ダイエット食品

その後(上)

 

 

内側のドアが開く男がして、すぐにトイレを流す音がし、それから蛇口をひねる音。

しばらく流れるままだったので、たぶん石鹸も使ったんだろう。

小便をする暇もなく水を流した癖になぜ念入りに手を洗うのか。

それは自慰をした証拠物をトイレに流し、手を洗っているのではないか。

そんなことをつい妄想する己にため息をつく思いだ。

もうすっかり目がさえてしまった。

 

 

豪雨の中で奴に会ったときから、嫌な予感はしていた。

案の定依頼人には嫌みを言われたし、仕事も取られた。

泣きたいくらいの気分なのに、立場上なぜか依頼人の愚痴を聞く羽目になった。

お蔭様でお宅の事情の表から裏まで頭に入ってしまった。

 

一番気になったのは、お家騒動の件。

オペの難易度と相まって患者から生きる気を奪っていたのは、自分の愛する孫が成人したばかりでとても跡を継がせられる状態ではなく、自分の死後を悲観したからだった。

ワンマンだった彼は今までそのカリスマで組織を大きくしてきたが、だからこそ彼が倒れてからは酷い状態になっているらしい。

今、彼のオペが成功すれば勢力が大きく変わる。

きっとあの先生を逆恨みする輩もでてくることだろう。

依頼人も俺に色々しゃべりすぎたと考える可能性がある。

 

本来なら万一の逃走ルートでも調べておいた方がいい状態なのだ。

それなのに俺は浴室の物音から、それを隔てた部屋の中であの男が何をしていたのかを一生懸命類推している。

若者じゃあるまいし。

しかも相手は気立てがいいわけでも美女でもない、あの先生だ。

 

一度そういうことをしたことがある。

だが、あれは酒の上の過ちと言うやつだ。

なのになぜさっきもあんなことをしたのか。

 

苛ついていたのは確かだ。

今回の依頼は、急だった。

もちろん俺には急な依頼も多い。

この苦しみを早く止めてくれ、とか、目の前で苦しんでいるのをもう見ていられない、とか。

そんな依頼には一刻の猶予も与えないが、小康状態の患者、特に金持ちの患者にはそれなりの下調べをする。

複雑な事情や利害が絡んでくることがあるからだ。

患者が本当に望んでいることならいい。

そうでない時のために、また、思い残しが少しでもなくなるよう、相手が俺を望む時、俺はなるべく患者のそばにつくようにしている。

たとえそれが豪雨の中の長距離ドライブの後だったとしても。

 

今回は俺の出番はなさそうだったが、患者が聞いてもらいたそうな顔をしていたのでつきあった。

初日はただなじられ、嘆かれるだけだった。

俺は死に場所をなくした。

なぜ手術を受けると言ってしまったのだろう、と。

 

翌日は検査の合間に呼ばれ、それからずっと患者に付き合うことになった。

娘が駆け落ちをしたこと。

数年後に駆け落ち相手が死んだから戻りたい、と娘から電話があったのに許さなかったこと。

掌中の玉だった息子が暗殺され、娘を捜したときにはすでに病気で亡くなって、孫が孤児院にいたこと。

引き取った孫は自分になつかない。

当たり前だ。

己が母を見殺しにした張本人なのだから。

 

病を得た時には天罰だと思った。

後のことは捨ておいて、楽に死んでしまおうと思った。

だが、こんな巡り合わせがあるのですな。

まさか孫がブラックジャックを呼んでいたとは。

 

もしかしたら生き延びさせること自体が孫の復讐なのかもしれない。

だがそうだとしても、私は生きなければなりますまい。

生きて孫の行く末を見守らなければ。

これが業、という奴なのかもしれませんな。

 

2日話すうちに気持ちの整理がついたようだが、疲れた。

こういう時、相手に同調しすぎてはいけないが、それを相手に悟られては身も蓋もない。

自分の意見を挟まず、ただ相手の話を聞き続けるのは疲れる。

特に患者の気分がころころ変わる、今回のような患者には。

患者は駆け落ちした娘を恨み、娘を横取りした男を恨み、過去の己を恨み、償いを受けてくれない孫を恨み、組織の反乱分子を一刀両断に出来ない己の病を恨み、この苦しみから楽におさらばさせてくれない俺を恨んでいた。

