桜 ― BJ
オペが終わり、招かれた病院の庭に咲く桜を見たら何となくあいつのことを思い出したので、寄ってみることにした。
どこかの金持ち爺さんからもらったというあいつの屋敷には、かなり立派な桜の木がある。
と言っても、まだ花の咲いているところを見たことはない。
桜の季節なんてほんの束の間だし、花見に興味はなく、俺にとっては酔っ払いが増える時期、という程度の認識しかなかったからだ。
ただ去年、初めて蕾を見た。
「へえ、桜なのか。知らなかった。そういえばあまり庭のことを考えたことがなかったな」
と言った男は手入れのされてない庭をまるで初めて見るもののように見回し、それからの1年、俺達はことあるごとに庭に出ては小さな発見を繰り返した。
雑草に埋もれながら、可憐に咲いていた小さな白い花。
群生していた黄色の花。
この間咲いていた花は次に来た時には跡形もなく、だが他のどこかで別の花が咲いていた。
きっと往時にはかなり凝った庭だったのだろう。
奴はいないかもしれないが、それなら1人で愛でればいい。
「お前さんの桜を見たぞ」
と言えば次に会った時の話の接ぎ穂になるだろう。
チャイムを鳴らすが、奴は出てこなかった。
やはり留守か。
桜だけでも愛でていこうと振り向いて、目をむく。
桜の下に、奴の死体が。
思わず駆け寄りそっと頬に触れると、冷たい。
いや、冷えているだけだ。
ただの昼寝に決まっている。
「キリコ起きろ」
と思い切り頬を叩き、そのまま脈を計ろうと手首を掴むと、何かをわめきながら死体が飛びあがった。
うわあゾンビ。
じゃない、生きていた。
「驚いて死ぬかと思った。お前さんか」
と言う男の頭をもう一度はたきたいのをぐっとこらえ
「お前こそ、何しているんだ。身体が冷え切っているじゃないか」
と言うと
「自宅で何しても、俺の勝手だと思うがな。道の桜を掃いてここに撒いたら積もったから、ちょっと寝転んでいただけだ」
と言いつつ座り込み
「あたた、花弁って結構冷えるな。身体が固まってしまった」
と身体をはたいている。
背中だけじゃない、体中花弁まみれだ。
こんなに花弁が落ちてくるまで、いったい何時間昼寝していたんだ。
「何やっているんだ。花弁の褥なんて、ずいぶん少女趣味な話だな。枯れ葉ならともかく、結構水分残っているんだから」
と背中をはたいてやりながら
「たぶんシミになるぞ」
と言っても
「あーあ、すっかり痛んでしまったな」
とぼやきながら、つぶれて色あせ、ひとかたまりになった花弁をもてあそぶばかりで、こちらを見向きもしない。
まだ寝ぼけているのだろうか。
それとも何かあったのか。
「寒いだろう。とっとと風呂にでも入ってあったまらないと風邪引くぞ」
と腕を引っ張ってやろうとしたが、乱暴に手を払い
「それより何の用だ。特別な用がないなら、今日は」
引き取ってくれ、と続けそうな男の前に手提げ袋を出し
「もちろん花見に来たんだ。日本の風物詩だからな。
庭に桜の木がある家は今の時期、宴に開放しないといけないの、もちろん日本通のお前さんなら知っているだろう?
