限りなく不透明に近い想い(上)
なぜこんな関係を持ってしまったのだろう。
俺のほうがタッパもあるし、力だって互角以上にあると思う。
こんな行為で組み敷かれるようなこと、あるわけないのに。
本当はわかっている。
俺はあいつに飲まれたのだ。
あいつの迫力に、あいつの狂気に。
軍医当時の俺なら立場を逆転したかもしれない。
だが俺はいつの間にか狂気と折り合いをつけることを覚えてしまっていたのではないか。
だから奴の心から流れる血に屈したのか。
いや、単に心の奥底に眠っていた願望だったのかもしれない。
奴の天才に嫉妬して羨望して、一度でいいから慈悲を貰いたいとでも思っていたのだ。
でなければ俺が、この俺が奴に組み敷かれるなんて。
いや、そんなのじゃない。
浅ましい俺の体が男を欲していただけだ。
ずっと知らない振りをしていたが、俺は誰かに蹂躙されたかったのだ。
でなければあんなに乱暴なことをされて、なのになぜ体が反応したのだ。
俺は人間のくずなのだ。
だからくずらしく扱われたいのだ。
そのチャンスがあったから乗ったのだ。
夜毎夢に見る行為は同じでも、自分がなぜそういう反応をしたのかはいつも違った。
思うことすべてが嘘のようにも本当のようにも感じられた。
もしかしたら、そういう気持ちがみんなあったのかもしれなかったし、まったく別のことを考えていたのかもしれない。
でもそんな事思い出せなかったし、夢は去ってはくれなかった。
忘れたくて女を抱こうともしたが、途中であの時のあいつの手順を自分がそっくりなぞろうとしているのに気づき、恐ろしくなって逃げた。
引き裂かれるような痛み、ゆすぶられてがくがくする視界、ずるりと出て行くもの。
中で出された。
立ち上がろうとしたら、どろりとでてきた。
それが足を伝わる感触。
夜中に目覚めて、一人震える。
軍隊時代、男同士でそういうことをしている奴は結構いた。
俺も何度か誘われたし、無理強いしようとする奴もいた。
でも俺はまったく性的にはヘテロだったから、自分の意志を通してきた。
ああいうことは、ほんのちょっとでもぐらつかなければ、結構跳ね除けられるものだと思っていた。
だからもちろん、あの時の俺は奴に抱かれたいと思ってそうしたはずなのだ。
なのに俺はどうした。
女の扱いを受けるのがこんなに傷つくとは知らなかった。
あいつも医者だし、せめてゴムくらいつけるんじゃないかと思っていた。
そんなことあるわけないのに、妊娠しそうな気がする。
あの足を伝う感触を思い出すたび大声で叫びたくなって。
寝不足が慢性化し睡眠薬が手放せなくなった頃、海外からの仕事が入った。
ブラジルで未知の伝染病が蔓延していて、死期を悟った男からの依頼だった。
普段なら万全の予防をし、注意を怠らないのに、この時の俺はあきれるほど無頓着に患者に触れ、仕事をした。
発病は、日本に着いた直後。
グマだった。
どんなに調べても、原因はわからなかった。
結局できるのは対症療法しかなかった。
だがそれは進行を止めるものではなく、ほんの少し苦痛を削るだけだ。
進行が進めばどうなるかはわかっている。
俺は以前知った無人島に行くことにした。
金持ちの依頼主が酔狂で買い、終の地にした所。
あそこは彼が死んでからは誰も寄り付いていないはず。
小さな小屋には煮炊きのできるだけの設備と、自家発電があった。
モーターボートに研究書と、他の人には触れられたくない薬品の類、安楽死装置、爆発物、積めるだけの食料を積んで出かける。
家の中の物は燃やせるものは燃やし、後は徹底的に消毒して、貸し金庫の鍵と走り書きの番号のメモだけユリに残した。
この食料が尽きるまでに進行を止められなかったら、小屋毎吹き飛ぼう。
最後には俺の痕跡すらとどめないように。
俺なんて、最初からこの世に存在しなかったように。
進行を止めるための研究と言っても島に来てしまってからは機材も制限され、肝臓から定期的に水を抜くことくらいしか出来なくなっていた。
きっと、ここに来たときから俺は戦うのを放棄していた。
痛みの間隔はだんだん短くなってきている。
爆発物の配線を確かめ、小屋にどう配置するかを考える。
最後は薬物にするか、それとも安楽死装置を使ってみるか。
それによってスイッチを入れてから爆発までの時間を調節しなければならないし。
そんなことばかりを考えるようになったある日、妹があいつを連れてきた。
