数年後(上)

 

 

ほんのわずかな注意散漫が、仇になった。

それからの悪夢の日々は、あの戦場とは違う意味で俺を叩きのめした。

それでもそこから逃げようとあがけたのは、どんなことがあってもあきらめない男と知り合い、いつの間にか影響を受けたせいかもしれない。

 

日本を脱出してからのことは、色々あったはずなのだが、正直あまり覚えていない。

ほかに何もない暗い部屋に鎮座した大画面のテレビから、興味のない画像が流れているのを流し見していた感じだ。

そのうちに体の傷は癒えたが、周りの影響を思うと、日本に接触を持つ気にはなれなかった。

大体日本人でもないくせに、帰るという言葉と共に思い浮かぶのはたった数年ぽっちの間ねぐらだった日本の家であり、最初は商売敵でしかなかった男の住む場所なのはおかしなものだ。

目を閉じたときに思い出すのは、あの真っ黒い後ろ姿と、家でくつろぐベスト姿。

懐こい嬢ちゃん。

 

だが、あれから何年も経った。

あまりにも過酷なことがあると、それから復活するのに時間がかかる。

俺は以前にトラウマがあったから、余計に時間がかかったのかもしれない。

周りに意識が向かうようになり、カレンダーの存在を思い出した時、俺は数字の読み方を忘れたのかと思った。

それほど長い年月を、時間の感覚なくただ機械的に動いていたのだ。

 

その間、誰とも一度も連絡を取ることはなかった。

ドクターキリコは死んだことになっていると聞いた。

それならば、あいつも俺のことは忘れただろう。

 

あのころの安楽死への情熱は、今はなかった。

法整備が進んだこともある。

以前はあれほどまでに非合法だった安楽死は、俺以外の抜け道がいろいろできた。

しかも俺はもう数年死者として数えられている。

誰からも依頼なんて、来るわけないのだ。

 

俺が最終的に身を寄せたのは、以前の稼業がきっかけで縁ができた組織の現在の長だった。

彼はずいぶん目をかけてくれ、俺が安楽死を再開するなら手伝うと言ってくれたが、それがきっかけで囲い込まれてしまうのはまずい。

もう安楽死はするつもりがない。

「自由になりたいんだ」

と暇を告げる。

 

それで殺されてもよかった。

この男は信頼できる。

少なくとも、この男は何かを盾に無理やり仕事をさせたり、無駄に苦しめて殺したりする男じゃない。

だけど

「それなら、せめて少しの間は護衛をつけさせろ」

と言われたのには驚いた。

 

組織も一枚岩ではない。

俺のことを恩で縛り付けてシリアルキラーに仕立て上げようとする一派もある。

それにもちろん、ほかの組織に取られるのは困る。

「一般人として溶け込めそうなら手を引くから」

と言われ、

「俺はまだそんなに死神の気配を漂わせているのかい?」

と苦笑すると

「そうじゃない。俺がいなくても一人でやっていけるかってことだよ」

とウインクされる。

確かに、ずいぶんひどい様を見られてはいるのだ。

 

体力は戻ってきていたが、気力はそこまででもないという自覚はある。

自然の中でしばらくのんびり過ごすよ。

そう言うと、休暇でネパールのトレッキングに行く奴がいるから、そいつに特別手当を出して護衛に仕立て上げるという。

せっかくのレジャーを仕事にするのは申し訳ないと固辞したが、相手は

「いや、組織がすべての経費を持ってくれるならありがたい」

と喜んで迎え入れてくれた。

彼はもう引退が近く、今は11か月しっかり働いて、残りの1か月はどこかの山をのんびり歩いているのだそうだ。

「もうガツガツ歩くことはできないからね。年齢差から言って、私とは親子ということにしよう。私のポーランドのパスポートに合わせて君の書類を整える。それでいいね」

と言われてうなずく。

俺の名はピオトルになった。

ピオトルはほかの国ではピーター、ピエールなどと呼ばれる一般的な名前だが、原点はキリストの最初の弟子のペトロ。

なかなか皮肉が効いている。

 

カトマンドゥから早朝のフライトで、エベレスト街道の出発地であるルクラに到着。

空港から一直線に伸びるメインルートはまだ人も少ないが、ずらりとロッジや土産物屋が並んでいるようだ。

空港で出会ったガイドの先導で一つのロッジに入って朝食をとる。

トースト2枚に卵、焼いたポテトとトマトにミルクティ。

ネパールらしいモーニングメニューだと思うのに、実感はまだわかない。

 

