためにチェーンをかけていると背後から重い音。

え、と振り向くのと窓から男が侵入してくるのが同時だった。

 

「何だ、やっぱり起きていたのか」

と平然と歩いてくる男に、ぽかんと開いた口を閉じられない。

思わず窓の外を確かめるが、外にベランダなんてない。

窓の1メートルくらい下にほんの10センチほどの幅のでっぱりがあるくらいだ。

「落ちたらどうするんだ、こんなところから」

と怒るが

「うるさい。深夜なんだ、ほかの部屋に迷惑だぞ」

と腕に手をかけられ、窓を閉められてしまう。

素肌の触れ合う感触に、眠る時服を脱いでパンツ一丁になっていたことを思い出し、あわててクローゼットをのぞいてガウンを見つけ

「そんな深夜に窓から何の用だ」

と言いながら羽織っていると、急に首あたりに腕がかかり、ラリアットの要領でベッドに転がされた。

 

体が強張る。

俺はこいつのことなどほとんど知らない。

天才的なオペの腕を持つ医師で、金の亡者と見紛うほどプライドが高い。

俺の安楽死を苦々しく思っていて、阻止するためなら汚い手もためらいなしに使う。

その程度。

体格的に見ても絶対俺のほうが力があるはずなのに、武道の心得でもあるのか腕を決められるとどうもがいても逃げられず、先ほどは無理矢理手当てを承諾させられた。

俺があの時どんなに打ちのめされたか知っていて、この上何をするというのか。

「何だ、お前さんもあいつらとご同様の口か?」

のしかかる男に思い切り軽蔑をこめて問いかけるが、首筋に手がかかると体が震える。

命、いのちと叫ぶこの男が首を絞めるとは心の隅にも思っていないが、新しい恐怖を知った体が勝手に信号を出すのだ。

「震えてるな」

と言いながら俺をのぞきこむ男の目を見ていられなくて、顔を背ける。

この男、何なんだ。

人を怖がらせるのが趣味なのか、それともこいつも変態趣味があるのだろうか。

「首を、触るな」

自分でも情けないほど声がかすれたが、何とか搾り出す。

それでも退かない手に業を煮やして

「触るなったら触るな」

と腕を振り回すが、今度はその腕を取られて手首を握り締められた。

さっき筋でも違えたのか、抵抗できないほど痛い。

無様な顔をのぞかれたくなくて右腕に顔を押し付けるようにして縮こまる。

 

もう金輪際この男とは終わりだ。

何を言われても無視だ。

依頼がかち合ったら、患者には悪いが取り消させていただく。

どうせこの男に横取りされるに決まっているんだ。

今までそれでもその腕に敬意を抱いていたが、全部終わりだ。

テリトリーも変えよう。

最初は客が付かないかもしれないが、家を売れば当座の金になるだろうし、仕事なんかないならないで放浪を続けて野垂れ死にすればいい。

その方がこいつもすっきりするだろうさ。

ああ、そうだ。

仕事がなければ俺なんて、生きていても死んでいても同じなんだから。

 

 

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