雷
その日は製品を納入したから小金があった。
だから雨が降ってくると、迷わず安酒場に入って雨宿りとしゃれ込んだんだ。
ちょっと飲んでいればこんな雨、止んでしまうと思った。
なのに雨は止むどころかどんどんひどくなりやがる。
さらには雷まで鳴り出す始末だ。
ぐずぐずしているうちにとうとう閉店の時間になり、仕方なく濡れ鼠さ。
といってもそれまでに結構飲んでいたから、雨なんか気持ちいいくらいだった。
どうせ家に帰っても寝るだけだ。
ちょうどシャツは洗わないといけない時期だったし、なら濡れたって構いやしない。
そんな気分は、うちの近くで思い切りすっ転ぶまでの間だったけれど。
道に何かが落ちていたんだ。
こんな道に何が、と思い切り蹴り飛ばして、その感触に怖気が立った。
ぐにゃっとした嫌な感触。
狐とか犬の死体か、いや、この大きさは。
町の明かりの届かない、しかも雨のこんな日には何も見えやしない。
恐る恐る手を伸ばしてみると、やっぱりそいつは毛皮をまとっちゃいなかった。
雨にぐっしょり濡れているから、生きているか死んでいるかもわからない。
かすかなうめき声さえしなければ。
捨て置け、と思った。
このごろはここら辺でも難民が増えた。
路上の死体なんて見飽きている。
途中で死んじまったら騒ぎの元だし、生きていたとしても面倒が増えるだけだ。
それなのにそいつを肩に担いだのは、一発蹴りを入れた引け目だったんだろうか。
いや、そんなことくらいで厄介事を受け入れるような俺じゃない。
単なる気まぐれ。
それとも稲光の一瞬に見た姿が目に焼きついてしまったせいか。
家に入るとすぐにある作業場の床に古い毛布を敷いて、男を横たえた。
明かりの下で見ると、まだ若い。
首筋に手をやると、弱いながらもまだ脈があった。
タオルで拭きつつ手早く脱がせていくと、痩せた体に暴行の跡がある。
ごろつきにでもやられたか、物取りにでも遭ったのか。
左目に眼帯。
傷病兵なのかもしれない。
男の体は冷え切っていた。
乾いたタオルでこすってもまったく温まらないので、仕方なく俺のベッドに運ぶ。
俺の家に風呂などないし、ストーブなんて気の利いたもんもない。
不毛だが、温めるには人肌しかないのだ、この家は。
布団に包まってぐんにゃりした男を抱き、体をこする。
一瞬さっきの場所に捨て直せば、と思ったけれど、わざわざ引き返すのも面倒だ。
朝になると、男は逆に高熱にうなされるようになった。
とてもじゃないけど仕事に集中できず、つい何度も様子を伺ってしまう。
うちに薬なんかない。
冷やしてやるくらいしか、できることもないのに。
時々奇麗な布切れを水に浸して口元で絞ってやると、わずかながらも喉が動く。
それだけを確認して、また作業に戻る。
夜、そそくさと食事を済ませてベッドに入った。
俺は日が暮れればよほどのことがない限り、すぐに寝ちまう。
明かりだって只ではないんだ。
それなのに今日は男の様子が気になって、ごく細くだがランプをつけたままにしている。
夜中、男がうめく声に目を覚ました。
あんまり苦しそうなので体をゆすったら、目をかっと見開いた瞬間、腕を振り回しての絶叫だ。
その声があまりにも大きくて度肝を抜かれたけれど、何とか取り押さえる。
うちが野中の1軒屋でよかった。
でなけりゃ俺がこいつをいたぶっていると思われただろう。
恐ろしい絶叫は始まった時と同じく唐突に消えた。
暴れるのもやめて静かに眠る男に脱力してしまう。
とんだ荷厄介だ。
そう思いながらも放り出さなかったのは、1人暮らしに倦んでいたからかもしれない。
その気ままさに満足していたはずなのに、今は変化が欲しかった。
それとも無意識に体の不調を感じていたんだろうか。
ぐっすり寝たはずなのに、体が重い。
腹の奥に硬い塊を感じる。
頑丈だけがとりえだった俺だ。
