ユリの家に行って
俺はユリに招かれて新婚家庭にお邪魔しに行った。
小さいけれど、身奇麗に片付けられたマンション。
まぶしい日差し。
ずんぐりと大きな、どことなく父を思わせる義弟。
でも父と違い性格は快活で、冗談を言っては妹を笑わせている。
うちの家族にはいなかったタイプだ。
きっとユリは幸せになるだろう。
改めて肩の荷が下りた気がした。
でも荷が何もなくなった肩は軽すぎて、そのまま家に帰ると寒くて仕方がない。
さて、どこに行こうか。
行きつけの店を順に思い出してもどこも行く気になれなくて、気の向くままに足を動かす。
ふらふらとさまよっているうち、街中に場違いな日本家屋を見つけた。
堂々とした瓦屋根の店。
和菓子屋だった。
中に入ると、季節の生菓子がきれいに並んでいる。
見ているうち、こういうものが好きそうな奴の顔が浮かんだ。
こんな弱っている、無様な姿を見せたくない。
理性はそう思うのに、店員と目が合うといくつかを注文していた。
ユリの事は言わず、ただ和菓子を口実に行けばいい。
今までもそういうことはあった。
買ってから電話したらお嬢ちゃんしかいなくて、それでも彼女と一緒にお茶を飲んだこともある。
それでもいい。
どっちも留守だったら、今日の夕飯は和菓子だけど。
そう思いながらかけた電話は在宅だった。
「来いよ」
と言われてほんの少し気分が上昇する。
着いたのはもう夕方に近かったが、お嬢ちゃんはおやつを食べずに待っていてくれた。
「早く早く」
と家に入れてくれる。
特別暖房を入れているわけでもないようだが、もう夕食を作り始めているのか、中は暖かい。
「来たか」
と言う奴はシャツ姿でリボンを緩め、新聞から目を上げる。
俺が渡したお菓子を手に
「お茶を入れなくちゃ」
と言うお嬢ちゃんに
「うん」
と返しながら目を輝かせる奴。
新聞をがさがさと畳み、ラックにしまいに行く。
テーブルの上を拭くくらいはこいつもするようになった。
俺もお嬢ちゃんが渡す皿を運ぶ手伝いをする。
ほんの少し、家族に混ざった気分。
ユリの家では俺はまったくの客で、何もさせてもらえなかったな。
そんなことをふと思い出す。
包みをあけて
「わあきれい」
と感嘆するお嬢ちゃん。
「ピノコ、お前はどれにする」
と言いながらすばやく数を勘定しているような奴。
後はひたすら食べる。
この二人の食べっぷりを見ると、俺は自分の胃弱がほんのちょっと悲しくなる。
こんな風においしそうに食べられたら、楽しいだろうな。
俺もそれなりに食べられるとは思うが、2個目の途中から味が良くわからなくなってくる。
1個で十分。
「先生、それピノコ食べたい」
「そうか、じゃあ俺はこっちにしよう。あれお前、ほっぺにあんこが付いてるぞ」
「アッチョンブリケ! でもそういう先生だって口の周りが大福の粉で真っ白なのよさ」
言われてあわててハンカチを出し、口元をぬぐう奴。
仲のいい、家族だ。
この二人はいじらしいほど寄り添って暮らしている。
そんな中に時々闖入者が来ても黙って迎えてくれるけれど、きっと二人でいる方が完全なのだ。
「どうした」
と聞かれ、自分が湯飲みを持ったままでいたのに気づいた。
「なんでもない。ちょっと疲れたみたいだから今日は帰るよ」
と立ち上げると
「キリコのおじちゃんのご飯も用意してあるんだから、食べてって。ピノコ、この間教えてもらったお料理作ったんだから」
とお嬢ちゃんがすがってくれる。
かわいいな。
「本当に食べていけ。お前のお陰でピノコの料理も捨てたもんじゃなくなってきたんだから。飯なんて一人で食ってもつまらないだろ。」
と誘ってくれる奴。
すごくありがたい、と思いつつも固辞して帰ってしまった。
玄関で明かりをともし、しんと静まった我が家に自己嫌悪が増した。
鬱々と過ごした3日後、仕事の依頼が来た。
正直起き上がるのも面倒だが、これがなければ俺は外に出る気力もなく家の中で干からび、縮んでなくなってしまうだろう。
