いもほり(上)
長いオペ旅行が終わり、家に戻って数日経ったある日の午後。
オペはいいけど家もいい。
足を一歩入れて部屋の惨状に愕然とすることはあるけど
「おかえりなさい」
と出迎えてくれるピノコがいるようになってから、俺は家に帰るのが好きになった気がする。
戻った翌日にトイレから始めた大掃除も、今日は最後の台所だ。
焦げ付いたフライパンや割れた皿が随所に隠されたジャングルも、やっとのことでキッチンに戻った。
放置していたせいで少々香りの飛んだコーヒー豆を見つけ、久々にゆっくりコーヒーを入れる。
毎回恒例の大掃除もやっと終わりだと思うと、ピノコをいとしく思うゆとりも出てくるってもんだ。
どんなに本人が18歳だと言っても、体は幼女。
経験は幼稚園並み。
そんな彼女が一人で守ってくれていたのだ、このくらいの惨状、どうってことないさ。
でも何のかのと理由を作って毎晩のように夕食に招待してくれた手塚の奥さんには、後でお礼を贈らなくっちゃ。
手塚には、いいけど。
どうせあいつにはまた金にならないオペを押し付けられるに決まっているんだから。
そんなことを思いながらソファーに座る。
コーヒーを飲みつつ溜まっていた医学雑誌をめくり始めた途端、家のドアが開き、ピノコが
「先生おてがみ。あしたおイモほりだって!」
とニコニコしながら突進してきた。
持っていたコーヒーが手にかかり
「アチィ!」
と手首を跳ね上げた途端、読んでいた医学雑誌がコーヒー色になる。
幼稚園の時間はなぜこうも短いのだろう。
さっき出したと思ったのに、時計を見るともう3時。
つかの間の自由時間は終わったようだ。
こぼしたコーヒーを拭き、改めてピノコが持ってきた紙を見ると、かわいい男の子と女の子が芋を引っ張っているイラストの横に
『おいもほりのおしらせ』
と書かれたプリントだった。
毎回毎回、こんなイラストをどこから探してくるのだろう。
園からの手紙は無駄にかわいい。
PTA関係のものはワープロ打ちだが、それ以外のものはすべて先生の手書きで、しかも必ずイラストが入っている。
その字がまたかわいらしいのだ。
あまりのかわいらしさに最初は恥ずかしくてなかなか字を追えなかったが、さすがに慣れた。
初めにピノコを預けた園はすべてワープロ打ちだったから、手書きの手紙はこの園のこだわりなのかもしれないが、慣れてみると悪くはない。
俺もアナクロな人間だしな。
ま、そんなことは置いて、手紙を読む。
内容は明日のイモほりの用意について。
簡単に言うと長靴推奨。
体操服持参。
スーパーのレジ袋、大きめのやつを2枚重ねにして大きく名前を書いておくこと。
ああ、イモはレジ袋に入れるのか。
俺の時はレジ袋なんてなかった。
あのころは確か。
不意に俺は数十年の時を飛び越して母の手元を覗き込んでいた。
「ミシンだから危ないわよ。あと1歩だけ離れてなさい」
と言う母の声を聞きながらも、その1歩をなかなか戻せない。
だって、離れたら母の手元が見えないのだ。
母が布をセットして、カチンとレバーを引くと回し車に手をかけ足を動かす。
最初はゆっくり、すぐにリズムに乗って。
するとミシンのあちこちから不思議な音がしだし、音が止まった時にはもう縫い終わっている。
足踏みミシンは母の魔法の道具だった。
俺は秘密が知りたくていつものぞきに行くのだが
「危ないから」
と言って母は俺が近くにいる間は音を鳴らしてくれなかった。
だから余計に不思議で仕方ないものだったのだが。
あの時は古いタオルが一瞬で袋になった。
片方の端にひもが真ん中だけ縫い付けられている。
芋を入れた後、ひもでぐるぐる巻いて縛るのだ。
袋の真ん中に大きく「ばらぐみ はざまくろお」と書いてもらい、俺は大喜びで持っていった。
たぶん母は特別器用ではなかったと思うが、当時はそのくらいを作るのは当たり前だった。
ミシンのない家は手縫いで、不器用な人は多分知り合いにでも頼んで用意していたのだと思う。
幼稚園に行くとみんなも同じような近所の商店街とか店の名前が印刷されたタオルで作られた巾着袋を持っていて、帰りはそれがパンパンになった。
パンパンになったのは嬉しかったが、せっかく作ってもらった袋が土で茶色になってしまったのが悲しくて、イモは重くて。
疲れてしょんぼりしながら歩いていたら
「うわアすごい。それ、全部くろおが掘ったの?」
と声をかけられて、見上げたら母がいた。
そういえば、そんなこともあったっけ。
ピノコにせがまれてレジ袋を探しながら、なんだか不思議な気持ちだった。
俺には幼い頃の思い出がほとんどない。
特に爆発事故以前の記憶は思い出そうとしてもほとんど思い出せない。
なんとなく、爆発以降の記憶が鮮明すぎた為、それまでのものを上書きしてしまったのだろうと思っていた。
が、どうやらそうでもなかったらしい。
ピノコが園に通い始めてから、こんな風にふとした時に何でもない事を思い出す。
そうだ、そのあと母と一緒にご近所におすそ分けに行った。
「くろおちゃんが掘ったの? すごいわねえ」
と言って頭を撫でてくれたおばちゃんがいた。
「いただきものだけど」
と代わりに缶詰めをくれたおばあさんがいた。
そうだ、夕飯はカレーにして、ご飯の後に缶詰めを食べた。
冷えたシロップが甘くておいしかった。
