トマト
海外からの仕事帰りに車を走らせていると「産直野菜」の看板が目に入った。
家の冷蔵庫は空っぽにしてある。
外食ばかりで野菜に飢えていたところだ。
車を駐車する。
いつの間にか日本は春真っ盛りになったようで、大根やキャベツと一緒にほうれん草や小松菜、新玉ねぎやさやえんどうなどが並んでいる。
目に鮮やかな緑がまぶしい。
さっきまでいたロシアはまだまだ冬だったっていうのに。
そんなことを思いながら野菜を物色し、会計を備え付けの缶に入れようとして1000円札しかないのに気づく。
うーん、後200円か。
入れちゃってもいいけどどうしようかな、と周りを見ると、陳列棚の端に鉢植えがいくつも並んでいる。
近づいてみると「トマトの苗 100円」と札がついている。
苗ねえ。
家に植えてもすぐ枯らせてしまいそうだけど、こんなのを喜びそうな子を一人知っている。
これをダシに、あいつの家に行ってみようか。
100円はサービス料として千円札を缶に押し込み、奴の家に向かった。
次に奴の家に行ったのは、それから半月を過ぎた頃。
ひょろっと小さかった苗は背が伸び、幹が太くなり、なんと花が咲いていた。
小さくて黄色い花だ。
ひとつの場所に数個のつぼみが出来、間隔を置いて咲いていくので、枯れた花とつぼみの状態のものの間に挟まれ、ぽつんぽつんと可憐に咲いている。
実もなっていないのに、近くに寄ると青臭いトマトの香り。
「かわいいでしょう?」
とお嬢ちゃんが触ると、花の根元からぽとりと取れた。
「ちょっと触っただけなのに」
と泣きべそをかくのに慨視感を覚える。
俺もこんなふうにショックを受けたことがあったっけ。
「みてごらん。トマトはひとつの場所からたくさんの花が出ているだろう? けど、この全部が実になるわけじゃないんだ。花にはおしべとめしべがある。おしべの花粉がめしべにつくと、トマトの実の元が出来る。ほら、こっちの枯れた花の根本は膨らんできているけど、お嬢ちゃんのは違うだろう。」
落ちた花を拾ってお嬢ちゃんの前にかざし
「こういう大きな実がなるトマトは、隣に育ちかけの実があると、そっちに栄養を取られて花が落ちやすくもなるんだよ。こいつはまだ実の元ができてなかった。だから触っただけで取れてしまったんだ。同じ茂みには1度に1個。ある程度日がたつとまた実がつきやすくなるんだけどね」
あの時も、トマトの苗だったな。
誰かからもらった苗を大事に育てたけど、その年は雨が多すぎて実がほとんどならなかった。
なったものも日照時間が足りないせいでひどく酸っぱかったっけ。
「いっぺんに1個しか出来ないんだ・・・」
まじまじと花の根本を覗く女の子のつむじを見ながら
「そのほうが美味しくなるからって、わざと花を摘む人もいるよ。じゃないと小玉になっちゃうからね」
と話す。
俺にとってはほんの世間話だった。
けど、彼女には違ったらしい。
「ピノコね、お姉ちゃんの腰の腫瘍だったんだって。腰の袋の中に、ばらばらのまんまで入っていたのを先生が縫い合わせたんだって」
驚いた。
驚くと同時に、ああ、そうかとも思う。
あの男が大切にいつくしむ子供。
母親の影はなかった。
うっすらとオペの痕があったし、抱くと想像より重く、抱き心地も昔日の妹とは異なり、体内に何か入れているのかもとは思っていた。
だが、そんな大掛かりなものだったとは。
「ピノコ、本当はぽとりと取れる花だったのかな」
つぶやく彼女に
「ぽとりと取れなかったから、今ここにいるんだろう? 君はきっと生きたい気持ちがすごく大きかったんだな」
と頭を撫でると
「だって先生に会いたかったんだもん」
とにっこり答える。
「私、今度からお花には触らないんだ。だって落ちちゃったらかわいそうだもん。ちいちゃくてもいいから沢山なったらいいな」
と言うので
「そうだね」
と改めて苗を見る。
「ピノコ、毎日たくさんお水あげるんだ」
と張り切るお嬢ちゃんに
「あげすぎてもいけないから、ほどほどにね」
と釘を刺すのも忘れずに。
タイミングを見計らったようにドアが開き
「ピノコ、お茶を淹れてくれ」
と男が顔を出した。
「わーい、キリコのおじちゃんのケーキを出すね」
と家に駆け込んでいく少女を見つめる男の様子を見て、今の話を聞いていたんじゃないかと思う。
立ち入った話を聞いてしまったかな。
ケーキの後は夕食の買い物と支度につき合わされ、和やかな夕食。
俺の人生にはあるはずのない、いつも場違いさを覚える、けど楽しい時間だ。
お嬢ちゃんが笑う。
あいつの顔がほころぶ。
俺の顔もきっと緩んでいるに違いない。
かりそめの、愛の空間。