皮肉なことだがこの安楽死という仕事が、俺を唯一この世界に留まらせる細い糸なのだ。
機械を点検し、持ち物の準備をしている時、電話が鳴った。
依頼人からかと思ったが、あの男からだった。
「俺、これからパリで仕事なんだが、ピノコが昨日から熱を出しているんだ。お前何とか少しでも見てやってくれないか。」
とあわただしく言われ
「俺も今日は仕事だ」
と返すと
「なら明日でもあさってでもいい。お前ならピノコも甘えるから。あいつ、弱っている時には俺にもなかなか弱みを見せないけれど、お前になら色々言うだろう。頼む。もう搭乗なんだ」
と、俺の仕事の内容にも思い至らないくらい切羽詰っているようだ。
「そんなの、父親のお前の役目だろう」
と言うが
「俺のこと、あいつは親だなんて思っていない。こんな風に仕事に出ちまうんだから当たり前だけれど。心配だから知り合いの病院に頼んで入れようかと思ったんだが、あいつ自身が本当にだめならお前に電話すると言ったんだ。でもやっぱり自分からはなかなか言い出せないだろうから。お前、あの子にとっては理想の親だからさ。電話だけでもいいから、してくれ。俺は仕事に入ると他のことはすべて忘れちまうから。頼む。俺の子なんだったら、お前だって大事だろ」
話すだけ話すとすぐ電話は切れた。
普段なら頼られるのを嬉しいと感じるのだろうが、今の俺には鬱陶しい。
俺は仕事だ。
ほかの事を考えるゆとりなんて、ないね。
そううそぶき依頼人の元に急ぎながら、考えるのはお嬢ちゃんの事ばかりだった。
あんなに小さい子が一人熱を出していたらさぞかし不安だろう。
しかもそんなに具合が悪くても、自分で食事の用意をしなければならないのだろうし。
具合が悪く、食欲のないときはつい食べるのを怠りがちだが、本当に何か食べなくては、と思ったときには起き上がれなくなっているもの。
子どもなら脱水にもなりやすいけれど、ちゃんと手近に飲み物を置いてやっているだろうか。
それを定期的に少しずつ飲めているだろうか。
仕事の終了は深夜だったが、タクシーを捕まえて高速を急がせた。
空がほの白くなってきた頃、やっと着く。
こんな時間、一番訪問に不適切、と思いながら、せめて窓からのぞくことくらい出来ないかと家に向かうと、中で電気がつき、ドアの鍵がかしゃんと開いた。
ドアをノックし、そのまま開けると真っ赤な顔のお嬢ちゃん。
熱が高いようで、ふらついている。
「俺が悪い人だったらどうする。すぐに鍵を開けてはいけないよ」
と抱き上げると
「ちゃんと窓から見たもん。おじちゃん、先生に聞いて来てくれたの? 嬉しい」
とにこにこする。
「遅くなって悪かったね。車の音がうるさかったかい」
と言いつつベッドまで連れて行き、寝かせると
「なんか眠れなかったの。先生のお仕事の時はいつもすぐ目が覚めちゃうの。新聞屋さんのバイクの音でも目が覚めちゃう。でもさっきはバイクの音じゃなかったから、もしかしておじちゃんが来たんじゃないかと思って見に行ったの。」
と言う。
きっとこの子はいつもこうしてあいつのことを待っているのだろう。
「あいつじゃなくて悪かったな」
と言うが
「先生がおじちゃんに頼んでみるって言ってくれたから。先生が電話で『あいつは仕事だからすぐには来られないかも』って言ったけど、ピノコ、おじちゃんはお仕事が終わったら来てくれるって思ってた。おじちゃん、来てくれてありがとう。」
とにっこりし、すぐに
「ねえ、今日はお仕事あるの」
と心配そうに聞く。
「ないよ」
と言うと
「じゃあピノコが起きるまでおうちにいてね。絶対よ」
と言うが早いがすぐにうとうとし始めた。
台所を覗くと小ぶりのなべにたっぷり作られたおかゆの表面に膜が張っていた。
あいつが作っていったのだろうか。
一度だけお玉で削られた跡がある。
冷めて膜の張ったおかゆを一人で食うほどわびしいことはない。
