ニューヨークの夜 −BJ−(上)
バーのドアを開けると、あの男の後姿があった。
あの小僧、さすがスリをしているだけあってこういう尾行は得意なようだ。
大サービスで明日も母親の容態を見てやろうと思いつつ、男の隣に座る。
普段ぎすぎすした雰囲気の男の眉の線が柔らかいのを確かめつつ酒を頼む。
この男に興味があった。
人々に死神と呼ばれ、冷酷非情と言われる男。
俺もそうだと思っていた。
初めて出会った時の男の言動は青い血が流れているようにしか思えなかったし。
けれど政府が患者の処分を決定した時、逃げ道を教えてくれたのはこの男だった。
役に立たない奴は殺す、と言い切った男だ、気まぐれに違いない。
そう思おうとしたけれど。
脊椎損傷の母子が交通事故で死んだ時のあのけたたましい笑い声を思い出すにつれ、反発が広がった。
けれど今では思うのだ。
あの哄笑は運命へ挑戦し続けて弓尽きた男自身へのものだったのではないか、と。
ほんの少しでも又期待してしまったことへの自嘲だったとしたら。
会う度に思った。
自分の肉親の生をあくまで己の手で断ち切ろうとする男。
この男の心はきっと血まみれてずたずたに切り裂かれていることだろう。
その痛みは俺が持っているものに似ているのではないか。
少年が急激に老化して死んだ時。
この男も俺と同じように俺達の傲慢と無力に打ちひしがれたのではないか。
思い出すにつけ男が気になって仕方なくなり、仕事の横取りをするような真似をした。
これは裏の世界では重大なルール違反だ。
俺のルールにも反している。
今まで俺は他の医者がやるといえばとりあえず手を引いたし、汚い仕事や道徳的とはとても言えないことを散々やっている。
何故俺はあの時1文の得にもならない反自然的なことをしたのか。
グマに侵された奴はたった1人で死にたがった。
自暴自棄になって犯罪に走ったり、他の人間にも同じ苦痛を味合わせようとしたりする人間が多い世の中で、発作にあえぎながらも俺達にうつすまいと最後の足掻きを見せたあの時。
無理やり麻酔して開腹し、本人も直に触ったことのない奥の奥に手を入れながら俺はそれまでにない動悸と興奮を感じた。
難しいオペであるほど昂揚する。
それだけではない、この男の腹の中を文字通り暴いているという、異常な興奮。
といってもあんなこと、もう2度とあるまい。
人間の腹の中などそう何度も開けるものではないのだ。
こんな風にあの時の手触りを思い出しながら酒を酌み交わせるだけでもいい。
仕事から離れている時くらい、もう少し親しくなりたいものだ。
そんな風に夢見ていたので、今日の事は棚から牡丹餅だった。
勿論さっきまではそんなこと考える暇もなかったさ。
死にそうな患者を前にすると、俺の意識はそれ以外になくなってしまう。
特に今回は患者が薄幸の母親。
残された子供がどんな思いをするかとちょっと思いを巡らせるだけで、熱いものに触れてしまった気分になった。
諦めちゃいけないんだ。
こんな後悔だらけの死に方、させちゃいけない。
この子の為にも、この男の為にも。
俺自身の為にも。
そんな気持ちで全力投球した後のニューヨークの夜景は最高だった。
この男と肩を並べて話し合う。
俺にとってはこの上ないひと時だったが、それをどうやって引き伸ばせるか、このしたたかな俺がどうしてもわからなかったんだ。
だからあの坊主にこの男がどこに行くか突き止めさせたのさ。
スリに遭ったばかりだからホテルにこもりきりになるかと思っていたが、案外ガードが緩いんだな、この男。
今も偶然をまったく疑ってない。
余り無防備に振舞うから、つい俺の部屋に誘ってしまった。
俺以外にはスリとか強盗くらいしかこの男に興味は持たないだろうが、そんなのに掻っ攫われてもたまらない。
ルームサービスで氷を頼み、酒をあける。
差し向かいでぽつりぽつり話しながら飲む酒は甘露だった。
