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オーリカの夜

 

 

苦しそうな吐息が途切れた。

隣の男がもぞもぞ動いて、手がさまよう。

男の手は俺の腕を見つけるとひたりとつき、大きくため息が聞こえると、また規則正しい呼吸が始まった。

手のひらでなく、甲をそっと沿わせるだけの、ささやかな接触。

普段の不遜な態度がうそのように、無意識のしぐさは驚くほど慎ましいこいつ。

俺が悪夢を見たときにはしっかりと俺を抱きしめるくせに、己はそれで満足するのか。

 

男の道の険しさを改めて実感したのはモロッコだった。

マラケシュからアトラス山を目指す道。

昼間でもほとんど人通りのない道を走らせていた俺は、サーチライトの先に横転する車を見た。

事故かな。

こんなに交通量の少ない場所でも、事故はある。

きちんと閉まらない窓からきな臭い匂いを感じ、もしかしたら新しい事故かもしれないと思う。

念のため降りてみようかとアクセルを緩めた時に視界の隅に動くものが見え、それが明かりの中に滑り落ちてきた。

あわててブレーキを踏む。

事故にあったけが人かと飛び出し、その格好に驚倒した。

大きくめくれたコートのすそから長々と伸びた素足。

 

凍死をもくろまれたのか、靴下すら履いていないということは、こいつをひっくり返したら見たくない光景にぶち当たるんだろうな。

どう見てもこの足は女じゃないしな。

「おい」

と肩を軽くゆするが、どうやらそいつは最後の力を使い果たしてしまったらしく、ピクリともしない。

コートのすそを直しつつゆっくり仰向けにし、呼吸を確かめ、脈を計ろうとして冷たさに驚く。

これは早く温めないと。

その時の俺はまだそれが誰だか気づいてなかった。

男を担いで後部座席に乗せ、車内の小さな明かりに髪の一部が白く反射したのに疑問を持ち、まじまじと顔を見てびっくり仰天、思わず揺り起こそうとして、やめた。

男を担ぐ時にした異臭。

もしそれが俺の思ったとおりのものなら、今は寝かせたままがいい。

確か近くの村に知り合いの家があったはずだ。

夜道を飛ばす。

 

寝静まった家を申し訳なく思いつつドアを叩き、主人に行き倒れを見つけたとだけ言って治療のための部屋を融通してもらう。

たった3間しかない部屋の1つを占領するのは申し訳ないが、事情が事情だ。

湯をたくさんとあるだけのぼろ布を用意してもらい、人払いしてコートをめくる。

ある程度想像してはいたが、何と言うことだ。

土まみれ、傷だらけのその体には陵辱のあとがくっきり残っていた。

 

深呼吸して、事務的に手を動かしていく。

どうやら傷は表面だけらしいが、内診時におびただしい量の跡が出てきたところを見ると複数の犯行だろう。

ま、この先生、腕っ節は強そうだから11じゃ撃退しそうだけど。

殴られた痕が方々にあるから、きっと抵抗した挙句、相手を怒らせたんだろう。

このあたりの強盗は、物を盗っても手荒なことはしないのが普通なんだから。

 

手当ての途中で目を覚ますのではないかと思ったが、案に反して意識を戻す気配はなかった。

低体温状態も続いている。

手足をしばらくマッサージしてやっても、上がる気配はない。

布団を足してやっても、逆に重みで血行が悪くなりそうだった。

奴の医療鞄に何か入っていないかと主人に頼んで事故現場に探しに行ってもらったが、ナイフで切られた中身はぶちまけられ、踏みにじられていたらしい。

輸液でもあれば、ずいぶん楽になるだろうに。

 

結局原始的な方法で温めた。

つまり、俺が人間湯たんぽになったってことだ。

もちろんパンツは穿いたままだったよ。

あいつにも俺の替えを穿かせた。

急に目が覚めたら俺が変態みたいだからな。

そんな心配、要らなかったけど。

 

目が覚めた時ショックが強くないように、布団に潜って後ろから抱きこむ。

体に手を回し足を絡めた時、自分の足が余るのにびっくりしたのを覚えている。

確かに並ぶと俺のほうが背が大きいと頭では知っていたが、人を圧倒する存在感があったので、こんなに背の差があるとは思っていなかった。

 

俺も23時間仮眠を取り、目覚めると腕の中の体も温まっていた。

急ぐ旅だったので、主人に幾ばくかの金を渡してそのまま発った。

その後は時間のロスが気になり、奴の事を考える暇はなかった。

ようやく思い出したのは、帰り道。

 

きっと傷ついているんだろうな。

俺だったら、と思うとそれだけで胸糞が悪くなる。

単に強盗に遭っただけでも最悪なのに、慰み者にまでされて、俺ならショックでそのままぼんやり凍死してしまったかもしれない。

あんな、車もめったに通らない荒地。

俺だって本来ならもっと早い時間に通り過ぎていたはずで。

 

