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ネパールの休日 2回目

 

 

俺はネパールのカトマンドゥにいた。

思ったより患者の予後がよく、予約を取っておいた帰国便よリずっと早くに解放されそうだ。

早ければ明日にでも。

そんな昼下がリ、懷から携帯を出し、画面を開いてみる。

 

この携帯は、俺のではない。

キリコからの借リ物だ。

「使ってみたら便利さがわかるかもしれないから」

と、奴が持ってきたのだ。

中には自宅と、キリコの携帯番号が入っていた。

ほとんどの国で使えるし、乾電池で充電もできるから、としっかり充電器まで渡された。

 

仕事でも何でも使っていいぞ、と言われたが、煩わしいのが嫌で今回の患者にも番号を教えていない。

どうせほとんど患者のそばか、ホテルで寝ているか。

ホテルには電話があるのだ。

これ以上の拘束感を味わいたくない。

 

一応ピノコに番号は教えてあるが、もうほとんどかかってこない。

最初の内はよくかけてきたようだが、つながらないのだ。

病院にいる間は電源を切るし、そのまま入れ忘れていることが多いので、俺に連絡するならホテルの人間に言付けておく方が確実だと悟ったらしい。

ピノコに連絡する時、国際電話屋に行かずに済むのはあリがたいが、それだけのもの。

 

そんな携帯で奴に連絡を取ろうと思ったのは何故だろう。

さっき見たラフティングのポスターのせいかも知れない。

昔、まだこんな関係ではなかった頃、ひょんなことから一緒に乗った。

その時のことをふと思い出したせいだ。

 

急に電話したのでキリコは驚いたようだが.

「ラフティングのポスターを見たらお前さんを水に引っ張り込んだことを思い出してね」

と言うと

「そういえばあの時は斬新なファッションだったな」

とくすくす笑われた。

奴は今、偶然近くの国にいるのだという。

仕事か、と思うが、あえては踏み込まない。

 

俺の手を試してみたいなら、こいつから言うはずだ。

心の奥底で憤る声に、そう言い返す。

 

「もしこっちに合流できるなら、又行ってみないか」

と無理を承知で誘ってみると

「ニ日後ならそっちに着けると思う。俺の分も予約しておいてくれ」

と快諾された。

驚くと

「お前さんからのデー卜のお誘いだ。断るわけ、ないだろう」

と言われ、絶句してしまう。

いや、俺はそんなつもリはこれっぽっちも。

これっぽっちならあったかな。

 

落ち合う日時を打ち合わせ、ツアーデスクに向かう。

二人分のラフティングとチ卜ワン公園ツアー。

バウチャーをもらって患者のところに戻り、いつもの診察をしていたら

「先生、今日はご機嫌ですね」

と言われ、少々あせる。

「機嫌が良さそうに見えるかね」

と聞いたら、そばにいた彼女の母親にまでうなずかれた。

「君の経過がいいからだよ」

と言っておいたが、俺、そんなに顔に出ているのだろうか。

トイレに行った折りに鏡をのぞいたが、普段の仏頂面がいるだけだ。

 

前日の夜、荷物を用意していると携帯が鳴った。

「悪い、明日の出発に間に合いそうにない」

という言葉にやはりな、と思う。

俺たちのような商売では、確約など出来ない。

仕方ない。

「もともと一人でも行く予定だったから、いいさ」

と言って切る。

電話があっただけ、ましなのだ。 俺だったら患者の急変にでもあったら、たぶん携帯の事なんかすっかリ忘れて3日ぐらい待ちぼうけ させてしまうだろう。

そう、電話があるだけまし、だ。

 

翌日6時起床。

6時半にホテルの人間がドアをノックし、パス停まで送ってくれた。

バスが来るまで一緒に待っていると言うので、お茶を一杯おごる。

お茶と言っても、自販機でも、店でもない。

道端で椅子いくつかと、火鉢の上に置かれたミルクティー入りの鍋一つで商売している、あれだ。

注文すると、バス停まで持ってきてくれるのがありがたい。

 

熱いミルクティーで指先を焼きながら

「こんな所までついてきてくれるなんて、サービスが良くなったな」

と言うと、

「こういう商売も競争が激しいですからね。お客さんの感想や苦情なんかを聞いていろいろ進化しているんですよ」

とはにかんだように笑われた。

彼のような使い走りの10代の少年にとっては余計に仕事が増えるだけだろうに、こんなふうに笑えるのはいいな、と思う。

バスの席は前から2番目だったので、振動も少なく快適だった。

10時半、ラフティングポイント着。

今回はイタリア人の男と日本人2人組が一緒だ。

それに船に乗るガイドが2人、車出しが1人。

 

