一人暮らしの風邪

 

 

船から降りると俺はあの二人に「泊まれ」と言われるのを振り切るようにして自宅に戻った。

若い女の子たちの楽しげな声を聞きながら過ごすというのは2、3日なら刺激的で面白みもあるが、それ以上になってくると正直きつい。

俺は普段静かな環境に慣れているので。

また、おちびちゃんの豪快な料理は俺には少々豪快すぎた。

最初なんてうろこがびっしりついたままの魚が丸ごと料理されてきたのだ。

喫茶店のマスターがいろいろ教えたらしく、だんだんましにはなってきたが。

よく年寄りが、孫のことを「来る喜び、帰る幸せ」と言うそうだが、俺もそろそろいつものひとりの生活に戻りたくて仕方なかったのだ。

 

一旦奴の家で包帯を換え、そこから自宅に送ってもらった。

玄関の鍵を開け、中に入る。

人気のない家の匂い。

冷蔵庫はほぼ空だが冷凍室にはいろいろ入っているし、レトルトの買い置きもあるからしばらく出なくてもなんとか食いつなげるだろう。

家の換気をし、作業室に入る。

 

今回俺はうっかりして安楽死装置を振り回してしまった。

しかも撃たれて崖から落ちたので死ぬと思い込み、装置の回収など考えもしなかった。

結果的に生き残った今の俺には予備の安楽死装置がない。

いや、本当は一組だけあるのだが、そちらは旧式で据え付け型だ。

もう一度携帯型を作らなくては商売上がったり。

改良点もいろいろあるし、各パーツは業者から買うにしてもまず簡単に設計を書いて頭の中を整理しようと決める。

そう、俺はちょっぴり機械おたくの気があった。

 

作業を始めてしまうと時間がたつのが早い。

ついもうちょっともうちょっと、と根を詰めてしまう。

食事の支度も面倒で買い置きのスナックをつまむ程度で済ましていたら、あるとき立ち上がろうとしてひどいめまいと寒気に襲われた。

これはやばい、とレトルトの中華丼を温めつつ風呂の用意をし、まず食事をする。

めまいはまともなものを食べていなかったせいだし、寒気はずっと着替えをサボっていたせいだ。

それだけのせいだ、と唱えつつ包帯を解いて、久々の入浴。

本当は抜糸まではシャワーのみ、と言われているが、もう傷口はふさがっているのでいいだろう。

機械に関することになると俺はのめりこんでしまって、どうもだめだ。

 

体をこすっても最初は全然泡が立たない。

一度流して2度目にこするとやっと泡立ってきて、自分の不摂生さに我ながらあきれる。

家に帰ったらまず風呂だ、と楽しみにしていたはずなのに。

船の中ではせいぜい濡れタオルで体を拭くくらいしかできなかったのだ。

いかんな、と思いつつ洗髪。

ものすごく抜ける。

健やかな髪のためにもきちんとしなくては。

 

湯にのんびりつかると普段なら疲れがふわっと抜けていくものだが、今日は湯をどれだけ足してもまだ寒い。

考えたくないがやはり風邪なのか。

もう包帯もいらないようなのでそのまま着替え、すぐベッドに入る。

明日には直っているだろう。

起きたら抜糸だ。

そう思って眠りについたのに。

 

朝起きたら、声が出なかった。

のどが腫れてあくびができない。

とにかく薬の前に何かを腹に入れなくては、と台所をあさるとレトルトの粥が1つあった。

これはいい。

 

湯を沸かすのもしんどいのでレンジで温めようと深皿を取り出す。

レトルトの封を切って、台所に空ける。

空き袋をゴミ箱に捨てる。

卵でも落とそうか、と冷蔵庫を開けてから処分して出たんだと気づき、閉じる。

味気ないがそのままでいいか、と皿をレンジに入れようとして、何も入ってないのに気がついた。

 

あれ?

俺、袋は開けたよな。

ゴミ箱を見ると、ちゃんと空のレトルトが捨ててある。

そこら辺をきょろきょろしてふとシンクを覗いたら、なぜか粥がぶちまけてあった。

 

どうやら思った以上に具合が悪いらしい。

シンクを洗おうと思うがどうしても水に触る気になれず、今日のところは見ないふりだ。

せめて、と水を1杯飲んだら急に熱が上がってきて這うようにベッドに戻る。

薬を飲み忘れたことにようやく気づいたが、再度起き上がる気力は戻ってこなかった。

独り者が病気になると悲惨だ。

誰かが看病してくれるわけじゃないし。

寝て直すしかないか。

 