今までにそんなこと、一度もなかった。
年のせいだ、と目をそらせてきたけれど。
男は2、3日の間、ちょっと目を開けてもぼんやりしたまま、また眠ってしまうという繰り返しだった。
まさかと思うが元からこういう奴なのか。
そんな心配を始めた頃に、本格的に目を覚ます。
といっても体力が落ちきっているから、粥を作ってもスプーンを持つのもおぼつかない。
仕方なく椀を持ってスプーンを口に放り込んでやると
「熱っ」
と小さな声がした。
へえ、こんな声なんだ。
それが面白くて
「熱くないぞ」
といいながらどんどん口に入れてやった。
キリコ、とだけ名乗った男を俺は放っておいた。
こんなご時勢、訳ありの奴ばかりだ。
下手に深入りするつもりはない。
逃亡者なら勝手に出て行くだろうと思ったけれど、こいつはお尋ね者ではなさそうだった。
挙措にがさついたところがないから、ルンペンでもなさそうだ。
発音が美しいから、俺のような肉体労働者じゃなくて「学のある」部類の人間なのかもしれない。
しばらくしたら身の振り方でも考えるだろう、という俺の目論見は外れた。
一仕事をしてさて昼飯にするか、とキリコを振り向くと、朝と同じままの形で壁をにらんでいたり、ぼうっと自分の手を見続けたりしているだけなのだ。
腹が減ったら動くかと思ったが、業を煮やして
「食え!」
と目の前に突き出しでもしない限り、食いもしない。
まるで魂の抜けた人形だ。
そうでなければ真昼間からぶつぶつ言ったり、急にわめいて暴れたりした。
ヤク中も疑ったが腕はきれいなもんだったし、裸にしたときに何も持っていなかったのは確認済みだ。
きっと戦争のせいなんだろう。
最初は羽交い絞めにしたりもしたが、だんだん面倒になった。
当身を食らわせて、ベッドの隣に置いた古い布団に転がしておく。
しばらくして目を覚ますと憑き物は落ちている。
何日かそんな男をもてあました後、ふと思いついて仕事の手伝いをさせてみた。
勿論こんな体力の落ちきった奴にたいしたことができるわけはない。
やすりがけとか、そんなもの。
それでもやり方を見せれば素直に従い、それなりに手を動かす。
何かさせたほうが意識がはっきりするようだったし、俺もそんなにいらいらせずに済む。
その日も暴れたので当て身1発で気絶させた。
いつもみたいに部屋の隅に転がしておこうとぐったりした身体を足でつついたら、ぼさぼさになった髪の中から白いうなじが見えた。
確かにずっと女としてなかった。
けれどいい加減体力の落ちていた俺にはそんな衝動、しばらくぶりのことだった。
大体、俺は女より酒の人間だ。
若い頃はともかく、もう枯れたくらいに思っていたのに。
男の髪の毛をかき分けて、うなじを出した。
その髪の毛の心地よさ。
こいつの面は生気がなくて嫌になるが、髪の毛だけは別だ。
この色が気になって拾ったようなものなんだから。
あの時稲光の中、青白い炎のように見えたんだ。
シャツのボタンを外し始めた時に男がうめき声を立てたから、俺は現実に戻った。
そのまま手を放し
「正気に戻ったか」
と声をかけて離れる。
危なかった。
こいつは女じゃないんだから。
そう思ったのに、その夜は男の寝返りを打つ音がやけに耳についた。
こいつの不眠はいつものことだ。
気にしないで眠ればいい。
こいつがうなされた時だけ起きればいいんだ。
いつもそうやって寝ていたのに、俺は起き上がって声をかけた。
そんなことをしたのは昼間の光景がまぶたの裏に残っていたせいなのか。
眠れないのか。
寝かせてやろうか。
キリコは俺の言葉に首をかしげた。
何しろ薬なんて何もない家なのだ。
睡眠薬なんて大層なもの、あるわけない。
そんな風にいぶかしんでいるのが手に取るようにわかった。
ベッドを降りて痩せた体にのしかかり、首筋を甘咬みした。