奴の分まで楽しんでやろうという目論見は果たせなかった。

何なんだ、このパーティは。

日本人2人組は

「疲れた」

「だるい」

と言いっぱなし。

ラフティングは、つまりゴムボート漕ぎだ。

どう考えても疲れるのを楽しむものだと思うのだが、何のつもりできたのだろう。

 

彼らは本来2日いるはずだったらしいが

「もういやだ」

とごねてタ食後チ卜ワンに行ってしまった。

 

イタリア人はどうやら一夜のアバンチュールを期待していたらしい。

なんとこの俺を口説きだした。

最初から妙になれなれしく触る奴だったが、気のせいだろうと思っていたのだが、着替えの時に俺の背中の傷をなぞりながら

「うん、いい体だ。楽しい夜になりそうだな」

と言われ、反射的に手が出てしまう。

だが結構な強さで殴ってしまったというのに、頬をさすりながら

「活きがいいな」

とうれしそうにつぶやかれて鳥肌が立つ。

 

ガイドに

「俺は1人で眠りたい」

と申し出て、かなった時は嬉しかった。

今日は人数が少ないので、テン卜に余裕があるのだという。

あリがたい。

イタリア人は

「膝枕してくれ」

 だの

「奇麗な瞳だね」

だのとうるさかったが、完全に無視していたら若いガイドにちょっかいを出し始めた。

だが年配のガイドがぴったりと寄り添っているから大文夫だろう。

 

夜、眠れずに携帯を取り出す。

ふたを開けると明るい画面。

初期設定の変なベンギンが踊っている。

アドレス帳に入った2つの番号は、見なくても空で覚えている。

どちらにも掛けないけれど。

 

ピノコに電話するには遅いし、奴はきっと出ない。

そして俺は奴がどんな相手に仕事をするのかと気をもむに決まっている。

外に出て星空でも眺めようとしたが、あいにく厚い雲が垂れ込めていた。

あきらめて中に入り、懐中電灯を取り出してしばらく本を読みながら眠ってしまう。

 

異変を感じたのは、その1時間後。

異様な気配に目ざめると、テントが倒れるところだった。

必死で天井を支えつつ荷物をまとめようとするが、片手でも離そうものなら倒れてしまう。

入り口のわずかな隙間を通して激しい雨と風の音がする。

このどちらかでも弱まってくれるといいのたが。

10分以上そのままがんばっていたが、突風に煽られた瞬間、テントはぺしゃんこ。

一瞬でつぶれてしまった。

 

手探りでそこらの物をシェラフの中に隠すのが精一杯だった。

テン卜の外に出るために入リロのファスナーを開けようとするが、何かが挟まったのかびくともしない。

すぐに酸欠になることもないだろうが、このまま鉄砲水でも来たら泳ぐことも出来ない。

困ったなと思っていると、ガイドが外から救出してくれた。

「荷物も一緒に」

と言われ、手近のかばんを持ち出す。

それ以外は、無理だ。

 

ゴムボー卜の下に逃げ込み、びしょびしょの衣類を脱いで、着替えを出す。

そこにはボー卜とオールを斜めに立てた三角の空間が出来ておリ、とリあえず雨風はしのげた。

ガイドのテントもイタリア人のテン卜も壊れ、こちらに避難してきたのだという。

「あなたのだけそのままだったので、何故大丈夫なのだろうと話していたんです」

と感心されてしまったが、こっちは身動き取れなかったのだ。

ガイドが貸してくれたシェラフの下は濡れた砂だが、文句は言えない。

彼は自分の分を貸してくれたのだから。

シェラフにもぐりこんだ時に砂も入れてしまったようであちこち痛かったが、これよりひどい夜をすごしたことなど何度もある。

 

ノープロブレム。

 

イタリア人は

「ドラマチックな夜だねえ。俺と君にとって忘れられない夜だよ」

とのたまう元気があった。

さすが、ラテン。

 

かばんにもたれてうとうとしていると、足がぐっしょリ濡れていた。

風向きが変わったらしい。

そのまま起きて、夜の明ける様を見ていた。

雨雲の端の方がだんだん明るくなっていく。

それにつれて、雨と風が弱くなる。

ある程度まで明るくなると、急に光が増していく。

だがミルク色のもやのせいで、それ以上輪郭がはっきりしない。

見ている内に、眠気が差す。

気がつくと、すっかり朝になっていた。

テン卜は平らにつぶれている。

 

