手紙−K(下)

 

 

だが俺の逡巡は近づく男の姿を見た途端、同じ大きさの安堵に変わった。

俺の言葉を信じてくれたんだな。

なぜか大丈夫だと思い込んでいたが、単なる冗談と取られるかもしれなかったのだ。

それにあのあぶり出しに気づかない可能性もあった。

 

バイクは音がうるさいのが玉に瑕だが速度も出るし、この国では3人乗り、4人乗りでも当たり前なので、男2人タンデムでもあまり目立たないはず。

それでも追っ手をまいたと信じられるまではアクセルを吹かし続け、後はひたすら距離を稼いだ。

後ろの男の疲労が気になったが、怖くて休憩を取ることができない。

しかも走り始めてから気づいたが、この男はずっと飲まず食わずなのに、俺は食料も水すら用意していなかった。

逃げるのに必死で、そんな基本的なことすら気が回らなかったのだ。

もし頼みの知り合いが手を貸してくれなかったら、俺たちはアウトだ。

悪いほう、悪いほうに傾く思考を振り切るためにもひたすら走る。

 

ありがたいことに、目当ての男はバイクと交換に案内を快諾してくれた。

しかも水と食料つきだ。

男が裏山にバイクを隠しに行っている間に、奥さんが俺たちにスープを振舞ってくれた。

中身は野菜と豆ばかりだが、滋養のある味に腹が喜ぶ。

それにこれはこの家での精一杯のご馳走だ。

同行の男はよほど腹が減っていたのだろう、おかわりを問われると素直に何度も皿を出している。

俺も一度だけおかわりしながら、この後いつ温かい物が食べられるだろうと思う。

だが後戻りはできないのだ。

とにかくこの男を国境越えさせなければ。

 

疲労している男に少しでも休息を取らせてやりたかったが、案内人が戻るとすぐ出発することにした。

こんなところで見つかって、この家にまで咎があってはいけない。

ありがたいことに、今日は月夜だ。

明かりの心配なしに歩くことができる。

 

各自ずた袋に水と食料を持って、ひたすら歩いた。

検問を迂回するには、険しい山を越えなければならない。

途中までは生活のための道がついていたが、夜が明けるころにはただの獣道になっていた。

こんな道、俺達だけでは絶対たどることができなかったろう。

 

夜が明けきると、男が俺達を岩陰にあるくぼみに案内した。

山のこちら側は禿山になっているので、遠くからでも見つかってしまう恐れがあるというのだ。

だが、それは俺達にとっては待ちに待った休憩だった。

携帯食料を齧る間もなく2人とも寝息を立ててしまったので、俺だけでも何とか起きていようとがんばる。

誰かが見張りをしていなければ。

ふもとを車が通る度に追っ手かと緊張したが、幸いなことにこちらに上っては来なかった。

3時間ほどしたところで限界を感じ、案内の男を起こして交代してもらう。

こんな風に倒れるように眠ったのは、久しぶりかもしれない。

 

夕日が落ちる頃、準備を整えて出発。

足の豆がつぶれたようで、ひどく痛む。

だが立ち止まるわけには行かない。

止まった時危険になるのは俺1人ではないのだ。

 

山は険しさを増し、峠を越すと急激な下りになった。

だがこれで終わりかと思うと、その先にさらに高い山が待っている。

いったいいくつの尾根を渡ればいいのだろう。

途中から休憩も立ったままになった。

座ると次に立てなくなりそうで。

立ったまま少しずつ齧り、飲んで、息が整うとまた歩き出す、その繰り返し。

永遠に続くかと思われた夜が明ける頃、案内人が

「あそこだ」

と言った。

国境だ。

 

だがその鉄条網は高く、高圧電流が流れているのを示す警告がいたるところにある。

こんなの、どうすればいいんだ。

俺の絶望を感じたのか

「大丈夫、裂け目がある」

と男は俺達を塀の近くにある岩に連れてきた。

この岩は以前、山崩れが起きた時、山から転がり落ちたのだという。

その時、鉄条網の一部が裂けた。

その下の地面を掘り広げて、何とか人が通れる大きさにしたのだという。

 

