ある依頼(上)
安楽死装置を出し、依頼人に電極をつける。
最後に声を掛けようとした時、遠くから乱れた足音が迫ってきたかと思うと大きな音を立てドアが開いた。
同時に殴られ、思い切りよろける。
「キリコ!」
という声が背後で聞こえたような気がしたが、それより腹に蹴りを入れられ、内臓を痛めないよう体に力を入れるので精一杯。
どうやら俺は依頼人の夫に見つかってしまったらしい。
なんてドジだ。
「ジョー、こいつを捕まえていろ」
と配下の男に俺を渡した男は、今度は依頼人のベッドに向かったようだ。
「お前は! 汚らわしい安楽死医の世話になど! 痛みに耐えて誇り高く死んでいったご先祖に申し訳ないと思わないのか!」
患者をなじる声がする。
パン、と頬をはたく音。
あんなに夫に気づかれないうちに、と言われていたのに。
気の毒だけど、助けるどころかこっちのほうも殺されそう。
向き返った男に髪をぐいと掴まれ、もう1発殴られ、眼帯を引きちぎられる。
ガリ、と普段隠されている傷口を引っかかれ、総身に鳥肌が立ち、動けなくなる。
無防備になった俺の腹めがけてうなりをあげる拳がパン! と音を立ててさえぎられ
「やめろ」
という声と共に誰かが俺の前に立った。
「この男は単に頼まれて来ただけだろう。医者の目の前で暴力沙汰など、勘弁してもらおう」
この男は、まさか。
「BJ先生、今はあんたの顔を立ててこいつをすぐ殺すのは待ってやる。だがこんな奴の命乞いをしたんだ、先生には必ず妻を助けてもらおう」
脅迫そのものの男の言葉。
だめだBJ、彼女の病はもう手遅れだ。
しかも彼女には生きる気がない。
うなずくな、BJ。
がつんと殴られ、倒れたところをボールのように蹴られる。
「オペをして欲しいなら、私の前で暴力はやめてもらおう」
という声がする。
「おい、こいつを例の部屋に連れて行って、顔でも洗ってやれ」
という言葉と共に引きずり出された俺は、がらんとした部屋で服を剥かれてホースで水を掛けられた。
冬ではないから心臓麻痺を起こすほどではないが、じわじわ凍死しろということだろうか。
縮こまる俺に大き目のタオルが放られ、ドアの鍵がかかる音がした。
ぎしぎしいう体をだましながらなんとか体を拭く。
ほんの少し命が延びたんだろうか。
一瞬甘い考えが浮かぶが、残念、現実は甘くなかった。
しばらくすると鍵が開く音がし、依頼人の夫とさっきのジョーという召使が入ってきた。
「あの先生はオペに入ったから、しばらく暇だ。お前、なかなかいい体をしているじゃないか。あいつは昔から細身の男が好きだった。しかも銀髪とはな。安楽死医と聞いたからどんな気持ち悪い男が来たのかと思ったが、少女趣味のあいつらしい。俺のことなどいないふりをするくせに、お前に命を捧げると言うのか」
いつの間にか背後にいたジョーに腕を掴まれ、引きずり倒され、主人に腰に巻いていたタオルをはがされる。
「大丈夫。先生のオペが成功したらもうけもの、お前は自由の身だ。俺は約束を守る男だよ。それまで生きていられたらだがな」
そう言ってのしかかる男の息が臭い。
体の奥から、腐った匂いが上がってくるのだ。
この男自身、何かの病を得ているらしい。
自分でも長くないのをわかって自暴自棄になっているのか、それともわからず不快を振り払おうとしているのか。
どんなにもがこうとしても、凍えきった今の俺には男二人を振り払うことなどできはしなかった。
男が連れ去られた後、患者の夫にすごまれた。
曰く、妻を助けられなかったらさっきの男ともども俺もなぶりものにして、一番苦しい死を与えるだろう。
わめく男の呼気が妙に気になる。
奥さんのカルテを持ってきたジョーという召使に
「カルテは奥さんとご主人の二人分だ」