支柱を起こしてのぞいてみると、もうどこから手をつければいいか。

ロールペーパーはあきらめた。

今日着るつもりで枕元に置いておいた着替えはぐっしょり。

シェラフもぐっしより。

中に入れたはずの本は倍の厚さに膨らんでいる。

 

そして携帯は、ふたを開けてもいつものペンギンが出てこなかった。

 

でもこんな目に遭わせる事になるなら、奴が来なくてよかったのだ。

携帯電話を壊してしまって悪かったが、それだけひどい嵐だったと言えばあいつのことだ、怒リはしないだろう。

どうせ俺は携帯なんていらないし。

ガイドに

「ゴミかあったら燃やしますよ」

と言われ、ぶよぶよのロールペーパーと本を差し出す。

携帯は燃えないから、とかばんの奥深くに入れようと思ったが、思い直して内ポケットにしまう。

あの時もこんな風に持ち出せば、壊れなかったんだろうか。

 

バケツに川の水を汲んで砂混じりの服をすすぎ、ボー卜に貼り付けて干す。

シェラフは川に入ってざぶざぶ洗い。

絞って干すのはイタリア人が手伝ってくれた。

こいつ、べたべたしてこなければ悪い奴じゃない。

 

ちょっとましな気分で今日の追加メンバーを待つ。

だが、今日のメンバーは昨日に輪をかけた輩だと気づくのに時間はかからなかった。

今回のメンバーはアメリカ人カップル2組と日本人カップル。

それにイタリア人と俺だ。

午前中はまだ良かった。

ゴムボー卜を漕ぐだけだったから。

アメリカ人は俺が前の方に座ろうとすると

「俺たちのほうが、力があるぜ」

とせせら笑い、前方を占領してしまったが、そんなのよくあることだ。

「つぎはぎ人形」

と言われるのにも慣れている。

けれど。

 

昼になると、先行したガイドが岸辺でポテトサラダを作り、トーストを焼いてくれていた。

それをアメリカ人達は

「サラダに缶詰を入れるな! 缶詰まで食べられなくなるだろうが! 食パンは焼いていない奴を俺が袋から直接出して食うから触るな!」

とガイドをばい菌呼ばわりだ。

食後のチャイ(ミルクティー)など誰も手をつけず、コーラばかりをがぶ飲みする。

夜もせっかくガイドがカレーを作ってくれたというのに、俺以外の奴らはほとんど手を出さずにクラッカーとコーラとビールばかりを要求している。

日本人カップルも最初は食べていたのに、白人のやることとなるとなんでも真似するのか。

ほとんど残してクラッカーをもそもそ食べている。

イタリア人も然り。

 

そういえば、こいつ昨日も

「辛いものはだめだから」

とカレーを食べずに自前のビスケットを食べていたっけ。

ガイドブックにこういう場所の食べ物は非衛生とでも書いてあるのだろうか。

そりゃあ洗い物は川の水を使っているが、調理用には水道水のポリタンクを持参しているし、カレーなんてきちんと熱が通る調理法なのに。

 

そんなクラッカーよりこのカレーの方が数倍うまいじゃないかと言っても、簿笑いをするばかり。

なんて奴らだ。

サービスを受ける立場なら、踏ん反リかえってどんな傲慢な王様になってもいいと思っているのだろうか。

そんなに「清潔」なものが食べたいならもっと高いツアーを選べ。

この十倍の値段を出せば調理から全てミネラルウォーターを使ってくれるし、それどころかホテルに寝泊リするものもあると言うぞ。

俺はそんなラフティング、ごめんたが。

 

しょんぼリしている料理ガイドを悲しませたくなくておかわりを繰り返していたら、車の音がした。

そういえばさっさからガイドの数が足りない。

まさかと思うが、買出しにでも行かされていたのだろうか。

そんなこと、する必要なんかまったくないぞ。

飲み物なんか、ガイドの作ってくれたこのチャイ(ミルクティー)が一番じゃないか。

勢いよく金属のカップを持ち上げて

「あち」

なんて言っていたら、聞き覚えのある声が

「タ食はまだ残っているかい」

と言った。

 

キリコ。

 

「驚いたか?」

と聞かれ

「ああ」

と答えると

「悪いな。携帯にかけたんだが、つながらなかった。圏外なのかな」

と言われ、残骸になった携帯を出す。

「悪い、壊れた」

と昨日のことを話すと

「1日早く来ればよかった」

と、じっと見つめられた。

「お前が来ても何とかなったわけじゃあるまいよ」

と憎まれ口をたたきながらも、正直嬉しい。

 

