下船後
下船の直前、奴の容態が急変した。
傷口が化膿したのだ。
当たり前と言えば当たり前。
メスだけは滅菌処理したものだったとはいえ消毒すらできずに弾丸を摘出したし、小型船舶の救急箱には使いかけのマキロンとほとんど中身の残っていない抗生軟膏が補充もされずに細々と残っていただけだったのだから。
患部の洗浄だけは頻繁にしていたが、後半は食料も釣った魚主体になり、あまり口をつけられなかった奴は体力も落ちた。
傷口を覆うガーゼすら途中で切れたが、その替わりのシーツの煮沸消毒がきちんとできなかったのかもしれない。
重症だった女のほうがめきめきと良くなっているのに、ぎりぎりまでやせ我慢しているから。
患部から熱を持った奴が我慢できずに寝ながらうめき声をもらし始めた頃、船はやっと漁船に発見され、無事に岸に着く事ができた。
正直食料も燃料も底をつきかけて漂流寸前だったのだ。
こんな行き当たりばったりで出航するなんて、皆無謀だと思う。
そのおかげで曲がりなりにも俺たちは助かったわけだが。
上陸地点はかなり出航地点から離れていたので陸沿いに帰る、というマスターたちと別れ、俺たちは家までタクシーを飛ばし、途中の手塚病院で女を預け、自宅に戻るや否や、抗生物質を点滴で入れて。
3日で起き上がれるようになった奴はすぐさま帰ろうとしたが、また急変するといけないからと抜糸までは家の手伝いをさせながら留め置いた。
あの島を出てから2週間、奴は俺たちに少しはなじんできたようだったし、俺たちも奴に慣れてきた。
ほとんど足音を立てない歩き方。
目玉のついた魚が食べられないこと。
どうしても食べなくてはならない時には他の添え物などで顔を覆い、目をそむけながら箸をつける。
子供の扱いがわからないのか、ピノコには弱いこと。
ピノコが砂糖と塩を間違えて作ったホットケーキでも半分まで食べていた。
俺が一口食べて事情が判明したあと、残りはゴミ箱へ直行させたが。
でも今朝は抜糸も終えた。
ピノコも俺もこの人馴れしない男をもう少し構いたかったが、もう帰さなくては。
朝食後、何となく二人連れ立って外に出る。
奴は体力の回復と共に、食後の散歩が日課になった。
最後なので俺も付き合ってみることにしたのだ。
崖下に降りる小道をゆっくり歩き、狭い砂浜をのんびりと辿る。
俺が一人ぼっちだった時、よく歩いていた道だ。
それ、そこの岩に座ってひがな1日海を見ていた。
その岩に奴が腰掛けた偶然に少し驚き、でも確かにここが一番いい場所なんだと思い返す。
「世話になった」
と言う奴に
「俺のせいでついた傷だ。世話しない方が人でなしだろう」
と返しつつ
「お前がそこまで俺を好きだったとは知らなかったがね」
といらぬ口まできいてしまう。
岩から立ち上がってこちらを見る奴はいつもと同じ、ほとんど表情のない顔なのに、なぜか気圧される。
そのとき急に突風が吹いた。
右目が痛くなる。
砂でも入ったようで何度か目をしばたくが、全く取れない。
ついこすりそうになった手を止められた。
「見せろ」
と顎をとられ、我慢して目を開くとじっと覗いていたが
「結構入っている。動くなよ」
と言うのと同時に顔が近づき、そのまま眼球を舐められた。
思わず逃げ腰になるが、いつの間にか背中に手が廻っていて動けない。
目をつぶると
「まだ入っている。ほら、怖いのか」
と揶揄され、何を、と開いたところをもう一度舐められた。
そんな刺激を受けたことの無い所。
神経の多く通った、肉体の中でももろい部分に過大な刺激を受けたせいで身体感覚がおかしくなる。
背中に悪寒が走り、足の力が抜けて倒れそうだ。
倒れるのを避けようと必死に奴の腕にすがり付いていると
「ほら、取れた。だからそんな顔をするな」
と言われた。
「どんな顔だ」
と問うとちょっと戸惑ったようだったが
「俺がお前に見るとは思わなかったような顔だ、BJ」
と言われざま、抱きしめられた。
「さっきのこと、好き嫌いというより気になるんだろう。BJ、お前を好きだと思ったことは無い。人を見るとなじりながら患者を奪っていくような奴を好きにはなれないだろう。でもそれと同じくらい、お前を死なせたくはない。オペの腕も惜しいがそれだけじゃない。これだけ俺に関わる奴はそういないから気になるのかもしれない。もっといろいろ知りたくなるな」
そうしてそのまま口付けられた。
最初はそっと。
俺が抵抗しないのを見て、次には少し大胆に。
舌が入ってきたのに少々戸惑いながらも同じように返すと、急に動きが大胆になり、ついていくのに苦労する。
でも、同じだ。
俺もこいつのことを好きだと思ったことは無い。
ただいつも気になった。
こいつがどんな奴なのか、何を考えて生きているのか。
今はこいつを知るチャンスかもしれない。
そう思うととんでもなく大胆な気持ちになった。
今までこういうことには臆病なほどだったのに、おかしなことだ。
口を離したときには双方息が上がっていて、しばらくお互いにもたれかかっていた。
オレは興奮しすぎておかしかったのかもしれない。
今までキスしたことがないとは言わない。
でもそれは触れるようなキスかタコのように吸い付かれるだけのもので、こんな風に性的な意味を持つものではなかった。
未知の経験に身震いする思いで、でも好奇心もあった。
だから
「家まで送ってくれないか」
と言われた時、もしかしたら、という気もしたのにうなずいた。
車を運転している間、殆ど会話は無かった。
最初に道を指示されたくらい。
運転しているうち、先ほどのことが夢のように思えてくる。
じっと前を見詰めたまま、動かないあいつ。
白昼夢でも見ていたのかもしれない。
だが奴の家の敷地に入り車を止め、エンジンを消して荷物を出し。
「入っていくか」
という奴の目を見たとき、白昼夢ではなかったのだと確信した。
そうでなければ、これはまだ夢の続きだ。
家の中はほんの少し埃くさかったが、20日も留守にしていれば当然か。
「飲むか」
という問いに
「車だからアルコールはだめだぞ」
と返すと
「今日中には帰らないんじゃないか」
と意味深に笑われた。
「あの子に言っていない」
と言うと
「電話はそこにある」
と示される。
飲んでない今ならまだ引き返せるが、あいにく好奇心のほうがずっと勝っていた。
電話に向かう俺に
「了解と受け取っていいんだな」
という奴の声が追ってきた。
「俺が逃げるとでも?」
と聞き返すとふうんという含み笑いを含んだ声が聞こえたような気がした。
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