BJが裂け目を通り、俺も続こうとしたところで

「キリコ先生、私はここで帰ります」

という声にはっとした。

そうだ、この男はこの国の男なのだ。

だがこの先、もう少しは一緒に行ってもらえるような甘えを持っていた。

 

「ありがとう。本当に助かった」

と言いながら、あのバイク以外に何か礼のできるものがあればよかったのにと思う。

「先生、礼なんていいです。俺はずっと先生に恩返しができないかと思っていた。俺の村のみんながそうです。もうお会いできなくても、ずっと先生のことを慕っている人間がいること、忘れないでください。お気をつけて」

それだけ言うと、男は促す様に俺を見た。

ごつごつした男の手を最後に思い切り握り締め、俺も裂け目を滑り出た。

 

しばらくは無言のまま歩いていたが、しばらくすると抜けだしたのだという実感がわいてきた。

もちろん、この後日本に帰っても完全に安全になったとはいえない。

だが、この男の口が堅いことは闇世界では評判になっているし、こいつは有名人だから、誰かに命を狙われてもほかの陣営がけん制するという。

用心深いこの男のことだ、よほどのことがない限り自分の身を守ることができるだろうし、追っ手も首謀者の俺を殺せば満足して引き上げるだろう。

 

そう思いながら歩くと、この地はなんと美しいことか。

道端にしがみつくように咲く小さな花すら、美しい。

足の裏が焼けつくように痛いが、それも生きているからこその痛みだ。

それに今はもう急ぐ必要がないのだ。

 

とりあえず、今は。

 

夜、男が手紙のことを蒸し返してきた。

いつものように笑い飛ばしてやってから、目の前の男を見て変な気分になった。

肩を怒らせ、でもうつむいて歯を食いしばる姿。

少し前にちらりと見せた、いつもと異なる表情を乗せた瞳。

もしかしたら、今は最後のチャンスだ。

時間がないのだ。

いまさら何を衒えというのだ。

 

席を移動し、脅かさないようにそっと手を回して

「ときめいたか?」

と聞いてみる。

そんな意味を持たせたつもりじゃなかった、でもやっぱり書いていて楽しかった手紙。

なあ、一瞬でも本気に取った?

頭の片隅でも、動揺してくれた?

 

ほんの少し上げられた顔を掬い取るように一瞬だけ接吻した。

殴りかかってこないのに勇気を得て、今度はもうちょっと長く。

わめいてこないのをいいことに、またひとつ。

舌を入れ、唾液が混じる頃には男の手が俺の腰にしがみつくように巻きつかれていて。

 

酒が入ったようにふわふわした気分のまま、事を進める。

こんなところで手を出す己をあざ笑う気持ちは確かにあった。

けれどそんな声、くそ食らえ。

この熱い体、強い腕が欲しかったのだ。

きっと、ずっと前から。

 

何とかふもとの村に着き、抜け荷屋に出入国スタンプを偽造してもらい次第、移動して。

やっとまともなホテルに入り、シャワーを浴びると俺達はまた狂った。

嵐のような時間が過ぎた後、男がぐっすり寝ているのを確かめて、そっと起き出す。

タバコを吸いながらふと見やった先にはホテルの便箋。

この間はちょっとしたいたずら心だった。

けど、今は。

 

「燃えるような愛を込めて」

 

苦笑して捨てようかと思ったが、寸でのところで思いとどまった。

いいじゃないか、1度くらいこんなものを書いたって。

奴の上着のポケットに便箋をそっと忍ばせる。

気がつかなければ、それでいい。

 

 

自宅に戻ると、エアメイルが届いていた。

EMS(国際スピード郵便)で、かの国の国王から。

 

曰く。

安楽死医キリコとその助手ブラックジャックを解雇する。

今後一切わが国に入ることなかれ。

 

それはつまり俺達が入国しない限り、お咎めなしということだった。

あの天才も俺の助手として扱えば、なるほど外に出られるわけだ。

裏に皇后の息がかかっているに違いない。

 

これをあの男が知ったらなんと言うだろう。

皇后は未だ死の床にいるのだろうか。

 

笑いの発作とともに涙が出て、しばらく止まらなかった。