「合流は明日の朝にしろって言われたんだが、チップを弾んでわがまま言っちまった」

と言いながらカレーを受け取ったキリコは1ロ食べると

「こういう所じゃやっぱリカレーが一番だな」

と料理ガイドに笑いかけた。

場の雰囲気が変わる。

俺がいくら食べても悲しそうにしていたガイドたちが元気にしゃべり始めた。

この変化は、こいつが西洋人だからだろうか。

それともこいつは俺みたいに黙りこくっていないから、こんなふうに打ち解けられるのだろうか。

俺が同じ事を言ってもきっとわざとらしく響くだけだろうに。

 

食事を終えたキリコが俺に向かって目で笑う。

俺の隣に座れるように席を少しずらしたら、イタリア人が寄ってきた。

俺のところに来るとなれなれしく俺の両肩に手を乗せ

「ダーリン、俺と言うものがありながら他の男に色目を使うなよ」

と顔を近づけてくる。

「やめろ」

と殺気を声に込めても、酔っ払いには通用しないのか。

それどころか

「お、こっちの兄さんもいいなあ。どっちでもいいから、一夜のアバンチュールを楽しまないかい。 仲良く3人でもいいよ。心配しないでも両方かわいがってあげる。大丈夫、俺、精力だけは有り余っているから」

とキリコにまで手を出そうとする。

 

こいつ。

その気色悪い手にメスを突き刺してやろうか。

と懐に手をやった上をやんわリキリコの手が押さえた。

「悪いが俺たちお互いに売約済みでね」

と身体を引かれ、奴の腕に収まってしまう。

 

お前は公衆の面前で何をしているのだ。

とあきれて抗議しようとしたが、目で制され、黙る。

イタリア男は

「わざとらしい事言うなよ」

とか

「嘘だろう」

と言っていたが、しばらくすると方向転換して

「同好の士ならなおさらだ。俺も混ぜてくれよ」

としつこい。

たがキリコも平然と

「悪いが蜜月でね。どうせなら他のカッブルを探してくれ」

とか

「こっちも何年越しもの付き合いがやっと形になったところで、他人は眼中に無いんだ」 、

などと讓らない。

奴のノリに押されて、俺も

「あっちの日本人カップルの方が好奇心旺盛そうだ。あんたの相談に乗るかもしれんぞ」

と言って何とか撃退に成功した。

 

ふう、とため息をついたところでいまだに奴に抱きかかえられたままなのに気がつき、横に座りなおす。

思い返せば俺は公衆の面前で何ということを言ったのだ。

今頃になって憤死しそうになっているのに目ざとく気づいたキリコが

「お前さん、そんなに気にすることは無いぞ。どう見ても今のは性質の悪い男に絡まれてでたらめを通したようにしか聞こえないから」

とニヤニヤ笑う。

 

確かにそうかもしれない。

だが俺だけはこいつの言ったことが嘘八百ではないことを知っているのだ。

それがたまらなく恥ずかしい。

照れ隱しにこいつの首をぎゅうぎゅう締め上げてから巴投げでもお見舞いしたい気持ちだが、それをやったら余計に目立つ。

むっつりと黙っていたら、ガイドが新しいチャイを2つ持ってきてくれた。

俺たちに渡しながら

「大変でしたね。でもああいう手合いはこっちが怒れば怒るほど性質悪く付きまといますから、あんなふうに煙にまくのが一番ですよ。こちらもあなた方はカップルだからと1つテントにしますから、心配しないで下さい」

とにっこリする。

 

ガイドが行ったあと

「とりあえず肩を抱くくらいは芝居と見てもらえるよな」

と肩に手を回された。

急展開に目が回りそうだ。

けれど、確かに今はチャンスだ。

俺達は本来屋外でこんなこと、出来ないんだから。

 

別に今までしたいと思ったこともなかったが、今なら公然と微笑みかけても、手を握っていても

「大変だな」

と同情されこそすれ、仲を疑われることもないだろう。

そんなこと、したいとも思わないが。

でも。

せっかくだから、ちょっとだけ。

 

力を抜いて、奴の肩に頭を乗せてみた。

回された腕の力が心持ち増し、それと共に体のこわばりが解けるのがわかる。

目の前の薪の勢いが弱まっていくのを、無言のまま見ていた。

時々パチッと大きくはぜる木。

ぱっと散る火花。

周りに人がいるはずなのに、すべてが雑音として耳を素通りしていく。

 