男は反射的に暴れたけど、しばらくすると俺の気が変わらないことがわかったんだろう。
体から力が抜けた。
賢明な判断じゃあるが、俺としては物足りない。
反応が無いくらいなら、暴れられた方がいい。
人形を相手にするなんて、森で木の股にこすりつけるようなものだ。
そんな無意味でつまらないことはしたくないから、こっちから強引に男の性を目覚めさせていく。
中途半端に煽り立てながら、体をまさぐった。
吐息が荒くなり、胸がせわしなく上下する。
その上に乗った小さな男の突起をしつこい位にいじり続けた。
されるがままだった男が混乱して、ひそかな声を漏らす。
その声の間隔が狭まるにつれて何か言葉を出させたくなり、さらにいたぶる。
抵抗はすぐにあきらめたくせに男はなかなか強情だった。
業を煮やしてうつぶせにして、煽り続けながら準備を施す。
している間は不調を忘れた。
背筋に沿って甘咬みするとびくびく収縮するのが面白くて、はめながら何度も咬むことを繰り返した。
翌日は久々にすっきり目覚めた。
あいつは足腰が立たないかとも思ったけれど、一応いつもの時間に起こすとだるそうに伸びをした。
そして俺を見た途端に飛び起きたから、そのまま仕事を言いつける。
男は必死でいつもの生活をしようとしていた。
無気力一辺倒じゃない、そんな態度は新鮮だった。
つらいんだろう、時々手が止まる。
そうすると昨日の事を思い出させるために、わざと肩に手を置いたり背中を撫でたりした。
その度にびくつきながらも俺がそれ以上しないとわかると、息をついて手を動かす。
時間が経つにつれ限界が近づいてきたのか、手の止まる回数が増えた。
それでも
「今寝るとまた夜中に眠れなくなるぞ。そんなに俺に寝かせて欲しいか」
と言うとはじかれた様に動き出す。
そんな風に日中散々気を張ったから疲れたのか。
明かりを消すとすぐに聞こえた寝息にほくそ笑む。
木偶じゃないこいつはいい。
もっと構い倒したくなる。
それからしばらくはうなされることもなく落ち着いていたのに、数日後、男はまた暴れた。
その拍子にしばらく大事に作ってきた木彫りが壊れた。
後ちょっとで仕上げられたのだ。
得意先からの特注品で、なかなかよく出来たと思っていたのに。
その瞬間、頭にかっと血が上った。
そんなに罰が欲しいか。
ならくれてやる。
そんなことをわめきながら何発殴ったか。
気がつくと男はぐったりと伸びていた。
殴ったばかりだっていうのに、もうあっちこっち腫れてきている。
体を辿って骨折してないことを確認しながら、涙が出そうになった。
腫れあがった顔に濡らしたタオルを置き、目が覚めるのを待つ。
こいつが戦争中に安楽死をしていたことは、今までの切れ切れの言葉から知っていた。
そのことへの良心の呵責に耐え切れずこんな風に暴れてしまうだけなんだ。
俺はそれを裁けるだけのお奇麗な人間なのか。
彼の秘かに上下する胸の動きを見ながら、俺は昔の後悔を思い出していた。
確かに俺は人を殺したことはない。
けれど家に帰るとアル中の親父に殴られるだけだったから、その鬱憤を外で晴らした。
人より力の強かった俺は、有り余った力で暴れまくった。
それだけじゃなく何度も人の心を踏みつけにした。
自分より弱い奴を探してはいじめていたんだ。
自分が一番惨めだと思いたくないばっかりに。
死んだ親方に
「お前、馬鹿力の癖に器用だな」
と拾われるまで、俺はどうしようもない屑だった。
俺はそれを皆腹の隅に放り込んでいた。
人なんて誰でも多かれ少なかれそんなもんさ、と嘯いて。
ああ、親方。
俺は過ちを償おうなんてこと、一度も思ったことがなかった。
良心の呵責なんて、感じたこともなかったんだ。
あの時親方に拾ってもらったから独り立ちできたのに、あんたに恩返しすらしなかった。
ああ、神様。
