(中)
ユリは食料や生活必需品、薬品などを大量に運んできて、海岸で厳重にボートごと消毒され、戻っていったらしい。
彼女は時々食料や燃料を補充しに来るが、荷物は海岸に放り、上陸はしないとのこと。
確かに奴のオペを疑うわけではないが、物が死病だ。
そのくらいの慎重さがないといけないだろう。
朝、点滴が終わると包帯を解かれ、傷を見られる。
「出血はないようだ。ドレーンも明日明後日には取っていいかな」
と言われ、ほっとする。
「起きていいか」
と聞くと、黙って背中に手を回してくれた。
ゆっくり座る姿勢になり、腹を見る。
ついこの間までカエルのように膨れていたのが嘘のようだ。
限界まで伸びていたので、皮がたるんだようになっている。
「タルタルだな」
と言ったら
「別料金で整形してやろうか」
とにやつかれる。
「そんなの必要ない。言っておくが、昨日のオペ代金だってお前のおせっかいだから支払わないぞ」
と言ったら
「ただほど高いものはないんだぞ」
と言われた。
反射的に払うと言いたくなるが、思いとどまる。
どんなことを吹っかけられるかわかったものではない。
包帯を巻き直し、座った姿勢で呼吸訓練。
スーフルというプラスチックの筒を咥え、大きく吹くと間抜けな音が出る。
それを繰り返し、呼吸能力が衰えないようにするのだ。
こんなこと、俺がする羽目になるとは、と思うが、息切れしてなかなか音が出ない。
オペの前しばらく寝てばかりいただけで、驚くほど体力が落ちているのがわかる。
「回復にしばらくかかりそうだな」
と言われるのは仕方ないとして、何で俺はこんな風に抱え込まれているのだろう。
まだ座る姿勢がつらくて
「寄りかかりが欲しい」
と言ったらこいつがそのまま来てしまい、俺を抱えてスーフルに手を添えている。
こいつはこの間のことをどう思っているのだろう。
それとも、患者にはこういう接し方をする奴なんだろうか。
トイレまで歩こうとしたがそこまではできなくて、今日のところは導尿されたままなのが悔しい。
腹が減るわけではないが、何も食べられないのはつまらない。
早く腸が動かないかな。
そういう患者の前で、こいつはカレーを食っている。
鬼だ。
夜中、夢を見た。
奴に抱かれる夢。
何でもされる覚悟はしていたはずだったのに、いざとなると体が俺を裏切った。
俺はうまく力を逃せられなくて、入れる側もかなり辛そうだった。
だが途中で休みながらも少しずつ入ってくる。
最後に体重をかけられたとき、痛みに毛穴が開くような気がした。
なのに奴の息が荒くなり、俺に興奮しているのだと思うと俺も興奮した。
もしかしたら、ほんの少しは好かれているんじゃないかと思った。
奴の狂気に押されたんじゃない。
ほんの少しでもこいつに俺が必要だと思いたかった。
けどこいつは、そうじゃなかったのだろう。
だからした後。
動きが止まった。
ずるりと出る。
行為が終わると奴はむこうを向いて横になった。
俺の存在を完全に無視した。
俺はどうしても声をかけられなくて、のろのろとベッドを降りる。
足に力を込めると、中からどろりと出てきた。
それが足を伝わる感触。
俺に興味を失ったんだ。
2人のバランスを崩してしまったから。
あの時俺がもっと冷静だったら。
あそこまで取り乱さなければ、あんな関係にはならなかった。
話し合いをし、酒でも飲んでお互い乱れた姿や、本音を見せて少しだけ距離を縮めて、翌日には忘れた振りをして。
なのに俺は組み敷かれるのを良しとしてしまった。
そんな俺には1文の値打ちもない。
「どうした」
と頬を叩かれ、それが奴だとわかった途端、逃げようとして激痛が走った。
そのままベッドから転げ落ちそうになる。
気がつくと俺はしっかり抱え込まれていた。
「落ち着いたか」
と言う声と共に腕が緩められ、奴の顔にうっすらあざができているのに気づく。
そのまま髪をすかれた。
丁寧に何度も奴の指が俺の頭皮をたどっていく。
まるで頭をなでられているようで、気持ちいい。
あの時とは別人のように、今日の奴の目は穏やかだ。
ゆっくりベッドに戻され
「眠れそうか」
と聞かれる。
無理だと思いつつ
「大丈夫だ」
と答える。
しばらく見ているようなので、目をつぶって寝入った振りをしていると、身じろぐ気配がした。