ガイドに

「火の始末をしていいですか」

と聞かれ、はっとしてうなずく。

気づくとあたりは静まり返っていた。

タ日は完全に沈み、でもまだ星はよく見えない。

普段ならタ食を食べているような時間だが、各自の懷中電灯しかないこんな場所ではもう寝る時間なのだ。

アメリカ人達はキャンプファィアーを要求したりもしたが、まだ風か強いと断られるとぶつぶつ言いながらカップルごとにテントに入った。

イタリア人は日本人カップルのテントにうまくもぐりこんたらしく、気づけばあちこちから不穏な気配がする。

そんな中、ガイドはいつの間にか小さくなっていた火に水をかけると、ゴムボート近くのテン卜に入っていった。

 

眠ってしまうのが惜しくて、でも仕方なく立ち上がる。

本当はこいつと同じテントで寝たくない。

年甲斐もなく理性をなくしていろいろしてしまいたくなる。

近くのテントがゆさゆさ揺れているのがわかる。

それを浅ましいと思いつつも、そんな風にあけすけに行動できることをうらやましくも思う。

 

俺の視線に気付いたか

「俺たちも励むか?」

と奴がいたずらっぽく聞いてきたが

「冗談だろう」

と言うと

「まあそういうと思ったがね」

と笑う。

もう一押ししてくれればうなずいてもいいのに、奴は

「じゃあ清く寝ましょうか」

と俺の髪をかき上げ、ふざけてひとつキスするとテン卜に向かってしまう。

確かにそのほうが好都合なんだけど。

本当にこいつ、淡白だ。

 

男の寝息が規則的になるのを、息を殺して聞いていた。

その後もなかなか眠れず、周囲が寝静まってから寝袋を這い出す。

さっきはあまリ見えなかった星が、降るようだ。

川は黒々と流れている。

昨日の嵐のせいで心なしか量が多いが、昨日の様な恐ろしさはない。

 

少々歩いて大岩の陰で小用を済ませ、そのままさっきの焚き火のそばの丸太に座って空を見上げていると、どこかのテン卜が開いた気配がした。

俺たちのテン卜ではない。

「やあ、1人かい」

と出てきたのは、あのイタリア人だ。

「ちょっと出たら、あまり星がすごいんでな」

と言うと

「本当だ。昨日は星なんて見えなかったもんなあ」

と苦笑する気配がする。

確かにそうだった。

「天気は浮気な女みたいだ。そう思わないかい」

というたとえがこの男らしいな、と思って聞いていると俺たちのテン卜が開いた。

俺たちに気付くと

「ようブラック・ジャック、道に迷ったかと思ったぞ」

とキリコが近づいてくる。

「ちぇ、もうだんなのお出迎えかい。残念だな。本当に3人で楽しみたくないかい」

とからかう男を見て、奴はむっとしたようだった。

 

「こういう時くらい、羽目をはずすもんだぜ。普段出来ないことをしてみろよ」

と言いつつさっきとは別のテントに入って行く男。

俺は傍からでもわかるほど欲求不満が外に出ているのだろうか。

俺の横に座って

「何だ、あいつまたお前さんに付きまとっていたのか」

というキリコに

「そんなのじゃないさ」

と返しながらもあたりが暗くてよかったと思う。

 

たとえば過去に強姦された時の写真やビデオをばら撒くぞ、と脅されても俺はご勝手に、と背を向けられるだろう。

そりゃあそんなものばら撒かれないに越したことはないが、もしばら撒かれたとしてもそれがどうした、というほどのことでしかない。

キリコやピノコに見られるのはごめんだと思うが、もし見たとしてもどちらもそれだけで俺から去るとは思っていない。

あきれたことに、もっとひどい様を何度も見せ付けているのだから。

その位、怖いもののない俺なのに、こいつに今の感精がばれるのは怖い。

 

たくましいこの腕も、繊細なこの手も、そういう時には熱っぽくなるこの目も、驚くほど色めく表情も、ほかの誰にも見せたくないと思う。

なかなか会えないからこそ一時だけでも独占したいのに、3人でなんてもってのほかだ。

なのに手を握りたいのに握れない、とか、くっつきたいのにくっつけない、なんてうじうじしていること、知られてたまるか。

そんな不安定な自分を見せるくらいなら、まだ大股開きの強姦写真の方が何ぼかマシだと思ってしまう。

 

