手紙−K(上)

 

 

もう何度目に来たかわからない、ある国の王宮。

護衛という名の監視人と歩いていると、あの男に会った。

会っても嫌な思いをすることが多いのに、なぜかまた会いたくなる人物。

だが、決してこの国では会いたくなかった。

ここに来る俺以外の医者は、入ったきり、生きて外に出ることはないのだから。

 

この国の信仰は特殊で、安楽死を認める一方、オペというものを認めていない。

認めていないものが必要になった時、それは隠密裏に連れ込まれ、決して外に戻さない。

いつも厳重な監視の下、俺には知らせないように心がけているらしいが、そんなの何度も来る内わかるものだ。

 

俺の今回の依頼は、皇后の安楽死。

つまり、国王の母親だ。

俺より30ほど年上だが、いくつになっても聡明で美しい人。

前回来た時には確かにそう思ったのに、今の彼女は急激に体重が減ったせいでしわだらけに縮んでしまっている。

かなり病状が悪化しているのだ。

 

「いらっしゃい、キリコ」

この人は時々二人だけの時に俺をこんな風に呼ぶ。

若い頃に死んだこの人の息子の面影があるのだそうだ。

呼ばれるたびになぜか俺は死神の仮面が外れそうになり、あわてて身じまいを正す羽目になる。

もうこの優しげな声は永遠に聞こえなくなるのだ。

そう、あと少しで。

「又お会いできて嬉しいわ。もうお会いできないかと思った」

と微笑む表情に昔日の面影を垣間見、胸苦しさを覚える。

前国王が亡くなってからずっと国王の後ろ盾としてこの国を守ってきた彼女。

今までたくさんの心労を抱え、でもそれを表に出さずに毅然と振舞い続けてきた人だ。

最後くらいは彼女の一番望む時、一番安らかな方法で送りたい。

 

だが、部屋に戻って一番に思ったのは、彼女ではなくあの男のことだった。

あいつを見殺しにはできない。

幸い俺は以前から王宮以外でもある程度の自由を与えられており、街で買った中古のバイクで各地を旅して、請われれば安楽死をすることもあった。

払う金のない人もいたが、王宮の金払いが良かったので無償で行ったこともある。

その中に検問を通らない国境の越え方を知っている奴がいたはずだ。

問題は、その男を知っているのは俺であって、奴ではないという所。

何とか暇を見つけてあの男に連絡を取ってみるか。

 

俺はその時、奴を逃がすだけのつもりだった。

俺には仕事があったから。

奴が逃げる時には時間稼ぎが必要だろうから、俺がそれをすればいい。

それでどんな、たとえば死ぬような不利益を被っても構わないと思うほどには、俺は奴が気に入っていた。

 

とはいえ監視が強化された今、接触するのは難しいだろう。

どうやって奴に知らせようか、と部屋を見回した時、ふとテーブルの上に置かれた数通の手紙が目に入った。

この国の人間は、こんな安楽死医にも感謝の言葉と共に花や果物を届けてくれる。

時には誘い文句そのものの文面もあるが、それはこの国が鎖国状態の為、俺のような人間が珍しいからだろう。

日常的にも好意を持つ相手にこんな風に小さな贈り物をすると言っていたっけ。

 

かんきつ類の一種をナイフで切って、汁を絞る。

この汁は無色に近いので、乾けばほとんど目立たないはず。

いつも医者はオペ直後に消えるのだ。

多分、疲労で注意力が散漫になるからだろう。

噂では飲食物に混ぜた薬で身体の自由を奪い、場所を移して暗殺するということだった。

机の上の便箋を取り、汁を浸しためん棒で文字を書く。

 

汁が乾くのを待ちながらいいダミー文面を考えているうち、状況にぴったりなのを思いついた。

惑わない内に書いてしまう。

 

「燃えるような愛を込めて」

 

以前酒についていたレモンをつつきながらあぶり出しの話をしたことがあったから、奴なら気づいてくれるだろう。

俺がこんなの、書くはずないから。

 