「お父さん、早く帰ってくればいいのにね」
と缶詰を残しておいたのに、翌日の弁当にその残りのパインが入っていて、みんなにはうらやましがられたけど複雑な気分になった…。
「先生、ピノコはばらぐみじゃないのよ。なのはなぐみなのよ」
と言われ、ぼんやりしていたのに気付く。
新しいビニール袋に大きく『なのはなぐみ ぴのこ』と書き直して
「これでいいか?」
と彼女の伺いを立て、体操服などのチェックをする。
明日は芋ほりパーティもするので、弁当はおにぎりだけでいいのだそうだ。
芋ほりパーティってなんだろう。
サツマイモなら焼き芋でも作るんだろうが。
興奮して喋り捲るピノコに相槌を打ちつつ支度を終え
「明日はカレーにするの」
と言う彼女に
「楽しみだな」
と言い
「じゃあ今日は早く寝なくちゃな」
とくぎを刺す。
彼女が寝入ったのを確かめてから、電話に向かう。
普段のカレーは二人で十分だが、こんな時くらい他に人がいてもいいもんだ。
うちにはおすそ分けできるご近所なんてないんだから。
最初は手塚家を呼ぼうかと思った。
手塚の奥さんにはいつも世話になっているし、奴自身も
「ピノコちゃんのジャガイモ、おいしいねえ」
というくらいの才覚はある。
だがよく考えたら娘さんが同じ幼稚園だ。
あちらはあちらで盛り上がるだろう。
とすると俺には手持ちの駒があまりに少ないわけで。
期待せずに掛けた奴の番号は留守電だった。
仕事か? 仕事なのか? と思っているうち留守メッセージが流れるのを切りそこない、ピーッという音にせかされて
「もし明日来られるならカレーを食べに来い」
と口走り、焦って名前も告げずに切る。
しまった、我ながらものすごく不審な留守メッセージを入れてしまった。
ま、いいか。
相手は奴だ。
翌日は曇りでピノコは
「あーあ、晴れなかった」
と残念がったが
「天気が良すぎると疲れるから、このくらいのほうがついているんだぞ」
と言って送り出す。
冷蔵庫を確かめるが、ろくなものが入っていない。
えーと、カレーには何を入れるんだっけ。
肉と、ニンジンと、ジャガイモと、ええと。
カレールーの裏を見て玉ねぎも入れることを確認し、町に行くついでにスーパーに寄ることにする。
今までの経験から、幼稚園で行事ごとがあると彼女がかなり疲れることはお見通しだ。
普段なら食べに行けばいいが、物が芋ほりではそうはいかないだろう。
せめて働き者の小人が材料くらい用意しておいてやらないと。
眠い、けどちゃんとしたい、という狭間でぐずる彼女にイライラして癇癪を起こすのだけは避けたいものだ。
園長と掛け合って普段は園バスの送り迎えはなしにさせてもらっているのだが、時間を見計らってバス停に向かう。
ママさん連中の好奇の視線にさらされたくないので少し離れたところから覗いていると、カラフルなバスから子供がわらわらと出てきた。
みんな大きなスーパーの袋を持ち、顔いっぱいを口にして
「ママ見て! すごいでしょ」
と獲物を見せたり
「疲れたよう。抱っこ」
としなだれかかったりする中、ピノコだけは大きな袋を両手で持って
「せんせい、さようなら。○ちゃんばいばい」
とあいさつすると荷物を引きずらないよう一歩一歩歩いていく。
バス停から家までは遠い。
この子はいつもバスから降りると一人で丘を登って行くのだ。
俺がいないことも多い家に向かって。
「ピノコ、今帰りか」
ほんとは丘への上り口に入ってから声をかけるつもりだったが、気が付くとママさんや子供の群れに突っ込んでいた。
「わあ、せんせい」
というピノコの声にかぶせるように
「あ、ピノコちゃんのせんせいだ」
「だんなさんなんでしょ?」
「うそだーおとうさんでしょ?」
という子供らの声と
「あら、あんな方いたっけ?」
「ほら、ピノコちゃんの」
「ああ、あの丘の上の先生って人? あの噂の」
とひそひそ話す女の群れ。
失敗したかな。
ピノコのためにならなかったかもしれない。
彼女の荷物を持ってすぐに離脱しようとしたが
「ピノコちゃんパパ、今日もピノコちゃんすごく頑張ってましたよ。先生カレーが好きだから、たくさん掘っていっぱいカレーを作るのって小さいお芋も丁寧に探っていましたから、おうちでお話聞いてくださいね。じゃあピノコちゃん、またあした」
とにこやかに先生が手を振り、ほかの人に向かって
「はい、みんなもおうちに帰ってからたくさんお話ししましょうね。今日は疲れたでしょう」
と話しかけてくれたので俺たちへの視線も外れたようだ。
「せんせい」
と差し出すピノコの手を握り、もう片方に重いビニール袋を持って丘を登った。
「たくさん取ったな。芋パーティってなんだった」
と聞くと
「先生が昨日とっといたおイモを蒸してくれたの。皮をむいてしおをぱらぱらっとかけて食べたんだけど、ほっぺがおちそうだった! バターをほんのちょっとのっけてもおいしいんだって。あんなたべかたはじめて!」
から始まって
「そのときぽろっておちちゃったの。もうほんのちょっとだったんだけど。でももっと食べたかったからあらっちゃえばだいじょうぶかなって思ったんだけど、先生があたらしいのをくれて『それはアリさんにあげようね』っていったの」
まで事細かに教えてもらえ、いつも長いと思っていた丘の登り道は驚くほど短かった。