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意見は無用 (上)

 

 

俺はさっきまでササクレ島の馬鹿息子と一緒に漂流していた。

目の前で殺人を見、船沈没の危機におびえ、なんとかサメを追い払い。

散々飢えと乾きに苦しんだ挙句やっと陸地に着いたかと思えば、息子が死んだからと銃口を覗く羽目になると来たもんだ。

 

こっちだって、助かる命なら助けたかった。

そりゃア最初は脅されてしぶしぶ向かったさ。

けど、俺はプロだ、どんないきさつでも一度引き受けたら全力でやる。

それにいくらどうしようもないドラ息子だといっても、極限状態の中では情が湧くもんだ。

叱って励まして、やっとあいつも前向きになり、これからの人生は自暴自棄とおさらばできそうな目になった。

間に合うなら、助けてやりたかったのだ。

それなのに、この仕打ちか。

 

間一髪の俺を救ったのは、息子の遺言だった。

奴の遺言は、体の下に書かれていた。

俺がうたた寝している間に苦労して体を動かし、ひそかに書いておいたらしい。

そんなことで命を削らなければ、最後に一目再会できたかもしれないのに。

けど、その瞬間に、こいつは本当に「生き」たんだろう。

 

親分が渡そうとする金を突っ返し、そのまま歩き出したはいいが、我に返ると服はぼろぼろ、ポケットに小銭すらない。

こんな格好ではタクシーも止まらないし、財布を落としたと駐在所で金を借りようとしても職務質問されるのが関の山だろう。

どうしようか、と電柱の住所表示を見るうち、この近所に一人だけ知り合いがいるのを思い出した。

俺に闇で薬や機材を流してくれる男だ。

奴なら少しくらい用立ててくれるだろう。

本来なら借りは作りたくない男だが、背に腹はかえられないだろうと家を探し、ドアホンに手をかけたところ、ドアが開いて人が出てきた。

ドクター・キリコだ。

どうやらここを訪れていたらしい。

さあ、どうしよう。

ここでどちらに借りを作るか。

キリコはまずい、と思う。

いくらなんでも、もうこの間のニューヨークの貸しは返してもらってしまっただろう。

いや、しらばっくれればこいつは貸してくれるだろうが、これ以上無様な格好を見せたくはない。

だがこのブローカーに借りるのも最後の手段であるのは確か。

この男、ほんのちょっとの貸しを過大に請求する奴で、今までも無理を言う度やくざだの訳ありだの、後でとんでもない客ばかり押し付けられた。

本当は手を切りたいくらいの相手なのだ。

 

目まぐるしく頭を働かせる俺に、ブローカーが

「先生、どうしたんですかい、その格好」

と驚きの声を上げ、俺の腕を取った。

反射的にその手を払う。

 

ヤバイ。

今思い出したがこいつ、さっきのヤクザと対抗する組織に近いんだった。

今ここでこいつの世話になったら、後日とんでもないトラブルがないとも限らない。

「いや、ドクター・キリコがこちらに来ていると小耳に挟んだんでちょっと寄らせてもらったんだ。この先生には言いたいことが山ほどあってね」

わざと苦々しい口調で吐き捨てるように言うと

「何だ、トラブルのとばっちりはごめんですぜ。どうぞドクターとお二人きりで、他所でお願いします」

と早合点した男は、早々に俺達を追い出してくれた。

ああ、こいつと犬猿の仲だという噂があってよかった。

 

「何だ今度は。大体俺はあんたがそんな格好になるようなこと…」

わめき始めた口を一瞬だけ手で押さえ体を寄せて

「とにかくここから離れてから」

と押し殺した声でささやくと、一瞬奇妙な顔をした男は

「俺の車に乗るか?」

と言い、うなずく俺の前を歩き出す。

ともかくその後をついていくと、コイン駐車場の前に飲み物の自動販売機があった。

喉は干上がりきっている。

そのまま車に向かおうとする男を呼び止め

150円、いや300円小銭くれ」

と頼み、男が小銭入れを開けるのももどかしくコインをいれ、スポーツドリンクらしいのを2本買い、その場で1本一気飲みする。

 

