(下)
ちぇ。
これでしばらく転がり込めると思ったのに。
このまま帰られたらせっかくの楽しみが水の泡なので
「茶でも飲んでけ。客に飢えているんだ」
とさりげなく手首を掴み、ドアを開けて
「客だから、お茶の支度をしてくれ」
と奥に叫ぶ。
奴はじたばたと往生際が悪く
「おい、何で」
と手を振りほどこうとするので、面倒になり
「俺の奥さんを紹介したいと思ってね」
と笑ってみせると、男の口元がひくりと動き、逃げようとしていた手がだらんと落ちた。
抵抗のうせた体を引っ張り、テーブルを示す。
男は無言のままそれに従うが、死に神の化身と言われたころの得体の知れない気配をまとっているように思え
「先生、お茶はこぶの手伝ってえ」
と言うピノコの声にそそくさと抜け出す。
何だよあいつ、機嫌悪いな。
本気でこの俺が妻帯者だと思っているのか?
冗談きついぜと思いながらもニヤニヤしそうになる。
だってそれって、嫉妬してくれているわけだろう?
気を取り直してティーセットの載った盆を持ち、ピノコの後に続く。
奴は俺の後ろを気にしているようだ。
それをよそ目に食器を置き、椅子に座る。
動悸を抑え、まずはピノコにキリコを紹介。
そして男に
「こちらが俺の奥さんだ」
と改めてピノコを紹介する。
挨拶の折に下げた頭を男がゆっくり上げていく。
無表情な目がいぶかしげに瞬くのをじっくり観察したかったのだが
「いやあん先生ったら。まだ正式な結婚式も挙げてないのに」
と照れたピノコが大喜びで俺をバンバン叩くのに気を取られ
「ご覧の通り、俺はこの奥さん兼助手と2人きりで暮らしているんだ。ほかに結婚の経験はない。気ままな二人暮らしだから、いつでも遊びに来いよ」
と言いつつ反応がないか穴の開くほど奴の顔を見ても、なにもなし。
これは外したかな。
と思ったが、男は熱い紅茶をがぶりと飲み込み、そのまま噴いてむせこんだ。
やった、敵は動揺しているぞ。
染みのできた男のシャツをはぎ、ピノコに水につけておくように言う。
呆然とされるがままの男に
「古典的な方法だが、居残る理由ができたわけだ」
と笑いかけると家に入って以来、やっと目が合った。
もちろん笑いかけられるとは思っていなかった。
怒るか怒鳴るかされるのだろうと思っていた。
そうされた時の軽口を用意して待っているのに、男は口を開かない。
悪ふざけが過ぎただろうか。
後悔しても始まらず、ただじっと男の瞳を見続けていると突然タイを掴まれ
「今晩、覚悟をしておけ」
と吹き込まれ、突き飛ばされた。
体勢を戻した時にはピノコが
「お待たせ」
と帰ってきたので一時休戦。
俺が貸そうとしたシャツは、悔しいことにどれも奴には短かった。
残念ながら俺はTシャツなどの伸びる素材の服は持っていないので、奴は素肌に白衣を羽織っている。
前開きのものを貸したので襟が広く開いており、鎖骨鑑賞にはもってこいだ。
こうしてみると、男が着やせするタイプなのだと気づく。
あの重い安楽死装置を持ち歩く男なのだから、それなりに筋肉がついているのは考えてみれば当たり前だが、普段付き合いのある医者連中はひょろひょろしたのか横に突き出たのばかりだから、余計に目を引く。
それを言うなら今まで奴の顔なんて目鼻口がある程度にしか見てなかったが、改めて見ると味のある顔しているなあ。
なんて新聞の陰からちらちら観察して午後を過ごした。
俺がさっき
「奥さんを紹介する」
と言った時のこわばりきった顔。
すごい勢いで茶を飲み込んでむせた時の慌てよう。
そんなのを何度も反駁してはにやつき、奴と目が合いそうになって慌てて新聞のページをめくる。
しばらくは居心地悪そうにしていた奴も、しばらくすると
「貸せ」
と俺から奪った新聞を読んだり、ピノコにまとわりつかれたりしていた。
普段よりはにぎやかな夕食の後、ピノコを寝かしつけて戻ると、居間はがらんと人気がなかった。
家の中を一通り探しても、奴がいない。
外に出て奴の車が残っているのに安堵し、かすかにタバコの残り香がするのに気づく。
タバコを吸いに外に出たのか。
だが、今はどこに?
満月の中、闇を透かし見ても坂道には人影がない。
家の裏に行ったのか?
裏はすぐに崖なので、俺もピノコも暗くなってからはそちらに回らないようにしている。
キリコの奴、まさか。
崖からまっさかさまに岩場に落ちる奴の姿が目の前をよぎり、慌てて裏に回ると、そこには崖を覗き込むキリコがいた。
よかった無事だ。
「こんなところにいたのか」
脅かさないよう抑えた声で問うと
「すごい場所に建った家だな」
と感心したように言うので、気をよくして崖下を案内することにする。
少々危険な道だが、今日は満月。
よほどのことがない限り、足を滑らすこともあるまい。
トリトンと出会った秘密の入り江。
ピノコすら一度しか連れてきたことがない小さなこの場所をこの男と歩くのはなんだか不思議で、でも当たり前な気もした。
「なんだか初めて会ったあの場所みたいだ」
と言われ、この男に初めて会ったのは目隠しして連れて行かれた政府の秘密の場所だったと思い出し
「政府の何たらか。あの時のお前さんは死に神の化身そのものだった」
と返す。
あの時のこいつはただの死に神だった。
死にたい奴、役に立たない奴は殺す、と言っていた。
なのに俺はこの間、自殺志願者をこいつに預けた。
こいつが小僧を手にかけるなんて、可能性すら考えずに。
「あんたは俺を嫌悪そのものの目で見ていたな」
「お前さん、目つきがイッてた。死に取り付かれている奴だと思ったね」
「俺は鼻持ちならない思い上がりだと思ったね。若造が、と」
「まさか年下だとは思わなかったがね」
「とんだ童顔だったな」
言いたい事を言い合いながら、おかしくなってくる。
こんなふうにふざけた言い合い、誰かとしたことがあっただろうか。
たくさんいがみ合って喧嘩してきた仲だからわかる。
こんなことくらいで離れていかないのだ、この男は。
ひとしきり笑い、面を改めて
「お前さんの顔は、ずいぶん変わった。今のほうが年相応かな」
と言ってやる。
この男の表情に、あの頃に見た死に神はいない。
せっかく褒めてやったのに
「あんたの童顔はかわらないがね」
と言われ
「うるさいな」
と吐き捨てると男の表情が変わった。
手が伸びてきて、俺の髪をかきあげる。
額から斜めに辿る指の動きに傷跡を辿られているのだと知り、体が固まる。
ずっと揶揄を受けてきたのだ。
だが男の指は耳まで行くとそのまま俺の頬を包み込んだ。
温かい。
その温みはすぐに舌をむさぼりあう熱さになり、だがしばらくして熱が引いても離しがたく、吹きさらしの海風を受けながら男の背中に腕を回してそのまましがみついていた。
この男といつまでこうしていられるだろう。
命は儚く、俺達みたいな稼業の命は余計に儚い。
そうでなくても口論の末、仲たがい、なんてこれから幾度も繰り返すだろう。
でも。
この一瞬は永遠なんだ。
今はただこの服越しの体温が愛おしくて仕方なかった。
長々と続きましたが、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
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