「それとも、もしかして俺はお邪魔をしちゃったのかな」

という意味が掴めず横を向くと同時に後頭部を鷲掴みされ、暗闇が増した。

奴の顔が近づいたせいで星が見えなくなったのだ、と気づいた時には濃厚なキスの真っ最中。

激しい舌の動きに同調しようと努力している間にシャツの裾から奴の手が忍び込んできて、脇の弱いところをくすぐっていく。

思わず抜けた鼻声が静かな河原に響いた気がして、身をすくめる。

わあ、俺たぶん今、すごく気持ち悪い。

昼間言われた「つぎはぎ人形」という言葉を、唐突に思い出す。

普段のように密室の中ならともかく、ここでほかの奴見られたら、こいつまで悪食扱いされてしまう。

 

ズボンの上から俺の股間をなで上げる手に思わず腰がうごめいてしまい、奴が笑う気配がした。

そのまま忍びこもうとする手首を渾身の力でもぎはがす。

「こんなにしているのに、どうして?」

と耳元でささやかれ、余計に動かしにくくなった股間を何とかおとなしくさせようとしながら、奴をどかそうと試みる。

誰かに見られたときにダメージが大きいのは、キリコ、絶対にお前の方だぞ。

俺みたいなのを相手にしているんだ、少しは周りに気をつけないと。

 

俺を煽ろうとばかりしていた手が、急に消えた。

のしかかっていた身体も退く。

急に広がる、満天の星。

「やっぱリ俺は来なかった方がよかったか」

という声が他人行儀に硬くて、驚いた。

まるで以前のような声。

「そこらを散歩してくる」

と言って立ち上がった奴の背を見ながら何とか身体を落ち着かせ、遅れを取り返すために走る。

 

もう目が慣れて、物の輪郭ははっきりとわかる。

あいつの輪郭も。

なのにあいつの前に回っても顔の表情はわからない。

たった1つの瞳に星の光が反射するだけ。

「どこ行くんだ」

と聞いても無言のまま行こうとする男の腕を引く。

やっと立ち止まった男は、だが

「お前こそ、先にテントに戻っていろよ。ちょっと気を紛らわしたら、戻るから」

と言ってきかない。

「何なら、他のテントでもいいんだぜ」

と言われて、腹の底がすうっと冷える。

「何だ、まるで嫉妬でもしているようじゃないか」

という俺の声が、我ながら冷たい。

男が身じろぐ気配がした。

 

しばらくして

「俺が嫉妬しちゃおかしいか」

というキリコの声がした。

いつもの嫌味ったらしい仕事がらみの声でもなく、2人きりの時の声とも遠う、戸惑ったような、青臭い男の声。

「すごくおかしい。びっくりだ」

という俺の声も、戸惑いを隠しきれなかった。

なんとなく目を合わせられなくなり、川を見る。

しぶきだけが白く光る、黒い川。

 

しばらくして

「俺だって独占欲くらいあるさ」

とおどけた声で言う男に

「へえ、死神のだんなにしては枯れてないじゃないか」

といつもの調子を取り戻してからかうと

「無防備なお前さんが視界に入ると、俺はこんな風になっちまうんだよ」

と腰に手を回され、身体を引かれた。

体の中心に硬くて熱いものを感じ、喜びと安堵を覚える。

こんな風になるのは俺だけじゃない。

同時に俺の事情もばれてしまい

「これ、何だ」

とそっとなでられ、奴の腕につかまる。

「何だ、これ。言ってみろよ」

とわざと緩やかに煽る手が憎たらしくて、無言のまま奴のズボンに手を入れた。

「何でさっきは嫌がったの」

と聞かれても、そんなの言える訳が無い。

軽く耳をかじられて我慢できなくなり、外から触るだけの奴の手首を取り、肌着の中に引き入れた。

 

吐息を押し隠す為に奴の首筋にロを当て、口寂しさに甘咬みを繰り返す。

「明日服が脱げなくなるだろう」

と言われ、不満たらたらで顔を上げると待っていたかのように顔が迫ってきた。

深いキスを繰り返しながら手を動かす。

後頭部がじんと痺れて限界が迫リ、すがる方の手に力を込めて知らせると口付けが解かれ、それまで力強く支えてくれていた背中の腕も消えた。

ふらつくまいと踏ん張っている内に男の背が縮み、気づくと俺は男の肩に手を置いてその口中に己を包まれていた。

 

長かったのか、短かったのかもわからない。

男はティッシユに吐き出して

「濃いな」

と笑った。

それから

「お前さんも続きをしてくれるかい」

と言うので

「ロでいいのか」

と聞くと

「何だ、積極的だな」

とまたからかわれた。

 

