(下)
笑いの気配の残る喉の震えが気持ちいい。
最初は奴も俺の背中や腹の傷を辿っていたが、俺がツボをうまく突くようになると目を眇めて吐息を漏らすまいとするようになった。
その表情に魅入られながらも、どうせならこいつをヒイヒイ言わせてみたい。
指を突っ込んで口を閉じられないようにしてみると一瞬目を怒らせたが、指を噛まれはしなかった。
それどころか口内で指を動かすと、苦しそうな表情を浮かべながらも俺を見つめながら舌を這わせる様が淫らだ。
もっと乱れさせたくなり奴のものをズボンの上からまさぐると、奴の手が俺のズボンの前を開けた。
勢い良く飛び出すものに目を丸くした男は、俺の指を口からはずすと
「この変態」
と軽蔑したようにつぶやいたが、お前さんのものだって十分大きくなっているじゃないか。
「お前さんこそこのグロテスクな代物は何だ」
と言いつつしごき上げてやると
「俺のは生理的な反応って奴だね。お前さんの、は、それと関係ない、じゃない、か」
と吐息を荒げながらも本当に憎たらしい。
返す返すも、夢でくらいもうちょっとかわいげがあってもいいもんじゃないか。
舐められて濡れた指で後ろをほぐそうとしたが、イタイイタイとわめかれた。
「そのくらいの湿り気で何とかなると思っているのか。やめだ、すぐやめ」
とわめく口を強引にふさぎ、お互いに息切れしながら離れてかばんの中をごそごそ漁る。
何かあったっけ。
今回はオペの後、知り合いのバイヤーにいわゆる「最先端の医療機器」を見学させてもらい、こまごましたものを注文したが、全部船便で送ってしまったから・・・と漁る内、ひとつのチューブが手に触れた。
そういえばさっきのバイヤーが良かったら治験に参加してくれとくれたのだった。
いわゆる媚薬入りの軟膏だが、普通のものと違ってまったく相手に違和感を起こさせない昂ぶり方をするのだという。
製品になっていないところがちょっと気になるが、一番に手に触れたんだから縁があったということだ。
使ってみるか。
「気持ち悪い」
だの
「もうちょっと加減しろ」
だのと言っていた口が少しずつおとなしくなっていく。
早く潜り込んで、指では触れない奥まで探検したい。
メス越しには得られぬ感触を確かめたい。
だけど無理をして傷つけでもしたら大変だ。
男同士の性交は特に受け身に感染リスクが高いのだ。
性病の持ち合わせなんてないが、内部を傷つけて腸内細菌を暴れさせたくないし、痔にでもしたら2度目がなくなる。
こんなことになると思っていなかったからもちろんコンドームなんて持っていないし。
そんなことを思ったことまでは覚えている。
なのになぜ俺は腰が痛むのだろう。
どこかが切れたとか、そういう感じの痛みではない。
ただ腹に力が入らないのだ。
入れようとすると体の中心がドヨーンとする。
まるで内臓をぐちゃぐちゃとかき混ぜられたような気分。
その時フラッシュバックのようにいくつかの光景が駆け抜けた。
天井をバックに俺の髪をいじるキリコ。
揺れる俺の足。
その足を抱えなおしてゆっくり大きくグラインドする男。
体勢が変わり、背中に重みを感じながら枕にすがりついたときの布の感触。
え。え。ええ!?
ベッドの隣にもぐりこんだ男は時々うめき声を上げている。
俺がコンドームをつけなかったから腹を下したと愚痴っていた。
だからあんな光景、あったはずはないのだ。
ないはずなのに。
「何だ、こんなのでお仕舞いってことはないだろう。いつもギャンギャン元気じゃないか。元気が出るよう、手伝ってやろうか? ほら、握って。自分でする時気持ちいいように動かしてみろよ。同じようにしてやるから」
「目を開けろよ。イヤイヤじゃないだろ? いつもすごい目で睨むくせに。あんな目、して見せろよ。きっと今なら色っぽいぜ」
とんでもないせりふに思わず耳をふさぐが、いまさら耳を塞いだってどうにかなるもんじゃない。
何でこんな記憶があるんだ。
どういうことなんだ、これは。
俺が身じろいだせいかうめき声がやみ、
「腹が減ったな」
という情けない声。
「そうだな」
と答えつつ、声の響きに昨晩の面影がないかと聞き耳を立てるが
「お前何か買って来れないか」
という声は、普段よく聞く調子のもの。
「お前は無理か」
とそっけなく返すとため息とともに口をつぐむ。
どこが夢でどこからが現実なのか。
確かに俺がのしかかったはず。
指にリアルな感触が残っているから、間違いない。
でも、そういえばコンドームなしで入れたんだから、俺も軟膏に触れたわけだ。
もしかしてそれがなんか変な風に作用して、1度で終わらず選手交代したとか?