食欲のないときは、特に。
でもこの家では仕方ないことなのだ。
少々取って味見をすると、米はアルデンテにもなっていなかった。
奴も確かおかゆくらいは作れたはずだが・・・急いでいたのだろうか。
こんなもの人間の食べるものではないが、捨てたらお嬢ちゃんが悲しむだろうから、牛乳と砂糖で煮てライスプディングに作り変える。
汚れた台所を片付け、自分も眠気に負けてソファでうとうとする。
「・・・うん、うん、大丈夫よ。キリコのおじちゃん、来てくれたよ。でも、早く帰ってきてね。」
お嬢ちゃんの声が目覚ましになった。
いつの間にか上着がかけられている。
「あいつか」
と声をかけるとにこっとしながら電話を続ける。
もうすぐ帰るなら、明日あたり俺は用済みかな。
それでもいい。
ほんの少しでもこの子の慰めになるなら。
「先生、もしかしたら明日帰れるかもだって。そう言っても延びちゃうことも多いんだけど。ねえおじちゃん、おなかすいた」
と言うので、先ほどのライスプディングを出す。
うまいこと冷蔵庫で冷え固まり、元がおかゆの出来損ないとは思えない。
「おいしい。おじちゃん、すごい」
とぱくぱく食べる顔色は、さっきよりずっといい。
食欲が出たなら、風邪も治ってきたのだろう。
ベッドのシーツを替えてやり、パジャマを着替えさせ(体を拭くのは自分でやると言われた。少々寂しい)洗濯をする。
干し終わり、肩をぐるぐる回していると廊下を歩くお嬢ちゃん。
「お茶を入れようと思ったの」
というのは建前で、寝るのに飽きてきたようだ。
「おじちゃんが入れるから、一緒にソファで飲もうか」
と言うとソファに走っていき、かしこまって座った。
「ねえ、おじちゃん、何で元気ないの」
と聞かれる。
「おじちゃんはいつもこんな感じだよ」
と言うが
「うそ。先生もこの間からずっと心配してたよ。ピノコもおじちゃん、おかしいと思う。ね、先生には内緒にするから、ピノコにだけ教えて。」
と真剣そのものだ。
その顔が奴のそれにだぶる。
「おじちゃんの妹が結婚して幸せだとわかったから、肩の荷が下りて気が抜けただけだよ。幸せな気の抜け方だろう? みんな結婚すれば新しく家族ができる。それは自分たちで作って強くしていく家族だから、一番大事になっていく。忙しくなれば、元いた家族のことは少しずつ思い出になっていくだろう。あの子は俺のせいで苦労したからね。」
と言うと
「おじちゃん、もうユリちゃんに会わないみたいな言い方してる」
と図星を指された。
そのつもりだ。
ずっと俺を心配してくれたユリ。
付きまとう彼女をうっとうしいと思ったこともあったけれど、大好きだった。
もしかしたら又会おうと言って来るかも知れないけれど、言葉を濁していればいつか新しい家族にかまけっきりになるだろう。
幸せになって欲しいと思うのだ。
俺がうろつくと、彼女は悲しいことばかりを思い出す。
「じゃあ、おじちゃんはどうするの。おじちゃんも新しい家族を作るの?」
と聞かれ
「今のところ、そのつもりはないかな」
と答えると
「じゃあ、うちの家族になって。先生と私がだんなさんと奥さんで、おじちゃんは二人のコイビトね。コイビトって結婚してないけど、一番好きな人のことなんだよ。コイビトなら、一緒に住んでなくても大丈夫でしょう?」
ままごとのような話。
笑い飛ばそうとしたけれど、彼女の顔があまり真剣だったのでやめた。
その代わりにそっと抱きしめて
「おじちゃんの家族になってくれる?」
と聞いてみた。
「離れて暮らしてても、家族なんだよ」
と頭をなでる小さな手は、幼い頃の妹を思い出させた。
もう一生会わないとしても、ユリは家族だ。
心の中ではそう思っていいのだ。
「先生もきっと喜ぶよ」
と言う彼女は、俺たちのことを何か感づいているのだろうか。
わからない。
けれど、その日から俺とお嬢ちゃんは今までよりずっと仲良くなった。
帰ったあいつが少々焦ったくらいに。