俺はこいつになんてことしたんだ。
こいつは自分で自分を罰しているんだ。
俺が追い討ちをかけていいわけが無い。
俺は初めて本気で神様に懺悔した。
見ると、目の前の男が目を開けていた。
暗い目、呆けた口、そのまま奈落に落ちていきそうな風情。
恐ろしくなった。
こいつをこの世に繋ぎ止めたい。
みんな罪を持っているんだ。
お前だけじゃない。
生まれたての赤ん坊だって、生きているだけで人を苦しめる。
でも自分を罰しても仕方ないんだ。
それが生きるってことなんだから。
昔、僻みといじけの塊だった俺に、親方はその技術を教えてくれた。
それだけじゃなく、俺も必要なんだと教えてくれた。
今はそう見えなくても、いつか誰かの必要になるんだと。
俺はずっと、それを信じちゃいなかった。
でももしかして、今がその時なんだろうか。
それまでの俺ならケッとつばを吐いて蹴飛ばすような気持ちだ。
けれど、すとんと腹に収まったその気持ちはなくならなかった。
俺は短気だからそれからもそいつを殴ったし、むらむらすると夜這いをかけもした。
でも、どんなに食い物がなくなっても、又ひとりの生活に戻るなんて考えたくもなかった。
誰かの為に何かができるって、なんて気持ちいいんだろう。
こいつの口数が増え、ちらほらと顔が緩むようになるにつれて、俺は今までにない幸せを感じるようになった。
これが充足って奴なんだろうか。
俺が倒れた後、それまで言われたことしか出来なかった男が俺の世話を焼き始めた。
重い俺の体を起こして塗れタオルでぬぐい、着替えの途中で診察する。
腹に手を当てた時、こいつの顔色が変わったのがわかった。
やっぱり医者だったんだな。
しばらく前から出来たしこりが大きくなっていることは、俺も行水の度に気づいていたんだ。
医者なんか、ごめんだった。
俺は思い通り生きていく自由に慣れていた。
病院の消毒薬の匂いの中に入ったら、俺なんて塩をかけられたナメクジのようになってしまう。
大体薬一つ買う余裕なんてない。
体が弱るにつれて仕事の量が減ってしまい、このごろはワインを買う余裕すら無かったのだ。
俺のような貧乏人は、仕事ができなくなったら野垂れ死にするしかないと決まっている。
それなのに、こいつは俺に泣いてすがるんだ。
検査だけでも目玉の飛び出る金が要るって言うのに、話はつけてあると言って聞かない。
俺の治療の代わりに病院でただ働きしているって言うんだぜ。
たいしたものも食わせず働きずくめで、女の代わりまでさせたのに。
そこまでしてくれるというなら、本当にしてもらいたいことが別にあった。
どんな治療も手遅れだと俺は知っていた。
尋常な痛みじゃないんだ。
わかるんだよ。
お前だって、それはわかっているんだろう?
それにこの町の病院はあこぎな経営で有名だった。
俺の治療が長引いたら、それだけこいつの自由がなくなる。
手術なんてしたら、何年こき使われることか。
そんなこと、絶対にさせたくなかった。
別の意味で茨の道かもしれないけれど。
親方、俺はあんたの言葉をずっと信じていなかった。
でもあんたはやっぱり嘘つきじゃなかった。
神様、俺はあんたをずっと信じていなかった。
けれど、今はあんたに感謝する。
あの時あのタイミングで雨を降らせ、稲妻を光らせてくれたことに。
お前の道の先に祝福があるように。
俺の最初で最後の祈りの時にお前の温かい手があることに、感謝。
100000HIT記念リクエストは「『過去の男』の男自体について」でした。
BJが出てこなくてすみません。
BJを絡めるためのアイディアもいただいていたのですが、今回はこんな形にさせていただきました。
キョーコ様、リクエストをありがとうございました。
書いているうちにどんどん話が妙な方向に行ってしまいましたが、感想などいただけますと嬉しいです。