そうしたらあいつはもうこの世にいなかったのか。

不意に背中がうそ寒くなった。

こんな偶然なら、あってもいい。

病院での鉢合わせはごめんだけど。

 

件の家に寄ってもう少し礼金を払おうと思ったのは、今回の客から余計に礼金をいただいたからってだけじゃない。

あの時渡した分だけで十分だとはわかっていたし、男のあの後が気になったのだ。

プライドの強そうなあの手の男は、こんな仕打ちにぺしゃんこになりはしないだろうか。

 

そんな心配は、ただの杞憂だった。

主人に話しかけたその瞬間、奥のカーテンが開き、奴が飛び出してきて

「仕事帰りだと」

とすごんだ。

まだいたのか!? と驚く。

体の傷はそれほどでもなかったはずだ。

本当に心の傷が深くて出立できずにいたのだろうか。

そうは言っても俺を見つけて飛び出すくらいには元気になってきたのだから、タフな奴だ。

俺ならとてもこんな風にすぐ顔を合わせる事などできはしない。

 

その態度が妙に苛立たしくて、マラケシュへのタクシーに同乗させてもらった。

聞くところによると、奴は意識を戻してすぐマラケシュに帰り、今日は元気な姿を見せに来ただけらしい。

頑丈な男だ。

こいつにとって、男に姦されるくらい、なんでもないのか。

痛痒も感じないのか。

 

男の強さが憎らしかったのかもしれない。

昔、パキスタンで己がさらした醜態と比べて、この男はどうだ。

どこまで強く、完璧なんだ。

弱さなんてどこにもないのか、それなら今までの意趣返しに少しくらいあてこすってやろうか、と。

 

だが、タクシーに乗ってしばらくして、そうではないと気が付いた。

体の横で硬く握ったこぶし。

普段なら俺の仕事を根掘り葉掘り聞きただすのに、あの一言のほかは話題にもしない。

いや、そもそも会話もない。

試しにカーブでよろけて見せると、ほんの少し体が触れただけで過剰反応した。

やせ我慢なのだ。

 

そのとき、思った。

この男は、以前にも似たような目に遭った事があるんじゃないかと。

強姦じゃないにしても、不名誉なこと、苦しいこと、逃げ出せないことをたくさん経験しているから、ここで踏ん張って見せているだけなんじゃないか。

 

平静を保っているように見せながら、緊張した目。

緊張した体。

今のこいつにとっては、俺といるこの空間こそが修羅場なのだ。

 

あの時、タクシーから降り、ホテルを探しながらも奴のことばかりを考えていた。

傲岸不遜に見えるあの男は、その陰でどれだけ傷ついているのだろう、と。

その時が初めてだったかもしれない。

男のことをもっと知りたいと思ったのは。

単なる商売敵でなく、腐れ縁でなく、絡んでくる男としてでなく、男、それ自身を知りたいと思ったのは。

 

腕に感じる、不安定な接触。

そういう雰囲気の時にはそれなりに甘えられるようになってきたが、そうでない時にはこんなにつつましくて。

こちらから指を絡めて手を握ると、男の目がはっと開いた。

握った手を口元にもって行き、唇で触れると暗闇でもわかるほど表情が変化する。

 

「起こしちまったか?

二人だけだというのに、かすれた、押し殺した声。

「ちょうど目が覚めていてね。かわいいことする手にくらっと来たな」

唇を当てたまま話すと手を引き抜こうとするので、そうはさせじと体毎引っ張る。

寝ていたせいではない、火照った頬をもう片方の手で探り、ざらつく硬いそれをなでる。

もう、ほんの少しひげが生え始めてちくちくする、決して若者ではない頬だ。

けど、すべらかな頬や、歳を取れば失せるまやかしに未練はない。

 

「何だよ」

「寒いんだよ。お前さんは体温が高いから気持ちいいんだ」

「だからって、何でそんな、とこ」

「そんなとこって、どこのことだ?」

「この…ばか」

「どこだって聞いてるんだよ。ここ? それともこっち?」

「……」

「…言わないとわからないぞ。爪立てるな。俺は優しくしてるだろう?」

ふざけて触れ合っているうち男の体温がぐんと上がり、それに釣られるように俺の体温も上がってきた。

寒さを理由に布団から出ずにいるので、じんわり汗ばむ。

明日は布団を干さないと湿って気持ち悪いだろう。

久々の邂逅に絞りつくしたはずのものは、たった数時間休息しただけなのに準備万端だと主張している。

お互い、そんな歳じゃないのにこんな時には若造に戻る。

失われた青春時代の代わりに。

 

ぎゅうぎゅう抱きついてくる男に負けずに抱き返しながら、普段もこの10分の1のかわいげがあればな、と埒もつかないことを思った。

 

 

「旅文章」『マラケシュにて』では言及しなかった、あの晩の思い出。