手
このごろ何となく落ち着かない。
こんな風に毎日いらいらするなんて、何年ぶりだろう。
腹の中がもぞもぞする。
カルテの整理をしても、悪辣な取り立てに外出してもすっきりしない。
風呂で抜いた。
そういう時、俺は大体何も考えない。
普段はオペが欲望を昇華してくれるし、たまに溜まった時には本当に身体的な欲求が高まっているので、特に妄想するための何かは要らないからだ。
学生時代にみんながエロ本を回し読みしていた頃も、復讐心に昂ぶってそのまま抜いていたような気がする。
大体女の裸なんて見慣れているので、何とも思わない。
まあ、俺の眼にする裸は大概病魔に冒されていてお世辞にも美しいとは言えないものが多いが、時に目にする美女の裸も、中をあければ一緒だと思うとまったくそそられない。
俺の想像力が余り発達していると言えないのは、若い頃の妄想が足りなかったせいだけでなく、職業柄のせいもあるような気がする。
排水溝に髪が詰まっていて、そこに残滓がへばりついているのに気がついた。
罪悪感。
ほかにも床の端に流れ着いたのがあるような気がしてつい床を磨き、そうすると洗い場だけきれいなのも変な気がして大々的に風呂の掃除をする。
ピノコは喜んでくれたが、それが続けば変な目で見られる。
浮気しているから後ろめたいのだろうと、わめかれてしまった。
俺が掃除したらそんなにおかしいか、とつい大声を出してしまい、しょんぼりされる。
あたるようなことをして、悪かった。
後ろめたいことは確かだが、もっと即物的な事情なのだ。
今日も風呂ですっきりしてから体を洗いつつ、原因は奴との事なんだろうかと思う。
正直、俺は30代にしてそっち方面はもう枯れた位に思っていたのに、今週の俺はまるで10代のガキだ。
かといって、別に奴を思って抜いているわけでは断じてない。
正直男の体を想像して誰が起つかっていうんだ。
ためしに頭の中であいつを裸に剥いても何とも思わない。
グラビアアイドルのようなポーズを想像しても気持ち悪いだけだし、とちょっと想像してみて胃液が逆流しそうになった。
やはり奴のせいではなく、単に陽気のせいなのだろうか。
抜いた後もあまりすっきりした気分にならない。
なんだかな。
急に奴が伊勢名物の赤福餅を持ってやって来た。
仕事で行ったのかとちらり思ったが、うちに来たならすでに終了した話なのだろう。
それなら場を荒立てるだけ損だ。
3人でお茶を楽しむ。
何でこう赤福はうまいんだ。
このこしあんの甘さ加減が好きだ。
へらを使って一つ分をきれいによそえるところも楽しい。
すぐに自分の取り分をみんな食べてしまったが、まだ食い足りない。
意地汚いのもいやなのでしかたなくお茶をすすっていると、奴が
「もっと食えよ」
と言ってきた。
「俺の分は食った」
と未練が出ないように言うが
「俺は甘いものは少ししか食えん」
と言われ、迷った挙句意地を張るのをやめた。
うまかった。
夕飯の買い物をしにピノコが出かけると、奴がちょっかいをかけてきた。
といっても性的なものではなく、後ろを向いた拍子に背骨に沿って指で逆なでたりタックルまがいに押し倒されてくすぐられたりするだけだ。
まるで学生時代にしないで過ごした男同士の馬鹿な付き合いをしているようで、邪険に突き飛ばしながらも内心楽しい。
でもふざけて抱きしめられ、わざと耳元に息を吹きかけられたとき、先日のことを思い出した。
あ。
一瞬固まってしまい、空気が張り詰めた気がした。
体の奥がもぞりとする。
なんで。
奴がさりげなく腕を解いた。
ばつが悪くてどうしようかと思っていたら
「そういやお前、赤福ほとんど食べていたな。あんなに食べて、夕飯が入るのか? あんこ物、やっぱりすごく好きなんだな」
と、まったく違う話題を振られる。
ほっとして憎まれ口を叩きながらも、さっきの感じが気になった。
夕飯まで食った後、奴は帰っていった。
ピノコの食事にあそこまで我慢できるとは、なかなかたいした奴だ。
正直、今晩はいつにもましてすごい味だったのだ。
奴は完食した後控えめに、次は一緒に料理を作ろうと提案していた。
あいつ、そういえば料理ができるんだよな。
俺がピノコに教えられないため、どうにもならなかった分野が一つ埋められるかもしれない。
今日こそはしないで済まそうと決意して風呂に入り、無事入浴を終えることができたのに、ベッドに入ったらまた悶々として寝返りを打つ。
関係ないことを考えておさめようと今日の出来事を思い出していくうち、奴とのじゃれあいにぶつかった。
ああいう体をぶつけ合うようなふざけあいはほとんどしたことがなくて、すごく新鮮だった。
俺の歳になれば他人に触るなんてこと、握手とオペくらいしかない。
たまにピノコが寄ってきて甘えることがあるが、彼女も常識を少しは覚えたから最初の頃のように乱暴なことはしなくなった。
たまに抱きつかれてびっくりするが、子供の彼女とあいつでは、ガタイがまったくちがう。
彼女は腕の中にすっぽり納まるが、あいつは細身に見えて存在感がある。
馬乗りになってくすぐられた時、抜け出そうと全力を振り絞ってもかなり苦労した。
プロレス技に持ち込んで締め上げようとしてもうまくすり抜けられ、やっと関節を決めたときもかなり持ちこたえるので全力を出した。
遊びで全力を出すことなんて、本当にいつ以来だろう。
さっき後ろから抱きしめられたとき、背中全体が温かくなった。
思わず下を向いたとき、奴の手が目に入った。
節ばって、静脈の浮き出た手。
体術には結構自信があるのに、あの手を振り解けなかった。
普段食事をしたり、仕事をするのに使われる手が、この間は俺を握りこんできた。
「競争な」
と言いつつまるで競争にならないくらい、あいつの手は的確にツボを知っていた。
俺なんて緊張してがちがちだったのに。
パジャマのズボンに手を入れた。
風呂場でしなかったからと言い訳しながら手を動かす。
やっぱり奴の顔だの体だのは思い出さなかった。
ただあのときの手の感触と耳元のささやき声、そんなものが切れ切れに頭の中をよぎっていった。
急に耳元をいたずらされたリアルな感じがよみがえって、手の中に出していた。
朝起きたらものすごくすっきりしていて、しばらくつきまとっていたいらいらも、もぞもぞも、どこかに行っていた。
機嫌よくのびをしながら、今日は暇だしちょっと調べごとに遠出してみようかと思った。