小さな飛行機から出て、山に囲まれた空を見た途端、その高さにめまいがした。

こうやってロッジに入り、今は天井も壁もあるのに、これからあの空の下を歩くのだと思うと恐れすら感じる。

 

だけど、ルクラの集落を抜けて山道に入り、しばらく歩いているうちに、目が慣れてきた。

眼帯でなく、サングラスをかけているから、あまりまぶしく感じないのかもしれない。

木々が視界を遮ってくれるせいもある。

単に息切れして、歩くのに必死になったのもあるかな。

 

「ここが今夜の宿だよ」

と言われるとほっとして、あてがわれた小さな個室で、細長いベッドに倒れこむ。

そのまま

「夕食に行こう」

とノックされるまで、眠りもせず、ただロッジの天井をぼんやり見ていた。

 

翌日はナムチェへの1日行。

ここからが本格的なトレッキングで、標高もぐんと上がる。

ただし、同行者は俺の父親と言ってもおかしくない年齢なので、ゆったりとした道行きだ。

もしかして、俺に合わされているのかもしれないが。

 

坂道をゆっくり上り、ゆっくり下がり、大きいが丈夫にできているつり橋を渡る。

それからまた上り。

しばらく行くと、エベレストが最初に見える地点があるらしい。

そこで休憩するというのを楽しみに登っていくと、不自然な人だかりを見つけた。

どうやらトレッキング中の少女が高度障害で動けなくなっているらしい。

この数年、手慰みに漢方を学んでいたので、鍼の用意はある。

 

だけど、その時俺はなぜ、自分から動こうと思ったのか。

そこまで周りに興味を持っていなかったはずなのに。

 

「少しばかりお節介して来る」

と同行者に言って近寄り、声をかけると、少女に声をかけていた同行者らしい男が振り向いた。

 

心臓が止まるかと思った。

 

見覚えのあるツートンカラーの髪の男が、俺を凝視している。

とっさに表情を取り繕い、男の隣にしゃがみこんだ。

ああ、あのお嬢ちゃんだ。

どうやってか、大きくなっている。

手も足も、人口物にはなっていないようだから、そっと触って状態を診る。

うーん、体力的には問題なさそうだけど、気の巡りが悪い。

胃も動いてないし、トイレにも行ってないんじゃないか? と尋ねると、驚いたように首肯された。

体が高度に順応しようと心臓をフル回転させているから、消化器系がおろそかになっているのか。

いや、根底には精神的なストレスがあるんだな。

あれほど天真爛漫だったはずのお嬢ちゃんの、表情が暗い。

だから、気の巡りが悪いんだ。

 

彼女の手足は本物だから、鍼治療はできるはずだ。

とりあえずツボを刺激すれば応急処置になるから、それで循環を良くすれば、ナムチェ・バザールまでなら歩けるはず。

深呼吸して、と言いながら大げさに深呼吸してみせると表情が緩んだので、真似させながら楽しいことを考えるように言う。

ちょっと気になる男の子のことでも、仲良しの女の子のことでもいい。

困ったことや悩みがあれば、先生に言えばいい。

どうせこの先生は、君に悩みがあることが分かっても、自分では聞き出せずに心の中でオロオロしているだけなんだから。

 

だけど、言えば先生は受け止めてくれるよ。

だから心の荷物は先生に預けて、君は楽しいことだけ考えて、笑っていなさい。

そうすれば気の巡りがよくなるから。

それで高山病は治るんだよ、と言うと、占い師みたい、と笑うので、すかさずほめる。

その笑顔は素敵だ。

そうやって笑っていれば高山病も良くなっていくだろうけど、夕方までに次の村に行くのなら、鍼を打ってあげようか。

そう言うと、すぐさま隣の男が反応する。

けど、大丈夫。漢方はかなり学んだ。

どんな先生がどんな風に教えてくれたかは曖昧だけれど、説明の声と、自分の指が動くさまだけは体がはっきり覚えている。

 

蚊の吸い口よりも細い針を刺しても、患者に特段の痛みはない。

だが、ここだ、というところに達すると、手の下の皮膚の触感が変わる。

そこで細かく振動させると、体の力みが取れるのが分かった。

ひざ下と手首に2本ずつ。

うん、こんなところだろう。

 

あいつは何か言いたそうだったが、目で黙らせる。

〈父〉は護衛という名目だが、もちろん監視の目的もあるだろう。

だって、これで本当に俺が抜けたら、組織は丸損だ。

何年もタダで世話になって、そのまま開放なんて、ありえない。

あの時、暇を告げたのは、もう始末してくれてもいいよ、と言うつもりであったのに。

 

今の俺は、あともう少しだけ生きたい。