せっかくなら入れた時のほうのことも思い出したいものだが、そちらはきれいさっぱり忘れている。
ものすごく損をした気持ち。
でもなぜか、そのほうが良かったんだという気もしてならない。
しばらくするとうめき声の代わりに、静かな寝息が聞こえてきた。
俺のほうも休んでいたら少し良くなったような気がしたので、腹に力を込めないように気をつけながらベッドから滑り降りる。
恐れていたほどには痛くない。
ただ足腰ががくがくしてぜんぜん力が入らないだけだ。
畢竟壁伝いにすがりながら歩くことになる。
湯に浸かりながら恐る恐る手を後にやってみたが、腫れ以上のものはないらしく、ちょっと安心する。
入浴の効果はすばらしく、なんとか着替えることができた。
奴が腹減ったとこぼしていたのを思い出してルームサービスを頼み、散らかっていた昨日の残骸をゴミ箱に捨てていく。
ティッシュにくるんだコンドームが1、2、3。
・・・俺は持ってなかったんだから、これはこいつのなのだろうか。
とすると中身は俺のではなくこいつの分泌物で、そういうことになったと見るしかないんだろうか。
ということはこいつではなく、俺のほうがヒイヒイ言ってしまったのだろうか。
しかも3つってどういうことだ。
媚薬って言ってもそんなに強くないはずなのだ。
相手に感付かれないくらいの昂ぶり方しかしないと聞いている。
しかも潤滑剤のかわりに使っただけなのだから、俺が突っ込む方に作用しても、逆にはならないのではないか。
万一俺の時に塗られていたとしても、コンドームを使った奴自身に作用はないはず。
なのになぜ3回も。
もしかして、俺はねぎを背負ってやってきた鴨だったのだろうか。
そういえばあの男、俺にのしかかられてもほとんど嫌がっていなかったじゃないか。
ノックの音に物思いから覚め、ドアの外でワゴンを受け取る。
チップを弾んでボーイを帰すと、慎重にワゴンを押して部屋に入る。
よどんだ空気に獣の匂い。
こんな状態でチェックアウトしたくないが、窓が嵌め殺しで開けられないのだから、仕方ない。
見たことのない、男臭い笑い。
「そろそろこなれてきたな。お前さん、本当に初めてか? 受け身のほうが才能あるぜ」
ゆっくり大きく動く男の首筋に俺の手がかかる。
引かれるままに大きくなる笑い。
そのまま舌が出てきて俺の舌を誘う。
「キリコ、起きろ。飯だ!」
ぼんやりしていると不意に出てくる断片に耐えられなくなり、奴をたたき起こして食事にした。
すでにランチにしても遅い時間だ。
腹を満たせば気分も変わるさ。
そう思ったのに、なぜ俺はこんなに動悸が激しいのだろう。
俺、本当にこいつにこんな興味はなかったはずなのだ。
でも、本当に本当だろうか。
じゃあなぜ俺は昨晩あんなことを始めてしまったのだろう。
奴はどんな風に思っているんだろう。
媚薬は塗った場所とは別の部分に、より作用するので治験中止になったという連絡が来たのはそれからずっと後だった。
やはりあの夜の奴は媚薬の作用に支配されていただけだったのだ。
だがそれがわからなかった俺達は変に意識しあってしまい、真相がわかった頃にはその関係もずいぶん違うものになってしまっていたのだった。