愛でてやらないとせっかくの桜に失礼だから、こうしてお神酒も持ってきた。
去年はお互い忙しかったから、今年はきちんと行ってやろうと思ってわざわざ来てやったんだ」
と無理やり奴に持たせてしまう。
「え?」
と戸惑う男に
「さあさあ、風呂がいらないなら上着がいるな。敷物はあるか? ビニールシートでも、新聞紙でもいい。
酒はあるけど、グラスがないから借りるぞ。皿はつまみの蓋でいいな。家の鍵はどこだ。貸してくれ」
と畳み掛ける。
鍵はかけてないというので、勝手に奴の家に入って湯呑と新聞紙、それに上着を抱えて庭に戻る。
桜の下に申し訳程度の新聞紙を敷き、駅前で調達しておいた惣菜と酒を出したら、それなりに花見らしくなった。
「ほら」
と上着を着せたら、湯呑み酒。
尻の下は新聞紙を敷いただけだし、つまみは少々わびしいが、飲めば少しは温まるだろう。
何があったか知らないが、何かがあったに違いない。
仕事のことなら踏み込めないが、それでも今、男を一人にしたくはなかった。
俺が来なかったら、何日でも桜の下に転がっていそうなこいつを。
時々塀の向こうから
「どこの桜かしら」
「きれいね」
という声がする。
花弁が道まで飛んでいるのだろう。
それを愛でているのは、俺達だけ。
少し寒いが、贅沢なことだ。
花見もなかなか悪くないな。
1升瓶を抱え込んで己のペースを保ちつつ、奴の湯飲みが軽くなるたび継ぎ足し継ぎ足しを繰り返すうち、酒に強いキリコの顔が桜色に染まってきた。
「西行だっけ。桜の下にて春死なん そのもちつきのきさらぎの頃っていうのは」
とつぶやく男に
「桜じゃなくて、花だろう。花の下にて春死なん。ま、その花って桜のことらしいけどな。ついでに、如月のもちづきのころ、だったと思うぞ」
と返すと
「きさらぎってなんだ? なんで餅をつくんだ?」
と聞いてくる。
如月か。
「如月って2月のことだ。もちづきってのは食べる餅じゃなくて、満月のことを望月っていう。日本が昔使っていた暦をなおすと今頃で、確か、仏教の教祖の釈迦が死んだ日だ。
西行ってやつは旅の僧だったらしい。
ある時歌合せっていう和歌の競技会みたいなところでこの歌を詠んだんだが、その時、この歌はほかの奴と引き分けだった。
死ぬんだったらこんな桜の下で、春がいい。お釈迦様と同じ日にね、って言うのがあまりにストレートじゃないかってな。
けど10年以上たってそいつが死んだ日がこの歌に詠まれた日近かったんで有名になったらしい。
まあ偶然の一致だろうけど、当時は仏教が盛んだったからな」
と俺が言うと、奴め、びっくりした顔をして
「正直、先生が文系のことをこんなにご存知とは思わなかったよ」
と言う。
「失礼だな」
と言いつつ、俺もこの歌に如月という言葉がなかったら覚えていなかったろうと思う。
若かりし頃、彼女につながるものはなんとなく調べたりしたものだ。
今の常識で考えるととんだストーカーに思えるかもしれないが、当時の俺には『如月』って字面だけでも光り輝いていたんだよ!
ああ、恥ずかしい。
「ふうん、桜が仏教にまでつながっていたとは知らなかった。本当に日本人には桜が根付いているんだな」
と奴が言うので
「ま、インドには桜なんてないだろうけどな」
と返しながら奴を見ると、またぼんやり桜を見ている。
やっぱり何かがあったのだろう。
大体桜の下で寝ているのも変だった。
「仕事か?」
と聞くと、ひどく肩をびくつかせた。
「別に取って食おうってんじゃない。言いたくなければ言わないがいいさ」
と突き放して湯飲みをすする。
「いや。桜のことを話す依頼人に会ったものだから、日本人の考えを聞きたくなっただけさ。
しかし、桜の時期は個人の家も開放しなければいけないとは知らなかったな。今度からこの時期は門を開放しておいた方がいいんだろうか」
と顎に手をやるので
「それは嘘だ」
とばらしてやる。
目をむく男に
「このご時世に、そんな不用心なことするなよ。確かにこんな見事な枝垂れ桜を見せてやったら喜ぶ奴も多いだろうが、撮った写真をネットに出して、所在まで書かれたりすると面倒だからな。写真好きな奴は桜だけじゃなく、建物にだって興味津々のはずなんだから」
とくぎを刺してから
「俺が花見をしたくて言った。ここなら飲んで羽目を外しても、後ろから刺される心配もなさそうだから」
