(下)
シャワーを浴び、髪の毛を洗いながらも断片の記憶が何度もフラッシュバックするのに閉口した。
確かに好意はあったが、性的にどうというつもりは毛頭なかった。
男という時点で対象外だし、もともと好みの女とは寝ない主義だ。
深入りしたくないから、今までもどうでもいい女とばかり寝てきた。
そんな女となら、一夜限りで別れられる。
好意のある女と寝るのはテリトリーを移る、2度と会わない覚悟の時だけ。
だからこういうのは困る。
2重の意味で。
最後に水を浴び、震えながら眼帯を巻きなおしてベッドに入る。
スプリングの利きすぎたベッドに埋もれ、眠りが浅い時の癖でうつ伏せになって。
眼帯が少々鬱陶しいが、依頼人宅では外さないのが常。
目をつぶり、ゆっくり呼吸して体が重くなり、ベッドにずぶずぶ埋もれていく様を想像する。
俺なりの就寝儀式だ。
あと少しで意識がなくなる、というところでガチャリ、と音がした。
隣がシャワー室に入ったらしい。
廊下との防音が効いていても、浴室との境の音はそれなりに漏れてくるのだ。
だがもう手足が重いし、温かくなってきた。
奴のシャワーの音さえ止めば、きっとこのまま眠れるだろう。
カシャカシャと頭を洗う音、ごしごしと体をこする音、そして又シャワーの音。
そのあとでジャボジャボと湯を溜める音。
なんだ、シャワーだけだと思ったのに。
湯を使うなら先に溜めておけばいいのに、シャワーの後に湯を張るなんて変な奴だな。
手間もかかるし、寒いし、大体湯がもったいないじゃないか。
日本は水が豊富だから、奴は水が貴重な資源だという意識が希薄なんだろうか。
いや、オペ成功のご褒美みたいなものなのかも。
うとうとしながらも音のせいで熟睡とは行かず、狭間の世界を行ったりきたりしていたが、それなりの時間が経ったような気がするのに音が止まない。
あいつ、まさか蛇口をひねったまま居眠りでもしているんじゃないだろうな。
それにしては水があふれている気配もないし、寝ぼけて時間の感覚がおかしいのかな。
などと思いつつも体は眠っていたのだが、突然水を叩く音とずるり、どさ、という重い音がしたのに驚き、飛び起きる。
あれ、夢か?
でも確かに叫び声を聞いたような。
バスルームへのドアの隙間からわずかに光が漏れている。
眠気と疑問を秤にかけ、しぶしぶ起き出す。
「何騒いでいるんだ?」
と言いながらドアを開けるも、バスタブには人影なし。
おかしいな。
バスタブの蛇口からちょろちょろと湯が出ている。
もったいない。
ボイラーの湯が空っぽになってしまうじゃないか。
湯を止めにバスタブのそばに寄り、足元の異物に気がついた。
驚きを隠して
「そんなところで体も拭かずに寝ていると風邪ひくぞ」
とあきれてみせるが
「のぼせたんだ。そんなことよりバスタオルくれ。ついでに手を貸してくれ」
ときたもんだ。
「それが人に物を頼む態度か」
とぶつぶつ言いながらも手を貸してしまう俺はつくづくお人よしだと思う。
タコのようになった男を苦労して引きずり、ベッドに連れて行く。
バスルームに戻り、湯を止めてバスタブの栓を抜き、さっき使ったバスタオルでざっと床を拭いてから新たなバスタオルを持って戻る。
ぐったりした体を拭いてやりながら、傷だらけだなと思う。
タオル越しでなく指でなぞれば暗闇でもかすかに存在を感じるはずの、傷の数々。
今はのぼせてぐったりした雄も、いきり立てば存在感を示していた。
今は俺の手などすっかり忘れた顔をしているが。
平然と体を拭かせている男に悔しくなり、奴の雄を掴む。
あわてる顔を小気味良く見ながらひっくり返し
「なんだ、もうサインは消えたのか」
と言うと
「お生憎様。あんなマジックすぐに消えるさ。お前さんの記憶と一緒にね」
ともうふてぶてしい顔に戻っている。
こいつにはあんなこと、日常茶飯事なのだろうか。
初々しい表情とふてぶてしい態度に翻弄されて、あの時の印象はちぐはぐだ。
なかなか開かなかった体。
離れるなとしがみついた指。
むかつく。
手の中でおとなしいままの雄が憎らしくて
「はい、牛の乳絞りをします」
と言いつつ乳絞りのように根元から搾ってやった。
ギャー。
大暴れして俺の手から逃れ、ベッドの端まで下がる男を見て溜飲を落とす。
大体寝たことのある奴に裸を晒して意識もしないなんて失礼じゃないか。
このくらい慌ててくれないと、こっちも気合が入らない。
顔を真っ赤にして
「なにするんだ」
とわめく男の局部が刺激で反応しているのを目の片隅で確かめつつ
「お前さんがあんまりふてぶてしいから」
と背を向ける。
どうせあんなのすぐに収まるだろうが、一矢報いた気分。
何に一矢報いているのか知らないが。
部屋に戻ってベッドに潜り、うつ伏せになって沈み込もうとしたが、寝付けない。
なぜあんなことをしたんだ、俺の馬鹿。
あれじゃまるでゲイのモーションじゃないか。
大体普通意識があったら下関係だけは自分で拭かせるだろうに、なんたって俺はあんなのを握って、ひっくり返して。
確かに風呂上りだから汚くはないだろうし、端くれでも医者だから男女を問わず生殖器など見慣れているが、あの時の俺が患者に清拭するような気持ちじゃなかったのは、俺自身よくわかっている。
そうなのだ。
今の俺の頭の中は淫らな妄想でいっぱいなのだ。
信じられない。
悶々とベッドで寝返りを繰り返す俺の耳に冒頭の音。
俺の部屋のドアが開くのではないか、としばらく聞き耳を立てていたが、流石にそんなことはなかった。
ほっとするのと残念に思うの、どちらがより大きかったかは聞かないでくれ。
夜が明けると同時に俺は身支度をした。
屋敷をトンズラすることにしたのだ。
昨日の今日で、奴と普通に話せる自信がまったくない。
奴のことだ、俺が注意しなくてもこの屋敷の人間関係くらい把握していることだろう。
危険に嗅覚の働く奴なんだから。
ちょっとした後ろめたさを感じつつ、廊下を歩く。
俺の依頼人は寝ているに決まっているから、とその孫に挨拶するべく部屋に向った。
ノックして
「キリコです」
と言うと、一拍おいて
「どうぞ」
との声。
「そろそろ出ようと思いまして」
と言いつつ部屋に入って目を剥いた。
テーブルの上にトランク。
その取っ手に手をかけているのは受け取ったばかりらしい悪徳医師。
「やはり先生方は嗅覚が働くのかな。ブラックジャック先生も今、暇を告げにいらっしゃったのです。祖父の手術が無事成功したことを反対勢力が聞きつけたらしくて。私どもはヘリが来次第北に逃れますので、先生方は来た道と違う、南の小道をお使いいただくといいでしょう。ほとんど使われていませんが、ぎりぎり車を走らせる道幅はありますから。万一の時のために、今召使いに水と食料を用意させます」
腐れ縁ってこういうことなのか。
何とも言えない表情の男に憮然と頷く。
俺達は連れ立って屋敷を後にした。