と言い、男の分も持ってこさせる。
やはりだんなの症状も奥方を後追いしているようだ。
奥方の進行の早さに絶望して自暴自棄になっているのか。
この病気はこの一族特有のものだ。
ただし、ここで生活している限り、健康でいられる。
空気のきれいなこの場所から離れると、心臓近くなどの難しい場所に腫瘍ができ、死に至る。
一族は昔から領主の家系だったことから、「領主様は土地の守りだから」などと言われてきたらしい。
閉鎖的な集落で同じ身分同士近親婚を繰り返したせいで、何らかの抗体が欠けてしまったのだと思うのだが、今のところ根治療法はない。
とにかく体を開けて、腫瘍を取るしかないだろう。
「死なせてください。どうせ治っても私に自由などないんです。」
とむせび泣く女に
「あんたが生きさえすれば、だんなさんにも希望が湧くんだ。私が必ず生かせて見せるから、まずあんたが生きたいと思いなさい」
と諭す。
主治医だという男を助手に、緊急オペを敢行。
奴を助手に、と言えばよかった。
そうすればとりあえずの安全は確保できたのに。
そんなことをチラッと思ったが、奴はあんなに殴られていたのだ、使い物にならなかったかもしれない。
弱みを見せたら二人ともおしまいだ。
どうか、生きていてくれ。
一瞬祈って、患者に集中する。
神経を使うオペになった。
腫瘍ががっちり心臓近くの血管に巻きついていたのだ。
顕微鏡はない。
あるのは片眼ルーペのみ。
細心の注意を払いながら指先の神経を集中させる。
自分の鼓動すらわずらわしいが、呼吸は止められてもこれだけは止められない。
血流に乗るように、すばやく、正確に。
細かいところを逃さずに。
「フーッ」
切除終了と共に大きく息をつく。
俺は一体何秒息を止めていたのか。
開き続けた目が痛い。
頭の芯が重く、鈍い痛みすら覚える。
だが、やった。
後は簡単な縫合だけだ。
「すごい、やりましたね!」
助手を務める男の興奮した声に気を取り直し、すばやく縫合を済ませ、やっと手を洗うことができた。
後の経過を任せ、オペ室を出る。
これからがまた一仕事なのだ。
だんなにオペを薦めなければ。
だが心配して外で待っているはずのだんなはいなかった。
さっきカルテを持ってきた召使すらいない。
嫌な予感がして屋敷内を歩き回っていると、ある部屋から人の気配がした。
かすかに聞こえる声はあの男のものか。
ドアのノブは動く。
開け放たれたドアの中にいたのは、全裸で血まみれのキリコだった。
「キリコ」
と叫びながら一瞬パニックに陥りそうになるが
「BJ、いいところに来た。ちょっとこっちに来てくれ」
と言う声はかすれ気味であっても正常だし、倒れているわけでなく、しゃがみこんで何かを見ているように見える。
「その血はどうした」
と言いながら駆け寄ると、キリコの影にだんなが倒れていた。
召使も隣にかがんでいたので、陰で見えなかったのだ。
「これはその男の血だ。人の腹の上で大喀血を起こしたのさ。とりあえず気道を確保したが、予断を許さない。お前さん、これをどう見るね」
と言う男の隣にかがんで、状態を見る。
この男の場合、カルテでは肺に大きな影があった。
そこからの大出血となれば緊急手術しかないだろう。
男に止血剤を投入している間に、もう一度手術の支度をした。
奥方の経過も微妙なので、さっきの医師を助手には使えない。
召使のジョーも消毒して機器の数値の監視をさせることにするが、なんせ素人。
これは厳しい戦いになるな。
臍を固めて患者に向き直ろうとした時、ドアが開いてキリコが入ってきた。
シャワーを浴びて術着を着ている。
顔色は土気色だが
「器具渡しくらいはできるよ」
という言葉を信じる。
信じるしかない。