塩のケーキ
俺は車を走らせていた。
行き先は、断崖の診療所。
奴の家だ。
今朝、寝ぼけ眼で電話を取ったら、お嬢ちゃん。
「今日、これからケーキを焼くの。お仕事ある? もしないなら、来て」
と言われ、つい相好を崩してしまった。
昨日までは忙しかったが、今日は予定無し。
本当は今日は絶対昼まで寝倒す、と思っていたことも忘れて
「行くよ」
と言うと、奴が代わって
「手土産はいらんから、泊まるつもりで来い。いいな、泊まりだからな」
と妙な念の押し方をする。
とぼけて
「それはパジャマを持って来いということか? それとも薬局か?」
と聞くと
「パジャマなんかうちにある。そんなの、わかりきったことを聞くな」
と少々あわてた声。
「薬局か」
と念を押すと
「わかったな」
と言う声とともに電話が切れた。
ツーとか細い音を立てる受話器を持ちながら思わず笑う。
お嬢ちゃん、近くにいたのかな。
あいつがこんなあからさまな誘いをかけることなんかほとんどないので、こらえようとしても頬が緩む。
どんな顔して言ったんだろう。
きっと自分ではポーカーフェイスだと信じている、あのバレバレの仏頂面だったんだろう。
照れを含んでいるときの仏頂面はほんのちょっと目元が違う。
お嬢ちゃんも、奴の機嫌のよさがわかっているはず。
手土産はいらないと言われたが、もらい物の酒があったので持っていくことにする。
お嬢ちゃんには山桃ジュース。
この間試飲したらうまかったのでつい買ってしまったが、結局一人では飲まずに放ってあったのだ。
買った当初から一人では飲まないんじゃないかと思っていたのだが、もしかして嬢ちゃんの土産になるかも、と考えていたのではなかろうか。
非情な安楽死医がこの体たらくか、と誰かに言われてしまいそうだが、こういうことは俺の中で矛盾しない。
奴と知り合い、色々な患者に向き合ううちに、俺は安楽死の必要性をより痛感するようになった。
奴にとっては皮肉だろうが、医学の進歩が逆に生の終末をあいまいにしてしまったように思えてならない。
だが、溝が深まるはずの奴により惹かれてしまうのはなぜなのか。
見慣れた家の前に車を停め、ノックしてからドアを開けた途端、乾いた銃声がした。
どっちが。
と思った時、俺は色とりどりのテープに捕まっていた。
「お誕生日、おめでとう」
と言うお嬢ちゃん。
彼女はきっと俺の心臓がでんぐり返ったことなど気づいてないだろう。
誰が撃たれたのかと思った。
おかしなことに、自分が撃たれるとはまったく思わなかった。
どちらが撃たれてしまったかと。
一瞬の凍りつくような気持ちが手の震えになり、過呼吸を起こしてしまいそうで、意識して細く長く息を吐く。
そのせいでお嬢ちゃんとの会話に遅れ、しばらく意味がつかめなかった。
「おじちゃん、今日お誕生日じゃなかった?」
と聞かれ、やっと我に返る。
時計のカレンダーを見て、そういえば今日だったか、と思い出した。
「もしかして、そのために呼んでくれたのかい?」
と聞くと
「やっぱりわかんなかったんだ。先生が『絶対に忘れてるぞ』って言ったの、当たったね」
とニコニコして言う。
「ケーキ、作ったの。今日のはあんまり膨らまなかったけど、その代わりクリームたっぷり塗ったのよ」
と言うケーキは本当にクリームたっぷりで、ちゃんと食べられるか少し不安だ。
でも取り分けられた分は残すまい、と思う。
そう、思ったのに。
一口分を口に入れたら、髪の毛が逆立った。
表情を消してあごを動かし、嚥下、しようとして失敗する。
だめだ。
どうしても飲み込めない。
目の前で奴が口に放り込んだケーキにむせた。
あわててティッシュを取ってきてその中に吐き出し、俺にも使え、と言うようにティッシュ箱を突きつける。
手を振り、紅茶とともにぐいと飲み込んだが、申し訳ないが二口目は無理だ。
目を丸くして見ていたお嬢ちゃんに、奴が
「ピノコ、このケーキ、塩の塊だ」
と言う。
彼女もあわてて一口入れ、思い切り吐き出した。
「えーん、辛い」
と舌を出す。
そう、このケーキはしょっぱいってもんじゃない。
口に入れると、辛い。
普通塩はほんの少量で用が足りるが、砂糖はスポンジ1個に100グラムくらい使うから、塩と間違えると桁違いの衝撃なのだ。
ううん、やっぱりドッキリやいたずらでなく、彼女のちょっとした間違いか。
普段と違い、かわいそうなくらいしょんぼりしている。
「せっかくキリコのおじちゃんのために作ったのに」
とうつむく彼女を見るに忍びなく
「お嬢ちゃん、手伝ってくれ」
と言いながら、台所に立つ。
ボールに卵と、砂糖と、牛乳と、小麦粉。
小麦粉には膨らし粉を入れ、レンジでチンした溶かしバターも少し。
フライパンに大きく広げて、ふつふつ言ったら裏返し。
あっという間に、ホットケーキ2枚。
「さっきのクリームは砂糖味だったな」
と言うと、涙を拭いたお嬢ちゃんが大きなスプーンでクリームを削って落とした。
熱いホットケーキに乗せた途端、しゅわっと消えていくクリーム。
でも味はよくしみこむ。
改めてお嬢ちゃんに誕生日の歌を歌ってもらい、3人で食べた。
食べ終わった後、柄になくゲームなどしたせいで3人とも少々疲れてしまい、夜はボンカレーになった。