その中で唯一恨みを発散できる相手は俺だけ。

ま、結果的に建設的な気持ちにまで引き上げられたのだからいいんだけどね。

 

あてがわれた部屋に戻り、着の身着のままベッドの上に倒れ込み、着替えなくてはと思いつつ体を動かせずにいた。

どこからかノックの音がしたが無視していると、室内の空気が動く。

ドアの鍵は閉めたはずなのに。

暗殺だったらやばい、と思うがやはり体は動かず。

人の気配が俺の近くまできた。

人間、あっけなく死ぬもんだ。

けどもしこんな風に意識のはっきりしないまま眠るように往けるなら。

 

そんなことをぼんやり思っているうち、誰かが俺に何かを掛けた。

暖かい。

それとともに甘いパイプの香り。

髪をなでる手。

 

パタ、とドアが閉まってからようやく呪縛が解け、毛布をかけられたのだと知る。

へえ、あいつが。

もぞもぞ靴と靴下を蹴り落とすと本格的に眠る。

あいつがね、と思いながら。

 

オペ当日になれば、あいつの出番。

俺は暇だ。

万一のために安楽死の用意を整えてはいるが、この機械をここで使用することはあるまい。

あいつは地獄に片足を突っ込んだ人間すら強引に現世に引き上げる奴だから。

俺がいい証拠だ。

 

手術室用にもなっている患者の部屋のドアが開くと奴が出てきて、寄ってくる依頼人に目も向けずにまっすぐ俺に向かってくると

「キリコ、残念ながら今回もそれの出番は無いぞ」

と言った。

「先生、それでは祖父は」

と涙ぐむ依頼人に

「ま、やる事は全部やりましたよ。もうすぐ目を覚ますでしょう。主治医に指示をしてありますので、彼に従って下さい」

と言うとそのまますたすたと部屋に戻っていく。

普段なら目の前のベンチに延びてしまうが、今回は屋敷内だ。

部屋でゆっくり眠るのだろう。

 

主治医に挨拶に行くと、ちょうど患者が目を覚ますところだった。

患者の孫を呼び、ぼんやりとした表情の患者のそばに連れて行く。

愁嘆場が始まるのを見てそっと席をはずす。

もう彼に安楽死装置は必要ないだろう。

 

安楽死装置を片付けてそのまま帰ろうかと思ったが、支度が出来た時にはもう夕方になっていた。

この時間の山道は危ないと言われてもう一晩お邪魔することにする。

嵐とはいえ事故を見た直後だ。

確かにあの道を夜通るのは剣呑。

 

又あの先生と会うのは鬱陶しくていやだと言う気持ちと、ちょっと楽しみな気持ち。

どちらの気持ちが多いかわからないまま入った食堂には、彼はいなかった。

そのまま依頼人の孫の話を聞きつつ食事をし、話に付き合うが、奴は来ない。

召使が何度もドアをノックしたが、答えがなかったらしい。

「きっと熟睡しているんでしょう。夜食になるものでもあれば、彼の部屋か、開いていなければバスルームにでも置いておきますよ」

と言ってサンドイッチとワインをもらい、持っていく。

お人よしだと思うが、仕方ない。

昨日の毛布の借りがある。

 

そっとノックしても応えがないのを確認して、バスルーム側からのドアを開ける。

血のついた手術着だけはかろうじて脱いだようだが、後はそのまま倒れこんだらしい。

ま、先生らしいと言ったら、らしい姿だ。

小テーブルに盆を置き、このままで寝て寒くないかと頬に触れるが、子どものようにホカホカしている。

代謝のいい体をしているんだな。

そういえば抱いた時も熱いと思ったものだが、あれは酔っ払っていたせいだけじゃなかったのか。

 

なぜだか唐突に先日の過ちを思い出し、少々うろたえて手を離す。

きっとベッドがいけないんだ、とそばから離れ、代わりにエアコンのスイッチを入れておく。

サンドイッチはラップがかかっているから、乾燥はすまい。

そのまま退散。

 

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