と言いつつ酒を含むと
「お前さんは本当に…」
と男は大きくため息をついた。
日が傾くと、風が出てきた。
「そろそろ花見は十分じゃないか?」
と聞いても
「もうちょっとだけ」
と首を振るので、俺だけ中に入って風呂を沸かすことにする。
出来た風呂に勝手に入り、首までつかる。
依頼人、か。
奴宛の依頼と言ったら、1つしかない。
俺に話したからには、もう終わったことに違いない。
いつ、どんな奴がどんなふうにあいつに桜を話したのだろう。
あんなにぼんやりさせるなんて。
本当は、桜はあまり好きじゃない。
桜は孤独と結びつくから。
母が死んだ後、病院のリハビリ室の窓から見る桜には色がなかった。
卒業式、入学式、親子して盛装して桜の下で記念写真を撮って、なんてのを見るのが苦痛でならなかった。
大学に入ると、ゼミの行事に花見があった。
人恋しいから誘われれば行く。
だがその頃には人との接し方がわからなくて、結局一人で酒を飲み、解散と同時に場を後にして、やはり行かなければよかった、と後悔してばかりだった。
今年こそ好きになるかと思ったのにな。
さっきの光景を思い出す。
あいつが死んでいなくてよかった。
そうだったら俺はもう、この時期外に出るのがたまらなく嫌になったろう。
日本は桜だらけで、特に病院には必ず桜の木があるに決まっている。
風呂から上がり、バスタオルで体を拭きながら着替えを迷い、奴のパンツだけ借りてあとはさっきの服を着込んだ。
今日はソファで寝よう。
アルコール度の高い酒をなにか1杯ひっかけて、そのまま転寝した風を装えばいい。
そうすれば奴のベッドで一緒に寝ない言い訳になる。
きっと俺はあいつにとってお邪魔虫だろう。
そう思ったのに、ソファには先客が寝ていた。
「お前さん、さっき言ったことを忘れたのか。変な所で寝るな。ベッド行け」
とたたき起こして肩を貸す。
俺のせいとは言え、かなり酒臭い。
細く見えるがこの男、背がある分重いのだ。
奴の部屋でベッドに投げ出し、首と肩を回していたら、酒ゾンビに背後を取られた。
発酵酒ってのはなぜこうも臭うのだろう。
体内から日本酒の匂いを漂わせた男との接吻は、歯を磨いた後の俺にはつらい。
普段と違い、冷たく湿った手が服の中に入ってきて、まさぐられる。
その無遠慮さが知らない人間のようで、怖気が立つ。
よせ、いやだと体をひねっても俺の弱点を知り尽くした手が快感をあおり、いつの間にか服ははだけ、心とは裏腹に体の準備が整っていく。
押さえつけられているわけでもないのに、なぜ抵抗ができないのかわからない。
こんなに気持ち悪いのに。
強姦の時だって隙あらば反撃を狙うだけの気概があったのに、ジェルを出そうと奴の気がそれた時すら逃げることができなかった。
これがほだされるってことなんだろうか。
でも、今日はだめだ。
過去のあれこれがフラッシュバックしてきた。
多分しばらくトラウマになるな。
まあ、それも仕方ないか。
広げた足を抱えられ、熱いものがあらぬ所に入ろうとぐりぐり動くのを感じ、来るべき衝撃に備えて目をつぶっていたが、敵はいつになっても潜り込んでこなかった。
用心深く片目を開け、もう一方も開く。
情けない顔の男が
「だめだ、起たない」
と言った。
飲みすぎだ。
急に動くようになった手が、男の側頭部をぽかりと叩いた。
しばらく男をからかってから、服を整えて2人して布団にもぐりこんだ。
離れようとする男を引っ張り、抱き枕のように胸に抱え込む。
やはり酒臭いが、いい感じに鼻がばかになってきた。
「寝ゲロするなよ」
とくぎを刺して白髪の増えてきた髪の毛をなでていると、しばらくもぞもぞ動いていた男は
「悪かった」
とつぶやいた。
頭が重くなり、寝付いたのだと知る。
言いたいことも聞きたいこともあったはずだが、どうでもよくなっていた。
今こいつを包んでいるのは桜でも安楽死の仕事でもなく、この俺だ。
ほんの一時のことだとしても。
夢の中で奴に
「西行のあれ、辞世じゃないからな。理想を歌っただけで、お前さんみたいに死にたがりじゃない」
と力説していたので、昼近くまで寝ていたのに寝足りない気がした。
『桜』を書き始めた時点から、時間があったら裏に続こうと思っていましたが、正直こういう方向に進むつもりではなかった。
耽美はどこに行った。
先生がつまみに食ってしまったか…