お嬢ちゃんのお休みのあとのいつもの酒盛り。
今日はできるかな、できないかなとつい考えてしまうのは、即物的な男の性だ。
この家の場合はないとあきらめておいたほうがいいのだが、会えばしたい。
この間は急患が来てできなかったんだし。
なんて不穏なことを俺が考えているのを気づいているのかいないのか。
なんだか難しい顔でオン・ザ・ロックをちびちび舐めていた奴がこっちを向いた。
「さっきのトマトのやつ。受粉前はすぐに花が取れるって本当なのか」
と聞かれ、しばらく意味を考えて昼間の話か、と合点する。
「プチトマトなんかは咲いた奴ほとんどみんなが実になるらしいけど、あの品種はそうじゃないかな。大玉になる品種らしいから」
と言う。
なぜそんなことを気にするんだろう。
自然淘汰は、もしかしてこの家のタブーなんだろうか。
考えてみれば、この家の二人とも普通なら生きてはいないだろう命だ。
生きられるものは生き、そうでないものは死ぬ。
それが自然の定めだ。
けど今この二人がいなかったら、と思うと足元が崩れるような気さえする。
俺達の生業では死は身近だ。
出会いさえなかったら、何を感じることもないのだろうか。
そして俺は砂を噛むような人生を、今もただ生きていたのだろうか。
辛気臭い考えに落ち込んでしまった。
俺よ、そういうことは一人の時に考えろ。
今はここにこいつがいる。
ほんの少し手を伸ばせば温かい体に触れられるのだ。
シンミリしていたらせっかくのチャンスをふいにするぞ。
「ま、どんな形にしろ、お嬢ちゃんも受精はしていたわけだ。考えれば不思議なもんだよな。卵子に最初に到達した精子だけが受精し、受精卵になった途端卵子には強固な膜が張ってほかの精子が進入できなくなる。トマトの場合はそれまで細かった花の根本がどんどん太くなって、しっかり木と結びついてしまうんだから」
薀蓄を言うと普段なら乗ってくる男なのだが、なんだか顔が固い。
どうしたんだろう、こいつ。
仕方なく話を続ける。
「なんか人間と似ているよな。いくつも花を咲かせても、落ち着くのは1つだけ。どれかはわからない。けどある時、実が出来つつあるのがわかる。最初は触っただけでもげてしまうくらい脆いのに、実が膨らんでくればもう簡単にもげたりしない。ほかとは比べ物にならないほど固く木に結びついて真っ赤な実に染まっていくんだ」
もちろん俺はこいつとの間のことを言っているつもりだったのだが
「それは俺に対する嫌味か」
と言われ、風向きがおかしいことを悟る。
うつむいていた顔を上げ、何かを抑えるように
「花実が欲しいなら女のところに行くんだな。あいにく俺とじゃ受粉などできはしない。簡単に、なんかの加減でポロリと落ちるだけだ」
と言い募る姿が、なぜか昔「人殺し」と俺をなじったあの時の顔とだぶる。
俺が苦手で仕方なかった、見たくもないのに何度も見た顔。
怒りだけじゃない。
己の苦痛を隠して吠え立てる、手負いの獣のような顔だ。
そういえば、あの頃からこいつの顔には怒り以外の何かがあった。
お前のことを気にかけているんだ、気にしているんだぞ、とその度言われているような気がして、うっとうしくて仕方がなかった。
そうか。
なんだか笑いがこみ上げる。
そうだ、あの時も、あの時も。
火に油を注がれたような顔をした男の肩をがしっと掴み、ヘッドロックをかけるように引き寄せる。
かわいい男だ。
ああ、お前さんが愛しいよ。
いつか足元が崩れる思いをして、その先ずっと苦しいとしても、最初から会わない人生じゃなく、今がある人生がいい。
「お前さん、何を聞いているのかね。確かに俺は身持ちがいいとは言えなかったが、お前さんとこうなってからはほかとする気が起きたりせんよ。俺は今思っていたんだ。生きているのも悪いことばかりじゃない。そう思えるようになったのが、お前さんとの間にできたトマトなのかな、と」
もがく体を力づくで抑える。
笑いが止まらない。
男の体温が上がる。
その高さに伝染するように、こっちの頬まで熱くなっていく。
「恥ずかしいこと言う、その顔見せろ」
腕の中でもがく男に
「なア、もしかして嫉妬した? 俺の顔見る時、お前さんの顔も俺に見られるんだぜ」
と耳に吹き込むようにささやく。
抱え込んだ男の動きが止まるとトマトのように赤らんだ耳が俺の目の前。
軽く食み
「片付けは明日でいいよな」
と言うと、ほんの少しこっくりする。
さあ、お前の部屋に行こうじゃないか。
真っ赤なトマトに齧りつきたい。
産直野菜の旗の下でトマトの苗を売っていました。
今はまだ青々とした実を見つつ、チビと交わした会話から。