あいつとの間には、確かに通じるものがあった。

不愉快な思いや悔しい思いをたくさんさせられたけれど、どうしても断ち切れない、何かが。

そういう関係になるかも、と思ったことも何度かあったけれど、お互いに踏ん切りがつかなかった。

次でいいか、と思ってきたけれど、もう次ってやつはなくなっていたんだな。

 

庭で奴のタイの色の花を手折り、手紙と一緒に護衛に託しがてら、国王のオペはいつなのかと聞くと、明日だと言う。

そんな。

もう時間がない。

まだほとんど計画も立っていないし、誰とも連絡を取れてないのに。

だが今、皇后のそばを離れることは俺にはできない。

奴を逃がすにはどうすればいいか。

 

翌日、俺は朝から召されて、又皇后の下へ伺った。

昨日は王宮から出られなかったので誰とも連絡を付けられなかった。

もう、1人で何とかするしかない。

普段は余り見ない彼女の薬棚を点検しながら少しでも使える物がないかと考えている時、お付きの女性が俺を呼び、そのまま部屋を出て行った。

どんな時にも皇后のそばを離れないのに。

不審に思っていると

「私が人払いをしたのですよ」

と彼女が言った。

 

「あなたへの依頼を取り消します。どんなに痛みが強くなっても、私、絶対に幸せに死の瞬間を迎えられるとわかりましたから」

とか細い声の中に威厳を持っての宣言。

驚いて

「なぜです」

と聞くと

「医者に手紙を書いたそうね。熱烈な文面があなたのファンを悲しませていますよ」

といたずらそうに目をきらめかせて

「彼をさらいたいんでしょう。そうなさい」

と言うのだ。

 

「あなたを無駄に苦しませたくないのです」

と寝台にすがったが

「それであなたが苦しんだら私は絶対幸せになれないと、おわかりではないの? 一番幸せな死に方は苦痛なく眠るように死ねることではないわ。自分の人生を満足だったと思いながら死ねること。あなたはやっぱり最高の安楽死医ね。私は最高の死に方ができる」

息を切らし、途切れ途切れに、それでも話す彼女の言葉に逆らうことはできなかった。

 

「こちらに」

と言われるまま近づくと、骨と皮だけになってしまった手が俺の頬にそっと当てられ

「本当に似ている」

とささやく声がした。

ああ、息子さんか。

その思いを見透かしたように

「好きだった人に似ていたのよ」

と言う彼女の顔が一瞬少女のように華やいで、元の病人の顔に戻った。

彼女の手を押し頂いて口付ける。

静脈としみの浮き出たその手が、俺には神々しいほど美しかった。

 

おつきの女性の前で正式に安楽死の依頼を取り消され、俺は部屋を後にした。

後は無我夢中だ。

バイクの整備は昨晩のうちにやっておいたし、ガソリンも王宮の人間の手を煩わすことなく調達できた。

オペが終了したらすぐに教えてくれと懇意の人間に頼んでおき、知らせを受けてすぐ奴の監視人に連絡を取る。

相手は渋ったが、緊急の用向きだと言い募って何とか自室に呼び出し、薬をかがせる。

弱い薬なのですぐに気がつくだろうが、奴が逃げるには十分なはず。

その足で南門へ。

 

正直、俺は腕っ節が強いほうではない。

だが、知り合いの衛兵は俺に好意を持っていたから、不意をつくのはわけなかった。

そのまま奴を待つために藪の裏に回ってしゃがんだ時、手や足が震えているのに気がつく。

本当に俺は事を始めてしまったのだ。

奴の監視人を俺の名で、俺の部屋に呼んでしまったのだから、俺の犯行だということはすぐ知れ渡る。

仲が良かった衛兵にもあんなことをしてしまった。

もう後戻りはできない。

鎖国をしているこの国の人間はほとんど外に出はしないが、それでも重罪人として俺をどこまでも追いかけるだろう。

誇りの高い人達だから。

 

自分のしでかした事の大きさを考えると、恐怖で歯の根が合わない。

冷や汗でぬめる手のひらを硬く合わせて、奴のことだけを考えようと集中する。

俺は最初に思ったはずだ。

殺されても奴を逃がしたいと。

ああ、でもあの時はもっと時間があると思っていたのだ。

穴だらけのこんな計画、計画とも言えやしないじゃないか。

 



下へ