場所が悪いのでロで、と言われて先ぼどの奴の動きを出来るだけ真似る。

すぐにあごがだるくなったので途中から手も積極的に使って。

こいつの持ち物が下品なのがいけない。

俺みたいにもうちょっと上品な大きさならロだけで奉仕してやれるのに。

えずきそうになリながらも途中でロを放した時の惨状を考えて我慢していると、口元にティッシュを当てられた。

遠慮なく吐き出しながら

「お前の方こそ濃いじゃないか」

と憎まれ口を叩くと

「当たり前だ。ネパールに向かう途中もずっとお前さんのことばかり考えてきたんだから。それなのにお前さんは俺とはろくに話さないくせに、真夜中にあんな男と楽しそうに話しているし」

とため息をつく。

驚いて

「本当に嫉妬していたのか」

と聞くと

「そうじゃなければ何なんだ」

と不機嫌そうに返された。

 

真っ暗聞でよかった。

俺は多分その瞬間に顔に火が回ったはずだから。

思わず手のひらを当てて頬を冷ましていると、その上から手を当てられて

「火照っているな」

とばれてしまう。

「俺だって嫉妬もするさ。こんな厄介なものを引きずリ出した詫びはきっっちり後日支払ってもらうからな」

と指を突きつけられ、次の瞬間抱きしめられた。

俺もぎゅっと抱きかえす。

名残惜しい気もしたが、テン卜に戻って寝袋に入ると心地よい眠気に襲われた。

 

翌日、キリコは顔を洗った後もタオルを首に巻き続けていた。

余リ似合わないので

「土方のおっさんみたいだぞ」

と忠告してやると

「お前さんがいたたまれないかなと思ったんだが、いいのか」

とタオルをずらされる。

そこには俺の歯形やキスマークがぎっしりついていた。

うわ、いたたまれない。

「どうせ水を浴びるんだし、その格好も合理的でなかなかいいかもしれないな」

と言いながらトイレッ卜ペーパーを借りて用足しに逃げる。

皆起きてきたようなので少々遠出をしたら、昨晩の俺たちの宴の後のティッシュが散らばっていたのであわてて拾う。

ぎゃー、いたたまれない。

ゴミは焚き火で燃やすことになっているので火にくべたら、心なしか妙なにおいがしたような気が。

い、いたたまれない…

 

けれど、その後のラフティングは最高だった。

今日は人数が増えたからとボート2艘に分かれ、アメリカ人と日本人カップルグループで1艘、俺とキリコ、イタリア人と、今日来たドイツ人で1艘だ。

「青っ白いのばっかりそろったようだが、オールは漕げるのか? バスタブじゃないんだぞ」

と笑うアメリカ人マッチョ達に、俺たちの即席の結束は高まった。

「俺達がフロントでいいか」

と聞くと、休憩時間の後は交代するという条件でOKとなる。

 

なかなかに起伏のあるコースを、飛ぶように走った。

「お前が号令をかけろ」

と言われ、俺のペースでオールを漕いだが、俺の横も後ろも、ぴったりペースを合わせてくる。

舵を取るガイドが目を丸くして

「本当に4人漕ぎかい?」

と叫ぶほど、俺達は岩や障害物をうまく避けつつスピードに乗った。

 

流れが緩やかになると、周りの他のツアーのボー卜にぶつかりに行ったり、ぶつけられたり。

オールでの水かけっこが気持ちいい。

何度かの追いかけっこの末、隣の男がバランスを崩し、俺に捉まる。

踏ん張れずに2人で落ちたら、水中でキスされた。

すぐに水面に出たのでほんの一瞬だったが、確信犯的に笑われて睨むことしかできない。

ボートに上がると後ろのイタリア人が

「あんた、今日は昨日までよリかわいいな。何かいいこと、あったのか?」

とスケベたらしく笑うので、よろけた振りして突き飛ばしてやった。

 

ラフティングは今日で終わり。

イタリア人は最後の根性で俺たちの頬にキスした後、地に沈んだ。

それでも満足そうだったのは、敵ながら天晴。

 

チ卜ワンへのバスの中、腿のあたりを何かがノックするので目を覚ます。

キリコの小指だ。

こっちを見もしないくせに、キリコの小指だけが何かを要求している。

気まぐれに手をずらして、俺の小指を絡めてみた。

立っている人もいないし、このくらい、気づかれないだろう。

奴の表情は髪に隠れてわからないが、少し口角が上がったのがわかった。

 

