ニューヨークにて

 

 

俺のちょっとした油断から始まった心臓のオペが終わったあと、屋上でニューヨークの夜を見ながら奴と話をした。

たわいもない話だ。

さっきのことをからかわれたり、ふざけられたり、しみじみしたり。

その日の奴はいつものけんか腰な男ではなく、ちょっと不遜で憎たらしくはあるが険のない顔で話す、ただの青年だった。

普段のハリネズミのようなイメージがないのは、目が喜びに輝いているせいだ。

しかもそれはいつものような俺に対する優越感ではないのだ。

俺自身も久々に安楽死以外の医療行為を行ったことに高揚していた。

こんな風に死を望まぬ患者を手がけること自体、恐ろしく久しぶりなのだ。

最後がいつだったか忘れてしまうほど。

 

そんな高揚のまま、奴と飲んだ。

かばんは奴の部屋に置かせてもらったので、もう盗難の心配もない。

そのホテルの近くには生演奏を聞かせるジャズバーがあり、酒の品揃えも好みだった。

居心地のよさに、普段より杯が進んでしまう。

奴は終始上機嫌だった。

もちろん仏頂面が変わるわけではない。

にやりとした含みのある笑い方もいつもどおり。

それでも目が違う。

目つきがちょっと違うだけで人はこんなに変わって見えるものだろうか。

 

バーを出たときには、お互いいい気分になっていた。

「ふふ、どうやってお前さんに代金を払ってもらおうかな」

さっきの冗談を蒸し返しながらもたれかかる男に

「いい加減にしろ、この酔っ払い。俺は金なんか払わないぞ」

なんて言いながら一緒に歩く。

こら、そんなによっかかるんじゃない、歩けないじゃないか。

ああもう、お前さんがこんなに絡み上戸だったとはな。

何が孤高の医者だ、まったく。

そんな男を適当にあやしながら、フロントで鍵をもらって部屋に行く。

自分のホテルに移動するの、もう面倒になってしまった。

ソファでいいから貸してもらおうか。

 

あ、こら。

部屋に入り、ベッドの近くまで来たところで奴が大きくバランスを崩した。

がち。

 

痛い!

のしかかる男をどかそうと試みながら

「今がちって言ったぞ、おい。なんだお前さん、倒れるんなら俺まで巻き込むんじゃない。歯がぶつかったじゃないか。もし歯が欠けたらどうしてくれる」

と文句を言うと

「うるさい口だな」

ともう一度キスされた。

と言っても酔っ払いがやるような派手な音がする奴だ。

この男がこんなふざけをするなんて意外で、笑いながら

「なんだ、体で払えとでも言うのか?お前さんにそんな趣味があるとはね」

と言うと、男も笑いながら

「それもいいかな」

とのしかかってくる。

 

おい、この酔っ払い。

冗談きついぞ。

重い。

なんてふざけているうち、子供のように口に吸い付かれ、息ができなくなる。

「すっぽんか、何だそのキスは。キスってのは・・・こうだ」

何でそんなことをしたのか、酒の勢いは恐ろしいとしか言いようがない。

二人とも歩いたから酔いが回ってしまったのだろう。

 

「なるほど、こうか」

ン、ム。

はあ。

 

「もうちょっと、こう」

・・・。

 

お互いエスカレートしてしまい、そろそろやばい。

冗談もこのくらいにしておかないと、こっち方面はしばらくご無沙汰だったのだ。

こいつ相手に催したら洒落にならない。

 

そう考えて男を退けようとしたが、右腕を上から押さえつけられた。

「お前さん、本当に」

冗談きついぞ、と続けようとしたが

「俺の心臓のオペは最低でも500万だ。お前さんを500万で買ってやろうっていうんだ、値段に文句はないだろう」

という男の目が座っている。

こいつも溜めすぎて変なスイッチ入っちまったか。

「そりゃ値段に文句はないが、お前さん、しらふになったら後悔するんじゃないか?」

と言いつつ、なんでこんな話になっちゃったんだろうなと思わずにいられない。

「そんなこと言っているなら付き合えよ。なまっちろい体、しやがって。最高の外科医がお医者さんごっこしてやるぜ」

なんて言いつつ嬉々として俺のタイを抜く男の豹変にびっくりしながらも、俺はどちらかというと来るもの拒まずなのである。

もちろん普段は女性限定ではあるが、これでオペ代と言われなくなるならま、それもありかも。

 

奴に促され寝転がったまま自堕落にシャツを脱ぐと、奴は俺の腹に手を置いて

「何だ、今日はお前さんも酔っているんじゃないか。顔には出てないのに体はほら、ほんのり赤い」

と言いながらまるで触診でもするように体を辿っていく。

その手を取って

「当たり前だ、こんなのしらふでやってるか。お前さんだって手のひらが赤いじゃないか」

と指先に軽くキスしてやると

「言ってろよ。そんなこと言っていられるのは今のうちだぜ。俺の神の手をじっくり味合わせてやるから」

と男が凄む。

おおこわ。

お手柔らかに頼みましょうかね。

 

人に体を辿られるばかりなのも照れくさいやら手持ち無沙汰やらなので、男のタイを外し、シャツの下から手を突っ込んで素肌を辿る。

指先に軽く何かが引っかかるもの。

これは何かの傷跡だろうか。

最初は傷の一つや二つくらい、と思っていたが、俺の触覚に間違いがなければいくつもあるように思える。

「何だ、この傷。俺ばかりじゃなく、お前も見せろ」

とシャツを引っ張り脱がせると、下には縦横無尽に走る傷。

「すごいな」

と感嘆するしかない。

憮然とした表情で

「なにがだ」

と言う男に

「これ、何の傷だ?」

と問うと

「子供の頃、不発弾が爆発してばらばらになったんだ」

と教えてくれた。

 

この男、そんな大怪我から生還したのか。

不屈の精神で死をも追い払うイメージの男は、本当に死を追い払ったことがあるのだ。

自らの体から。

 

どんなに大変だったことだろう。

生きるだけでも大変だったはずなのに、この男の動きにはリハビリ後の不自然さがない。

それどころか常人より気力体力ともずば抜けているのは、今日を振り返っただけでも十分にわかる。

 

ああ、完敗の気分。

「お前さん、本当に生汚いんだな」

敬意を込めて言う。

男は目を三角にしていたが、構わず

「お前さんのタフで死にそうにないところはいいな」

と言いながら傷を辿る。

だからこいつは生の象徴のように見えるのかもしれない。

いつもぎらぎらとした生命力を発散するこの男は。

 

うっとりしていると首筋にむしゃぶりつかれた。

子供じみたしぐさに思わず笑ってしまう。

もういいや。

酔いがさめたらごたごたするかもしれないけれど、今はもう本格的に流されてしまおう。

気持ちいいことは好きなのだし。

 

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