お嬢ちゃんは夜もご馳走を作るつもりだったようだが、色々興奮することがあったのでやつが提案したのだ。
「先生、ピノコのよりボンカレーが好きなの?」
とお嬢ちゃんがすねた声を出したが
「これは俺の懐かしのおふくろの味って奴だからな。お前のも好きだけど、これも飽きないんだよ」
という話に、俺も続きを聞きたくなった。
「そんなにたいした話じゃない。俺の父親は商社マンで出張がちだったから、たまに帰ってきた時、母はよくご馳走を作った。けど普段俺と二人のときには気が抜けてしまうんだろうな。出来合いのハンバーグとか、お茶漬けとか、ボンカレーなんかで夕飯を済ましちまうこともよくあったんだ。多分、たった二人の食事、それも俺はまだそんなに食べなかったから一人前に毛が生えたくらいの食事をわざわざ作る気になれなかったんだろう。正直、料理だけはあまり得意じゃないみたいだったし。」
それからくすっと思い出し笑いをし
「そういえば俺、塩のケーキを食べたのは初めてじゃない。母が一度だけケーキを焼いてくれたことがあったんだが、それが塩のケーキだった。舌がしびれてどうしても飲み込めなかったっけ。お前のはクリームが砂糖なだけ、よかったよ」
と言いつつピノコを見た。
優しい表情は彼女だけでなく、彼の母親への愛も込められているのだろう。
「だからボンカレーは俺にとっては懐かしい味なんだ。母が死んだ後も俺は長く入院していたけれど、中学になって初めてボンカレーを食べた時、この味だったって思い出した。母が料理下手でよかったとあの時本当に思ったよ。これからはいつでも食べたい時におふくろの味を楽しむことができるんだから。それも、自分で封を切らずに食べると、余計うまい」
と言うと温めたお嬢ちゃんがにっこりした。
お嬢ちゃんが眠そうになったので、寝室に連れて行く。
何となく、このごろ彼女が寝る前のお供をするようになった。
ベッドまでついていき、布団をかぶった彼女とたわいない話を少々するのだ。
今日の話題は
「おじちゃんも塩のケーキ、他に食べたこと、あゆ?」
というもの。
「うーん、そういえば昔、ガールフレンドの家に行ったら塩の詰まった焼きりんごを出されたことがあったな。その子は普段すごく菓子作りがうまい子だったんだけどね。彼女、泣き笑いしていたっけ。みんな間違うことだってあるさ」
と言うと
「今度はうまく作るね」
と約束してくれた。
居間に戻ると奴が寝酒の用意をしていた。
「お前が夏生まれなんて思いもしなかったな。どうせお前のことだ、暑い夏に汗疹だらけになって泣き喚いて、母親の睡眠時間をたんまり奪っていたんだろう」
と憎まれ口を叩くのに
「あいにくだが、俺の生まれた所は寒冷の地でね。夏生まれが一番楽だと言われている。俺は男の割に丈夫だったし、よく寝てよく食べる、本当に手がかからない子だったらしいぜ」
と返す。
「お前の赤ん坊時代なんて、想像できないな。大体頬のこけてないお前が想像できない」
と笑いながらソファを詰める奴の横に座り、酒を一口含む。
俺の持ってきた酒、早速開けてくれたんだ。
しばらく俺が赤ん坊の時どんなに愛らしかったかを力説させられたが、一段落つくと二人無言で酒をすする。
静かで、でも一人きりの虚しさのないこんなひと時を一瞬でも持てるようになったなんて、夢ではないだろうか。
左にいる相手の顔は俺には死角だけれど、きっと穏やかな顔をしている。
こうして腰に手をやると、自然に俺にもたれかかってくるからわかる。
肩にかかる頭の重み。
本当は逆位置なら顔を盗み見られるのだが、俺の右にいる時にはここまで素直に力を抜けないのだから、仕方ない。
時々戯れに髪をすいて、軽くキスして、笑いかけて、目をそらす様を楽しむ。
又肩を抱いて寄りかからせて。
そうしていくうちにだんだん同じタイミングで目が合うようになる。
同じタイミングで顔が引かれ、キスできるようになる。
その内酒なんてそっちのけで舌を合わせるようになり。
「部屋を変えよう」
と立った時の奴の頬が染まっていたのは、酒のせいではないはずだ。
「誕生日だから、何か奉仕してやろうか」
と言われたが、辞退した。
それは今度俺の家に来た時にゆっくりお願いさせてもらうことにする。
誕生日はみんなが貴方をお祝いする日だけど、貴方もみんなに感謝する日なのよ。
母がそう言っていた意味が、今はわかる。
祝ってもらえるって、なんてすばらしいことなんだろう。
俺がもう1年、年を重ねることを、誰かが喜んでくれるなんて。
裸になって奴を抱きしめただけで、俺の準備は整っていた。
居間でのんびりしているうちに奴の気持ちも昂ぶっていたらしく、その身体の準備も驚くほど簡単に整った。
ローションをぬりこめる間にも、入ってこいというように身体が艶めく。
この、不干渉で不感症の男がこうして俺を待っている。
それこそが、俺にとって一番のプレゼント。
勝手にキリコを夏生まれにしてしまってすみません。
又BJのお母さんを料理下手にしてしまいました。
客観的には欠点があっても、子どもにとっては本当にすばらしい、最高のお母さんだったらいいなという願望です。