チトワンのバンガローは個室だったが、特別何もしなかった。

つまりは、そういうことをだ。

隣のバンガローが近かったし、壁も薄く、何よリエアコンがないので窓が開けっ放しだったからだ。

大体、トイレもシャワーも共同なので、とてもそんなことをする気にはなれない。

 

この動物保護区には以前にも来ていて、プログラムもその時と一緒だった。

朝のバードウォッチングと、午前のウォーキングサファリと、午後の象サファリ。

だから目新しいものなど何もない。

ただの前回の繰り返し。

サファリ以外の時間も一緒。

一緒のテーブルで食事して、サファリの後疲れたら個室で1人になって、夜も1人。

みんな一緒なのに、何で前回とこんなに違うのだろう。

 

楽しいのだ。

力ヌーの乗リ降リのときに、手を貸しあう。

遠くに動物を見つけて

「ほら、あそこ」

と顔を寄せて同じ場所を見る。

水のぬかるんだところで、下に注意しながら相手の手を引く。

高い草をかき分けながら、すぐ一歩後をついてくる気配を感じる。

前回当たり前にしていたことが、いちいち楽しい。

象サファリだって今回も尻しか見られなかったのに、たた並んで座れるだけで満足なのだ。

後ろ向きの俺たちの手が重なっていても、誰も気に留めないのだから。

 

また前回の店で変なカクテルを一杯飲み、長い帰り道を歩いた。

誰もいない道、人差し指と中指だけを、ゆるく繋いで。

普段よリゆっくリ歩いたはずなのに、気がつくと宿の屋根が見えていた。

名残惜しく、指を離す。

 

あの時のあのカップルも、こんな風に楽しかったんだろうか。

俺たちと同じものを見ているようで、まったく別の風景を見ていたのだろうか。

 

そのまま荷物を詰めて、力卜マンドゥへ戻った。

「宿近くまで送りましようか」

という運転手に、キリコが

「〇〇ホテルで降ろしてくれ」

と言った。

王宮近くの、かなりいいホテルの名だ。

もうすぐ、別れるのか。

せめて夕飯位、一緒に食べたかったな。

誘ってみたいが、用があるだろうか。

そう思っているうちにドアが開き

「ほら、降りるぞ」

とせきたてられた。

 

キリコはツインの部屋を取った。

ツインと言ってもこの地方の中級以上のホテルではダブルベッドが2つ入っている。

大柄な外国人が利用するからだろう。

案内役のボーイの後について水周りのチェックをする。

 

ボーイがドアを閉めた途端、どちらともなく抱き合った。

そのままベッドに倒れ込み、散々お互いの服を乱してからはっとして

「風呂だ、風呂」

と叫ぶ。

この部屋はせっかくお湯が出て、しかもバスタブつきなのだ。

チトワンのシャワーはお湯と言っても申し訳ほどの温かさだったし、石鹸も使えなかった。

今の俺たちは石鹸も泡立たないほど汚れているに決まっている。

奴はちょっと呆れた顔をしたが、すぐに

「一緒に入るぞ」

とさっさと湯を溜めに行った。

 

お互いの体をごしごしこすり、髮を洗いあって、最後に栓を抜きながら仕上げのシャワーを浴びた頃には2人とも腹につくほどになっていたのに、そんなこと無視して体を拭いた。

そのままベッドまで移動し、着いたとたん、ケダモノになった。

 

ホテルの壁は厚い。

その安心感から、2人ともあられもない声を出した。

一応下にパスタオルを重ねて敷いたのに、それだけじゃ収まらないくらい、どろどろになった。

あんなに心が満たされていたのに、心の次は体の充足だ、と全身が訴えているようだった。

満足したと思っても、しばらくするとまたどちらともなく手を伸ばす。

ベたべたの体をこすリ合わせながら

「風呂の意味がないな」

と笑う男。

気がつくとルームサービスの時間も終わっていたが、そんなこと構わなかった。

今は、食欲など二の次だ。

 

日本に戻ってしばらくして、キリコが新しい携帯を持ってやってきた。

今度は防水のものになっていた。

「掛けないぞ」

と言っても

「ご自由に」

と渡されたので、画面を見た後、大切に内ポケットにしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成20年8月発行。

表のネパールの休日を、くっついた後の2人がもう一度体験したらどうなるのかな、と書いた話でした。

ネパールラフティングは2回行っているので丁度いいかな、と。

表の話同様、実際にあったことがかなり混ざっていますが、妄想や創作もかなり入っています。

中年2人の初々しいデートを目指しましたが、甘酸っぱいというより単に酸っぱい話になりました…