はあああーっ、うまい。

口を拭ってもう1本のキャップも開け、半分ほど一気飲みしたところで自制心を取り戻し、何とか一旦口から離す。

脱水の時、一度に飲んでも吐いてしまうのが落ちだ。

なるべくゆっくり飲まないと。

 

車に乗り、シートベルトをした男は、俺もベルトをするのを横目で見ながら

「お前さん、この間腕を吊っていたばかりじゃないか。また今度はどうしたっていうんだ」

と聞くが、俺の目は小物入れに置かれたキャンディに引き寄せられていた。

「これ、食べていいか?」

と聞き、うなずくのを待たずに剥き、口に放る。

甘い!

これこそ甘露だ。

目をつぶって頬に手をあて、口いっぱいに広がる甘みに陶然とする。

「なんだなんだ、まるでしばらく食ってないみたいじゃないか」

と言う男に

「ちょっと漂流しててな」

と返すと

「漂流!?
と素っ頓狂な声を出した奴は

「まったく。だからこんなに日焼けしたのか。肌がひび割れてるぞ」

と俺の目の縁を軽く撫で、ダッシュボードから非常食らしいビスケットの小袋を出すと

「胃が縮まっているだろうから、それで終いだ。ホテルに俺の着替えがあるから、とりあえずそれを着てなんか食べに行こう。それとも弁当を買って、部屋で食うか」

とアクセルに足をかける。

「弁当がいい。おごってくれ」

と言うと

「そろそろ貸しだな」

と言いつつ弁当屋を探してくれた。

 

温かい弁当が膝に載せられるとぷうんといい匂いがして、その場で包みを開けたくなってしまう。

けど、だめだ。

さすがにこんな車の中で子供のように弁当をがっつくわけには行かないだろう。

我慢がまんと心の中で唱えているうち、ホテルに到着。

弁当の袋をちょっと気まずく思いつつフロントの前を通過し、エレベーターを待ち、乗り込み、部屋まで歩く。

その間ずっと袋からは魅惑の匂い。

部屋に入ると我慢できずに窓のそばの小さなテーブルに直行し、袋から弁当を2つ取り出し、箸を掴む。

「おい、手ぐらい洗わないのか、シャワーはいいのか」

と言う声を無視して

「いただきます」。

蓋を開けたら、もう止まらない。

 

気が付くと、俺は二つ目の弁当も腹に収めていた。

男は部屋についていたらしいティーバッグでお茶を入れ、大してうまくもなさそうにすすっている。

俺にも湯飲みを差し出すと

「何か、ほかに食いたいものは」

とかすかに笑う。

その目を見たら、急に食欲以外の欲が湧いてきた。

 

「お前が食いたい」

出た言葉に驚いたのは、俺のほうだ。

けど、言った言葉を飲み込みなおすことなんて、できやしない。

「なに、言ってるんだ」

表情の出ない顔を半ば憎く思いながら、男の目の奥に瞬くものを見逃すまいと目を凝らしつつ、もう一度畳み掛ける。

「お前が、食いたい」

 

昨日の後に今日、今日の次に明日。

当たり前の日常の中、それが来るのは当たり前だとつい思い込んでしまう。

けど、そんなの幻なのだ。

ある時、ふいに世界が変わる。

変わってしまう。

 

幼かった、あの日のように。

 

玄関の前に人が立つ。

依頼が突然なのも突飛なのも日常だ。

けど、この間は失血死しかけた。

ついさっきまで遭難し、覗いた銃口はリアルな思い出だ。

 

次に顔を合わせる時が怖いって?

次って何だ。

明日、俺の世界は消えているかもしれない。

この男は同じ世界にいないかも。

思った時、望んだ時。

この刹那が勝負所なのだ。

 

賭けろ。

 

立ち上がり、テーブルを回る。

男も立ち上がり、俺を見下ろす。

傍から見るものがいたら、喧嘩が始まると思ったかもしれない。

そんな一瞬即発のにらみ合いがきつくなり、何か話そうと口を開いたのが引き金になった。

俺達はいつの間にか固く抱き合い、キスを続けながらベッドに乗り上げていた。

 

 

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