気がつくとチャイムが鳴っている。

出る気力がないので居留守を決めようとそのまま寝ていたが、いつまでたってもチャイムが続く。

その後ひとしきりドアをたたく音。

誰だろう、乱暴な奴だな。

まさかと思うが怨恨だろうか。

正直、心当たりがありすぎる。

今日は出直してくれ、と願っているうち音がやんだ。

うとうとし始めたが、下の階のドアを開ける音がする。

そういえば、換気した後きちんと窓を閉めただろうか。

 

足音が階段を上ってきた。

隣の作業場を開ける音。

向かいの書斎を開ける音。

後はこの部屋しか残っていない。

なぶり殺しだけは嫌だな、と思いつつも体が動かずぼんやりドアを見ていたらドラキュラが入ってきた。

 

俺の血はまずいぞ、と思うが、ドラキュラはこっちに近づいてくる。

近くに来て手を伸ばされたところで観念して目を閉じた。

手が額にかかり、首筋に降り、俺はその間一生懸命ドラキュラは何が嫌いか考えていた。

今それを知ったところでどうにもならないし、大体そんなものを信じていたわけでもないのに。

 

「熱があるのか」

と問われ

「だから俺の血はまずい。どうか他をあたって欲しい」

と言ったら

「うわごとか?まさか脳症じゃないだろうな」

と布団をはがれ、シャツのボタンをはずされる。

「包帯取ったのか」

と言う声にやっと誰だか気がついた。

 

「だからうちで養生しろと言ったのに」

と言いつつ手早く抜糸される。

抜く瞬間はほんの少し引きつれるが、体から異物が抜かれるのは何とも言えない心地よさだ。

今までねじれていた場所が元に戻る感じ。

普通は抜糸後も皮膚がまっすぐかみ合っていない感じがしたりするものだが、さすがに奴の技術はたいしたものだ。

触られれば痛みはあるが、変な感じはまったくしない。

「どうだ」と傷跡をなでられてちょっとぞくりとした。

男相手に変な感じ方をしてしまったな、と思いつつ奴の顔を見たら、茶色い目が妙に赤く見えてどきまきする。

 

持参のかばんから聴診器を取り出しながら「風邪薬は持ってきていないが、お前、ストックはあるか」

と聞かれ、ないと答える。

本当は風邪薬くらい薬品庫にあるのだが、奴に持ってきてもらいたくない。

あそこには奴に見られたくない類の薬品がいくつかある。

せっかく様子見に来てくれたろう相手と言い争いはしたくない。

 

「熱が高いな。鎮痛解熱剤ならあるからそれだけでもやるが、まだ上がる時期かもしれない。何か食べないといけないな。ピノコがカレーを持たせてくれたんだが・・・これはだめだな」

と言われ、うなずく。

「何か食べたいものはあるか」

と聞かれ

「アイスキャンディ」

と答える。

甘くて冷たいものが食べたい。

え、という顔をされたので台所の引き出しにビスケットがあるのを取ってきてくれるよう頼む。

とりあえずの腹ふさぎにはなるだろうし。

 

ビスケットと水を渡され、もそもそ1枚だけ口に押し込み、解熱剤をもらった。

奴は

「寝てろよ」

とだけ言って出て行ってしまう。

もう行ってしまうのか、と名残惜しいのは熱があるせいだろう。

車の出て行く音を聞きつつ、明日は直っているはず、と自分に言い聞かせる。

枕元に水とビスケットが置いてある。解熱剤と一緒だ。

さっきまでよりずっとまし。

 

寝苦しいながらもうとうとしていたが、人の気配にふと目覚めると奴がいた。

「近場の知り合いのところで薬を処方してもらったんだ。起きられるか」

と背中に腕を回される。

さっきよりふらふらしていて、もたれかかるようにしてやっと飲んだ。

「あとアイス、買ってきた」

と昔ながらのアイスキャンディを持たせてくれた。

 

橙色だからオレンジ味なのだろうが、なんとなく甘いのだけしかわからない。

硬すぎて歯が立たなくて苦労していたら

「切ってきてやる」

と一口大にしてきてくれた。

寝たままスプーンで口に入れてもらうなんてこの間お嬢ちゃんにされたときには固辞したものだが、無理やりされているうちに慣れてしまったんだろうか。

口の中で解けていくのが気持ちよくて、その間だけ頭痛が弱まる。

食べ終わると

「眠れよ」

と額に手を置かれた。

なぜか落ち着いた気分になり、眠くなる。

もしかして、船の中でもこうされたことがあったのだろうか。

 

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