数年後(中)
あいつのガイドにナムチェで泊まる予定の宿の名を聞き、先に進むことにした。
歩きながら
「あの子が心配だから、同じ宿に泊まりたいんだが」
と〈父親〉に言うと
「いいよ。宿は決まってないから。だが、そこまでおせっかいを焼くとは意外だな」
と言うので
「これでも医者のはしくれだからな」
と言うと
「少女趣味だって、俺はちっとも構わないぞ」
と肩を叩かれた。
そんな趣味はみじんもない。
「お前の声はいい。もっとしゃべれ。わがままを言え。ボスはああいう方だが、あんたを元気にしたいのは本当だ。あの子と引っ付きたいなら協力するぞ」
と叩かれた肩を組まれたが、ノーサンキュー。
悪いけど、俺はそんなに趣味が良くないんだ。
うん、本当に悪いのだ。
教わった所は、ちょうどナムチェの中央付近にある、典型的なトレッカー宿だった。
傾斜地に建っているので、階段を登った2階にテラスカフェがあり、その奥が食堂と受付。
3階以上が客室で、地下に思える地上階にシャワーと機械類があるらしい。
個室が欲しかったが、これから埋まるからと言われ、今日は〈父〉と同室だ。
さすがに1日誰かと一緒はつらいので
「ちょっと出てくる」
と外に出る。
「一緒に行くよ」
と護衛らしいことを言われたが、謝辞する。
せめて夕飯までは一人でいたい。
宿の近辺はトレッカーや現地の人々でにぎわっていたが、少し歩くと一部屋か二部屋しかないような小さな家が並ぶ路地になる。
現地の人々が暮らす家並みだ。
子供が赤ちゃんを背負ってよちよち歩いている。
家の外で野菜や豆を選別する人もいる。
そういう人が俺の姿を見て「誰だろう?」という顔をすることもあるが、観光立国のネパールではよそ者なんて珍しくもないのだろう。
害がなさそうだとみると、すぐに自分の興味に戻っていく。
その無関心さが、今の俺にはありがたい。
途中まで誰かの気配を感じていたが、それもなくなったようだ。
いい感じの岩があったので腰を掛けて一服し、しばらく一人を満喫した。
時間をかけて歩き、小さな買い物をして宿に戻る。
寝る以外はなるべくラウンジにいればいいだろうと思うが、誰かと同室というのは気が進まない。
この先の宿では個室が取れればいいのだが。
そんなことを思いながら宿の階段を上り、オープンカフェを通り抜けて中に入ろうとしたができなかった。
あいつがいたのだ。
それまでの景色がただの書割だったことに気づいた。
目の前の風景が鮮やかで、目がくらみそうになる。
その中心にいる男に俺は何を話したのだったか。
脳に届く前に脊椎で反射していたようで、まるで残っていない。
ただ飲み物を頼んで、一緒にタバコを吸った。
伏せた目を覗き、声を聴いた。
カップの中身がなくならなければいい。
寒くなってきたけれど、まだ中に入りたくない。
そんなことばかり思っていた。
夕食の時間、込み合うラウンジで〈父〉と食事が来るのを待っていると
「お」
と俺をつついて、あちらを見ろ、と示す。
そこにはあの二人がいた。
「ちょっと行ってくる」
と立ち上がると
「ごゆっくり」
と返される。
ついてくるつもりはないらしい。
さりげなく近づいて、まずお嬢ちゃんに挨拶する。
あくまでも用件はお嬢ちゃんであるように彼女を見、当たり前のように椅子に腰かけ、話をしながらも、俺の神経の90%はその保護者の男をたどるのに必死だった。
頑張りをほめるのに金の話に行ってしまい、しまったと思いながら軌道修正できず、何とかしろ、とこっちを見るさまが昔と同じで口元がむずむずする。
笑うこと。
感情を出すこと。
それが大事だと俺が言うのはおこがましい、と思う。
だけど俺は今、彼女に笑いなよ、と大げさに口を開け、指で示し、こうしてごらん、と自分の口角を上げる。
この二人のそばに、少しでも長くいたいから。
