小うるさい安楽死医(上)
飛び降りの少年を拾ったのは気まぐれだった。
強いて言うなら職業意識と、ま、礼金をふんだくられるかなという打算だ。
金持ちの息子だからたっぷりいただけるだろうという皮算用はすぐに崩れ、せっかくオペした命を散らそうとする小僧をどうしてやろうかと考えた時、奴の顔を思い出した。
こうなったらたっぷりお灸をすえてやる。
安楽死の現場を目の当たりにして、生きるって事を考えて見ろってんだ。
なんて思いながらも久々に奴の屋敷を見ると胸が高鳴った。
あの日奴と喧嘩別れした後、ぐずぐずしているうちにちょっとしたことで崖から足を滑らせ、しばらくの間動物病院にご厄介になっていた。
その後はギブスの間ずっとある熊を追い続け、他のことを考えられる精神状態ではなかった。
だから、ここに来るのはずいぶん久しぶりなのだ。
俺を見ると奴はすぐにため息をついて腕組みをし
「お前さんには俺が邪魔者のはずだぜ」
なんて格好つけてみせたが、俺を認めた瞬間に現れた喜色を見逃しはしない。
そう、俺は強気だった。
これ以上なく強気だった。
最後の日にソファかなんかに八つ当たりしながら
「俺の気持ちも少しは考えろ」
と毒づいていたこいつは、多分俺に好意があるのだ。
それもただの友情でなく、俺と同じような意味で。
そのことに気づいてしまった今ではこんなせりふ、ただ拗ねているようにしか聞こえないじゃないか。
久々の会話が楽しくてならない。
からかえばからかうほどムキになる姿が俺の好み。
なるほど、たしかにこいつは俺より若いのかもしれないな。
奴もそれなりに老成した男ではあるが、狸なら俺が一枚上だ。
うまいこと言って小僧を置いていくのに成功する。
帰りの車の中、以前だったら自殺志願者を奴に預けるなんて考えられもしなかったな、と思う。
初めて出合ったときの奴は、ただひたすら怖いだけの男だった。
奴の前で
「死にたい」
と一言呟けばすぐに願いをかなえられてしまうような。
あの男はいつのまに変わったのだろう。
いや、あの頃でさえボートのありかを俺に教えてくれたのだったか。
帰宅してしばらくは静かな日々を送った。
家の修理をしたりピノコの買い物に付き合ったりとそれなりに忙しくはあったが、たまにあるオペの空白期間に入ったらしく、依頼はぱたりと途絶えていた。
海外からの依頼はあったがそれとなく言葉を濁し、ほかの医者を紹介したりもした。
ギブスを取ったばかりで飛行機が心配だから、と表向きには説明したが、それだけが理由でないのは俺自身、良くわかっていた。
小僧を引き取る頃合を探っていたのだ。
いや、小僧をダシに奴とどう話してやろうか悩んでいた、と言ったほうが正確か。
もちろん是非にと乞われたら行く気はあったが、言われなかったのだから縁がなかったんだろう。
俺からかけようと思っていたので、突然奴から電話があった時には驚いた。
奴はかんかんに腹を立てていて、状況が飲み込めない。
電話では埒が明かなくて奴の家に行ってみると、小僧は期待以上にいい働きをしていた。
こいつの安楽死装置を壊すなんて、さすがの俺でもちょっとできない。
プロ同士の仁義ってもんがあるからな。
その点小僧には何のしがらみもなく、思い切りやっちまったってわけだ。
まさか腎臓移植を依頼されるとは思ってもいなかったが、乗りかかった船。
しかも俺自身が招いたと言えば招いた事態だから最大限の努力をしてやるか。
奴に患者を引き取っていいかと打診する。
携帯用の安楽死装置が残っていることは推測できたが、あえてそれには触れなかった。
こんなの屁理屈だが、男には何か理由が必要なのだ。
傍からみればバレバレの理由でも。
小僧の両親は想像以上に太っ腹だった。
どこの馬の骨とも知れぬ女性のオペ代を支払うというのだから。
それどころか今までの経緯を話すと、俺は
「息子の命どころか性根までを正してくださった」
ことになり、かなり吹っかけたオペ代を言い値で(しかも現金一括払いで!)支払ってくれたのだ。
これはいつにも増して嬉しいことだった。
男とは見栄張りなもので、どうせオペ代の半分を渡すなら大金を渡して己の手腕を誇りたいと思ってしまう。
以前数回依頼がかち合った時に奴の相場は大体知っているから、こんなに渡してもあいつが困るだろうとはわかっているが、それとこれとは話が別だ。
これは俺が決めた誓いなんだから。
と勝手に独り決めし、現金をあえて書留で送った。
いけないのは知っているが現金書留で送ったら受け取ってくれないかもしれないし、小切手や銀行振り込みじゃつまらない。
やはり金は生で積まないと。
奴の反応が楽しみでわくわくしていたのだが、そんな時に限って緊急のオペが入る。
そして待ちわびた電話が来るのは執刀準備で忙しい時と決まっている。
「あれは何だ」
という声にそっけなく
「今までの清算だ」
と返しつつ、時間があったらこんな会話も楽しいだろうにと歯噛みする思いだ。
「額が多すぎる」
という苦情に
「今まで世話になったからつぎのオペ代の半分を渡そうと決めていたら、額が多かっただけだ」
と説明するが、こんなに受け取れないから取りに来いなんて言う。
こっちは忙しいっていうのに。
面倒になって
「こっちはこっちで忙しいんだ。きっとまた迷惑をかけることもあるだろうから取っておけよ。言いたい事があるならうちに来い。言い分くらい聞いてやる」
と言って切ってしまう。
来るなら来るだろう。
来ないなら来ないだろう。
まあ、来なかった時は暇になってから
「また迷惑をかけに来たぜ」
とでも言いながら押しかければいい。
嫌な顔されたとしても
「この間、額が多すぎるって言ってたろ」
とごねて居座り、今度こそあいつの気持ちを確かめてやる。
そう決めて始めたオペは、我ながら手際がよかった。
すばやく切って整合し、すばやく閉じてほかの病院に回す。
ピノコの知り合いだったからうちに運ばれたが、本来なら救急に連れて行かれるような患者だ。
今回は急ぐから特別サービスの100円でいいけど、次から100万は取るからそのつもりで。
もう来るなよ。
一寝入りし、表に出て起き抜けの一服としゃれ込んでいた時、見覚えのある車が上ってきた。
あいつのだ。
奴が降りてくるのに軽く手を上げ
「来たな」
と挨拶したが、あいつは固い表情のまま
「一割は経費として受け取らせてもらった。だがこんなに渡されるのは迷惑だ」
と包みをつき返して踵を返そうとする。