そっと額の髪を払われる。
じっと見られる感じがしてまぶたと眼球を動かさないよう、気をつける。
頬に手を当てられ口に何かを押し当てられた。
まさか、と思っているとそっと舌が押し入ってきて、俺の前歯をなぞって出て行った。
そのままごそごそと床の毛布に包まる音がする。
混乱したまま、けれど今の感触を何度も思い出す。
ふと以前のことを思い出して叫びそうになる。
昨日の夢は本当に夢だったのだろうか、と虫のいいことを考えそうになる。
そんなことを繰り返しているうち、うとうとしていた。
こいつはオペの鬼であるだけでなく、リハビリの鬼でもあるようだ。
診察の後水が飲めるようになったのと導尿の管を取ってもらえたのはよかったが、それからはトイレも自力で行かなくてはならない。
絶対に奴からは手を貸さず、俺の歩く後をついてきて、転びそうになったときだけ寄ってくる。
せめて何か食いたいものだ。
点滴が終わると丁寧な清拭とマッサージ。
蒸しタオルの後、水性の整髪料を多めにふりかけて汚れをふやかし、熱いタオルで頭皮をごしごしこすられた。
後頭部にタオルを押し付けられると、体のこわばりが抜けていく。
マッサージは筋肉が細くならないよう、関節が固まらないようにするためだが、とても気持ちがいい。
痛くなるぎりぎりのところで止める、手際のよさ。
男の足を抱え込むなんて結構重いだろうに、膝関節や股関節の屈伸までかなり長時間してくれる。
最初はつい緊張して腹に力を入れてしまいそうになったが、辛抱強く言われたとおり体の力を抜き、奴の手に身をゆだねてからは至福の時間だ。
心地よく疲れてうとうとする。
夕食に薄いスープが出た。
病人用のレトルトが、少しぬるめに温めてある。
カップを持ってゆっくり時間をかけて飲む。
じんわりと体の中に入っていく感じが気持ちいい。
翌日からはプリンや卵豆腐など、栄養があって食べやすいものから始まり、だんだんと固形物が入ってきた。
肝臓は切っても1月ほどで元の大きさくらいまで復元する。
だが体の各部分に負担が行くので、特に最初の1、2週間はきちんと管理をしなければならない。
その後はゆっくり日常に戻ることが可能だ。
穏やかに1週間が経った。
やっと抜糸も済み、少しなら島の散歩もできるようになる。
食事も普通食が取れるようになり、点滴も終わった。
そろそろ潮時だろう。
そう思い
「他に仕事があるんじゃないのか」
と聞く。
「お前は」
と聞かれ
「後1週間ここにいて、大丈夫なら出ることにする」
と答える。
「じゃあうちで療養しないか」
と言われ、丁寧に断る。
確か子供がいたはずだ。
万一のことがあったら困る。
そう言うと
「それならおれも後1週間ここにいる」
と言われ、困惑より先に嬉しく思った自分が嫌になる。
だって、今までの俺たちとまったく違う穏やかさなのだ。
鬼のリハビリと言ったが、その後には丁寧なケアが待っている。
今日は術後初めてシャワーを浴びた。
ざっと体をぬらしてシャンプーをし始めた頃、ランニングとパンツ姿の奴が入ってきて、いいというのに頭から体まで洗ってくれた。
以前寝たときの乱暴さが嘘のような丁寧な仕事。
そういえばあの時も途中は、と思い出しそうになり、思考を遮断する。
今、こいつの患者である間だけの僥倖なのだ。
奴の患者でなくなったとき、まだ俺と奴の間につながりはあるのだろうか。
それともまったく興味がなくなってしまうのだろうか。
終わった時には奴のほうもびしょびしょで、俺を拭いた後そのままシャワーを使っていた。
最初は夕食後の時間が気詰まりだった。
夜になるとどうしてもあのときのことを思い出すから。
だが今は違う。
筋力を保つため椅子に座って本を読み、濃い目の麦茶を飲む。
コーヒーやアルコールはまだ禁止なので、その代用品だ。
奴も我慢しているのか同じものを飲んでいて、時々話しかけてくる。
どこそこの酒がうまいとか、あの学説をどう思うかとか。
仕事のことやこの間のことを暗黙の了解でかわし、続ける話。
狂言じみているにしても、まるで親しい友人同士の付き合いのようで楽しかった。
俺のような仕事だと、なかなかそんなことを話す機会はない。
そんな均衡が崩れたのは、術後10日目だった。