これがいつも飲むのと同じ酒なのだろうか。
ただ俺以外の人がいるというだけで、古ぼけたホテルの壁紙さえ明るく見える。
しかしこいつが俺より若かったとは。
確かにとっさに取る行動に妙にすれていないところがあると思っていたが、人は見かけによらないものだ。
じゃああの初対面の時は○歳だったのか。
若い、若すぎるぞこの野郎。
なんて思っているうちにうとうとしてしまったらしい。
首筋がチリチリして目を開けると、目の前に俺を見下ろす男がいた。
さっきまでそれなりに動いていた表情が見えない。
まずいかな。
遅蒔きながら思う。
何となれば、俺はこの男をはめたことがあるのだ。
この男とわかりあえた気がして部屋に誘ってしまったが、軽率だったかもしれない。
誘ったときにもちらりとかすめたことだが、現実になると嫌なもの。
あまり手荒なことにならないといいのだが、メスを使ったらもうこんな時間は永遠におさらばだろう。
それはちょっと惜しい。
さて、俺はどこまで我慢がきくか。
殴られるか、蹴られるか、と思っていたので、男が横に座って髪を梳きだしたときには心臓がのどから飛び出そうになった。
なんだなんだ、この雰囲気は、と思いながらも口だけは余裕を装う。
雰囲気に飲まれたら負けだ。
相手の目を見るんだ。
じっと見ていれば殺気が出た途端わかるし、そうすれば修羅場慣れした体の方が反応してくれるはず。
そう思い目を逸らさずにいたが、いくらその目を覗いても殺気などは見つからず、変だな、と思ううちに唇を塞がれていた。
天地にかけて言うが、俺はノーマルである。
今まで野郎に興奮したことはないし、キスしたいと思った相手は女性しかいない。
そりゃあ人工呼吸は野郎相手にもするが、する度何でまた男なんだろうな、とがっかりしている。
また人工呼吸は舌など絡めないものだ。
なのに俺は唇を塞がれてもたじろぐどころか促されるままに口を開いて男の舌を受け入れていた。
別の生き物のようにからみつく舌に度肝を抜かれながらも同じように返す。
寂しい独り者でもそれなりの経験はあるんだ、俺だって。
けど俺は慎み深い日本人なので、こんな大胆なキスはしたことなかった。
飲み込まれそうなキス。
ここで「へたくそ」とか「年の割に大したことない」とか思わるのは癪だという意気でついていったつもりなのだが、急に背筋に寒気のようなものが走って力が抜ける。
男が図に乗ってのしかかってくるのがわかるが、もがこうとしてもすでに遅い。
こんなホールド普段なら簡単にかわせるはずなのに、体の奥がしびれて妙な麻酔に掛かってしまった気分だ。
ようやく離れた顔に目が覚めた気分で口の周りを拭う。
「思ったほど驚かないんだな」
という言葉に
「驚いているさ」
と答えながら、わめかない己に少々驚く。
普段ならこんな事をされたら高額な依頼でも即座に断り、出ていくに決まっているのに。
俺は今まで何度も監禁されたことがあり、拷問を受けたことも数度ある。
暴力的な男どもにとって強情で生意気な俺はたまらぬほど根を上げ、泣き声を上げさせたくなる存在らしいが、性的な嫌がらせを受けたことだけは1度もない。
そっちに行かない雰囲気が俺にあるんだろう。
木石じゃないから女と寝たことくらいはあるよ。
俺のオペの腕なら引く手あまただ。
大体人間ってのはピンチに陥った時、そこから這い上がらせてくれた人に好意を持つし、それを恋と勘違いする輩は多いからな。
そんな中に男もいないではなかったが、今まで歯牙にもかけずにやってきたのだ。
その中には親友と思っていた奴や王族の人間ややくざの大親分なんかもいたけれど、俺にとっては全部男と言うだけで対象外だった。
こいつとこういうことをしたいと思ったことだってないはずなのに、俺はなぜわめいたり逃げ出したりしないんだろう。
まるでこいつが動くのを待っているようじゃないか。