妹の手前、なるべく冷静に接しようとしたが、家捜しされ、俺のかばんの中のカルテを見られた途端、逆上し、急に動いたら発作が来た。
寄るな。
一人にしてくれ。
死なせてくれ。
途中から何を言ったか覚えていない。
本当に言ったのか、心の中で思っただけなのかもわからない。
ユリが泣いていた。
かわいそうなユリ。
あの子はいつも俺のせいで泣く。
俺がいなくなれば、それが最後の涙になるのに。
ぼんやり目を開くと、誰かが俺の前にいた。
体がだるい。
「死ねたのか」
と聞くと
「死ぬわけがない。お前は生きるんだ」
と言われる。
死からも拒絶されたか、と知ると悲しい。
「いつになったら許される?」
と聞いたら
「自分で死ぬのは許さない。ずっと生きろ。死のうとしても俺が直す」
と言われた。
昔本で見た、永遠に死ねない人になってしまった気がして泣きたくなる。
涙なんて出はしないのに。
目が覚めた時、ユリがそばにいた。
やはり泣いている。
つい軽口を叩いたら、がみがみ言い出した。
がんばって舌戦に応じるが、やはり女に口で勝つのは難しい。
だがしおらしくないユリはやっぱりいい。
父の看護の日々からこっち、こんなユリは見たことがなかった。
まだ麻酔が残っているのか、グマの正体を見た後すぐ眠くなり、次に起きたのは痛みのせいだった。
開腹手術後だから当たり前。
だが身動きも取れないほど痛い。
声は我慢したのだが、呼吸の乱れを察知されたのか、明かりがついた。
「痛むか」
と問う声は、奴。
「消せ。ユリが起きる」
と小声で言うと
「彼女はいったん帰ったよ。着替えや食料を取りに行きたいそうだし、俺も薬品や器具をいくつか頼んだ」
と答えられた。
では、こいつと2人きり。
ユリ、何でいないんだ。
勝手な話だが、ユリを恨む。
俺の怯えを読んだのか、奴が意味ありげににやついた。
頬に手を当てられて思わずすくみ、激痛にあえぐ。
「どうする? 鎮痛剤をやろうか。それとも我慢するか」
と問われ、黙り込む。
吐きそうなほど痛い。
それでもどうしても頼むことが出来ずに黙っていると、しばらくニヤニヤと俺のことを見ていたが、ふと真顔になり
「頑固な奴だ」
と注射された。
しばらく待つうち、痛覚が鈍ったのか楽に息できるようになる。
「ユリさんには補給を担当してもらって、しばらく俺が予後を見る。俺のやり方に慣れるんだな」
と言いつつ奴が離れていくのにほっとして息をつく。
嫌な奴だ。
逃げられない患者の俺は、もっと嫌だ。
夜中、気配を感じた。
眠いのでそのまま目をつぶっていたが、顔のそばに何かある。
触れられてはいない、でも頬近くに熱を感じる。
だがその気配はじっとしたまま動かないので、気のせいか、と思い、またうとうとし始めたとき、今度こそ頬に何かが触れた。
そっとなでられ、そのまま額の髪を払われて、眉毛、まぶた、鼻、口、と順にたどった後、また頬に戻った。
「死なないよな」
とつぶやかれた声に誘われるように目を開ける。
モノトーンの中に、モノトーンの人物。
「お前が生きたいと思ってくれなければ、いつかこんな風にお前はひっそりと死んでしまうんだろうな」
そうつぶやくあいつは、昼間の奴とは別人のように自信なさげで儚かった。
「わかっているんだ。あんなことしてどうするんだって。この間のあの子だって体は五体満足な形になったけれど、これから先どういう障害が出るかわからない。それなのに、いろいろ考えてもしかしてできるかも、と考え付くと手を出さずにいられなくなる時がある。それが悪魔の所以なんだろうな」
ため息の音。
「それでも若いころに比べればそんな事ほとんどしなくなったんだ。それなりに分別もついたし。でもお前が絡むとだめだ。俺はいつも理性をなくす。どんな手段を使ってでもお前の仕事を邪魔したい。邪魔してお前を打ちのめしたい。俺をお前に刻み込みたい。本当に大きにお世話だよ。」
そう言いながら頬をなで続ける、こいつ。
これは夢だ。
俺の願望が見せる夢だ。
だってこいつがこんな顔、するわけがない。
こいつが俺にこんな話、するわけがない。
それでも、夢だからこそ何か言ってやりたいと思ったが、どうしても口を開くことが出来なかった。
頬をなでる手が俺の目を覆い
「眠れよ」
と言った。
その言葉に引きずられるように眠気が来て、今のが現実なのか夢なのか余計にわからなくなる。