冷めた料理を食べに、席に戻ると
「やはり、うるおいは大事だな。君が饒舌なところなんて、初めて見たぞ。ボスが、綺麗どころを見繕っても全然君の反応がない、と嘆いてらしたが、趣味を把握してなかったんだな。いい土産話を見つけた」
と肩をつつかれた。
〈父親〉ってこんなにうっとうしいものだったか。
それに、俺の趣味は彼女じゃない。
もっとずっと悪いのだ。
今日は高度順応の日なので、のんびり寝ている〈父〉を置いて朝食を取りにラウンジに行くと、ネパール人に声をかけられた。
あの二人のガイドだ。
昨日も少しお嬢ちゃんについて話したが、ガイドするにあたってどんなことに気をつければいいか聞きたいという。
仕事熱心な男で頼もしい。
気の循環について話していると、噂の二人も入ってきた。
外科医は“気”について「そんな切れないもの」という顔をしたりもしたが、興味深くもあったらしい。
そんな様に、ついにやけてしまう。
その様を〈父〉に見られていたらしく、部屋に戻るとまたからかわれた。
あまりからかうので
「本当はあんたの方が少女趣味なんじゃないだろうな?」
と疑いのまなざしを向けると
「さすがに孫の年に食指が動く事はない。せいぜいあんた位までだな」
と笑われた。
というと、あいつもギリギリ範疇かもしれない。
気を付けてやらなければ。
午後、バザールをちょっと冷やかしてから、昨日の岩まで向かうと、先客がいた。
昔から「なぜだ」とゲッソリする位、この男と出くわしたものだが、今は、この引きの良さに感謝したいくらいだ。
奴の吸っている日本の銘柄の煙草が懐かしくて、1本もらう。
そして昨日も妙だと思ったが、今回の旅の患者は、お嬢ちゃんと、多分こいつ自身らしいと気づく。
人は己を基準にして、自分の常識は隣でも通じると思いがちだ。
特に、単一国家を自称する日本においては顕著。
いびつで、だからこそ鋭い断面を持つこの男やお嬢ちゃんが、平均的な丸い形を尊ぶ日本の学校で暮らしていたのだ。
世間の澱が絡んで、少し疲れてしまったんだろう。
すっかり父親の顔をして、ナーバスになっている男のことをからかいたくなる。
お前さんなんて、いつも誰よりも破天荒だったじゃないか。
好きに歩いて、楽しんで、ちょっと苦しんでみて、納得できたら、そこがゴールだ。
大体、今のここだって富士山の8合目より高いんだからな。
悩んだからってネパールに来てしまうようなお前さんが、丸い石ころみたいに小さくまとまれるわけ、ない。
翌日の朝は出発まで会えなかったけど、食事の時間が合わなかったんだなとしか思わなかった。
だがその日の宿に着いて旅装を解いた時、恐ろしい予感に襲われた。
あいつは来ないかもしれない。
俺はあいつがカラ・パタールに行くつもりだと思い込んでいたが、俺と話している時、あいつはしきりに天候や気温を気にしていた。
それにもし目的地が一緒だったとしても、たどり着くまでのルートは何通りかある。
それによって泊まる場所も変わるだろう。
あれは千載一遇のチャンスだったのだ。
あいつとの繋ぎを作る為の。
俺はあいつの電話番号すら知らない。
もちろん、知り合いの誰かに聞けばわかる。
だがそのことがきっかけで俺たちの交流がばれ、あいつやお嬢ちゃんが害されることになるのはごめんだった。
夜になるまで他のロッジを覗いたり、道端でぼんやりしたりしていたが、あの二人は来ていないようだった。
がっかりしてラウンジに戻ると、〈父〉が
「あのお嬢ちゃんたちは、こっちじゃなかったのかな」
と言う。
「違ったみたいだな。ゴーキョに行ったのかもしれないし、もしかしたらナムチェ・バザールから引き返すのかもしれない」
と返すと
「残念だったな。でも大丈夫。かわいい女の子なんてまだまだいるさ!」
と肩を叩かれた。
落ち込んでいるのは確かなので、もうそれでいいことにする。