過去の男

 

 

患者のオペが終わり、後は経過を確かめるだけの退屈な時間をどうしようかと歩いていた時、見覚えのある顔を見かけた。

キリコだ。

すぐに声をかけようとしたのだが、かけそびれたのは奴が花束を持っていたから。

もう一方の手に持っている紙袋の口からはワインが何本か覗いている。

眼帯の側しか顔が見えなかったから表情はわからないが、仕事の時のような歩き方ではない。

どこに行くのだろう。

俺はそのまま奴の後をつけていた。

 

女だろうか、それとも患者関係の誰かにだろうか。

特別嫉妬する気はないのだが、何となく声がかけられず、少し距離をとって歩く。

いつの間にか人通りがなくなって、どこに行くんだろうと思い始めた頃、急に視界が広がった。

 

ここは町外れの、墓地。

 

墓標を見ながら歩き、雑草の生い茂った墓の前で立ち止まった奴に、さすがにどうしようかと入り口付近に立ち止まっていたら

「どうせならこっちに来て草むしりを手伝え」

と声をかけられた。

いつから気がついていたんだろう。

俺のほうを向いた顔は特別不快そうでもないようなので、ゆっくり近づく。

 

それはどちらかというと粗末な墓だった。

生い茂った草の中に真四角な石が置かれ、そこに小さくかすれた名前が彫られている。

「ここは?」

と聞くと

「俺の恩人の墓だ。

やっとここに来られるだけ落ち着いた、と報告しに来たんだ。

前にこの町に来た時には、急な用事でどうしても時間が捻出できなかったから。」

と言う。

「恩人?」

とたずねると

「ああ、この人がいなかったら俺はのたれ死んでいた。

俺が戦場以外で最初に安楽死した人でもある。

ついでに初めての男だから、忘れようにも忘れられない男って所か。

お前、人を尾行るなよ。

用があるなら声をかけろ。失礼だぞ」

と軽く睨まれた。

お前こそわかっているなら振り向けよ、と軽口を叩きたかったが、あいにく内容の方に気を取られてしまい、間抜けな沈黙を続けるしかなかった。

 

上着を脱ぎつつ

「来たからにはお前も労働しろ」

と言うのにうなずいてコートと上着を脱ぎ、端に置く。

しばらくは無言で雑草を抜き続ける。

暑い日で、髪をじりじりと日が焼き、汗がたれてくる。

それを手の甲で時々ぬぐいながら、ただ目の前の草を抜く。

響くのはぶちっぶちっという草を抜く音だけ。

時々草の根に絡まってミミズがのたくり出て来、大急ぎで土の中に再度潜ろうとする。

遠くで小鳥の声がする。

無心になるには最高の条件なのに、初めての男、忘れられない男、という言葉が頭の中でがんがん鳴っている。

俺、嫉妬する気なんかない、と思っていたのに。

 

しばらくして奴が顔を上げ

「そろそろいいか」

と伸びをした。

つられるように立ち上がると、腰がぼきぼきと派手な音を立てる。

「これは年寄につき合わせて悪いことをしたな」

と皮肉られた。

「お前こそ顔が土まみれだ」

と反論したが

「お前だって、汚れた手で汗をぬぐっただろ」

と又笑われた。

 

墓地の入り口にあった水道で手と顔を洗い、改めて墓に戻る。

奴はワインの栓を抜き

「冷えてないけど、いいよな」

と言いつつ墓石にどぼどぼと半分くらいかけた。

石にかかっていた汚れが落ち、うっすらワイン色になる。

そのまま瓶に口をつけてラッパ飲みし

「どうだ」

と俺に差し出した。

のどが渇いていたので、ごくごく飲む。

 

そんなにいい酒じゃない。

普段の食事で飲むような、ごく安い奴。

もしかして、墓の中の人とよく飲んでいた物だろうか。

奴は紙袋から棒パンを出すと携帯ナイフで切れ目を入れ、紙袋から取り出したパテと、ちょっとぬぐって縦に半分に割っただけのキューリを1本分詰め込んだ。

それを真ん中で半分に切って

「腹、減ったろ」

と渡される。

日本のキューりよりかなり太いので、大口を開けてかぶりつく。

こういう食べ方って結構うまいものだ。

 

もう1本出てきたワインの瓶を行き来させながらしばらくもくもくと口を動かし、パンがなくなったところで

「さて」

と奴がおもむろに花束を持った。

墓石の上に置き、その前にしゃがんでかなり長いこと黙祷している。

俺はその背を見続けることしかできなかった。

 

しばらくして奴が立ち上がり

「何か聞きたいことはあるか?」
と言うので

「この下に眠る人のこと、聞いていいか」

とたずねる。

本当は聞くのがちょっと怖い。

でもこんなことでもない限り、こいつの過去など聞けないだろう。

 

紙袋を開いて二つに切り、俺に一つを渡しつつその上に奴が座った。

墓と俺が等分に見える位置。

俺もその三角形が壊れない位置に腰を下ろす。

そして奴が話し出すのを待った。

 

「俺は軍から帰ってしばらく、おかしくなった。

軍隊時代の経験がフラッシュバックして、眠れなくなったんだ。

睡眠薬を飲んでも限界が来て倒れるまで眠れなくて、寝不足のせいもあってか始終ぎすぎすしていた。

家族が俺に腫れ物みたいに接するのもたまらなくて気が狂いそうだった。

 

ある日、家にいるのが苦しくて、逃げ出した。

もちろんすぐに行き倒れたよ。

それを拾ってくれたのがこの人だ。

 

彼は木彫りの職人だった。

行き倒れの俺を見て、こいつを助けたら恩を売ってただ働きさせてやろうと思ったと笑っていた。

がりがりに衰弱した俺がそんなことできるはずないの、一目瞭然なのに。

しばらくして体は直ったけれど、俺は死にたいけれど死ぬこともできないでぼんやりするしかできなかった。

彼がやれというからやすりがけくらいはしたけれど、ただ機械的に手を動かしているとフラッシュバックが起こってパニックを起こしたりした。

そんな手のかかる俺を、それでも食わせ、時には殴り、まあある意味更正させてくれたんだ。」

 

「殴るって」

 

「あんまり俺がうっとうしかったんだろう、ある時そんなに罰が欲しいのか、と気絶するまで殴られた。

気がついた時には顔に濡れタオルが乗せられていて、そのそばにあの人がぼんやり座っていた。

俺の目が覚めたのを見て、彼は言った。

『お前に罰を与えられるのは神様だけだ。誰かを罰することができるのは、何も罪を犯したことがない奴だけだから。誰の手も汚れているんだ。生まれたばかりの乳飲み子だって、母親を散々苦しめて生まれてくるだろう。それに子供のうちは、たくさんの人の手を煩わせないと生きていけない。

でも、だから生まれなければいいのかというと、そうではないだろう?

死産は親を苦しませる。後悔させる。自殺なんてもってのほかだ。生まれたからには何かの役割があるんだ。誰だって、きっと。お前はお前の方法で何かをするんだ。自分が正しいと思うことを。』

『お前のしたことは、きっとお前がしないといけなかったことだ。これからすることも、きっとお前がしなければいけないことだ。もしそれが世間的には悪いことだとしても、評価なんて時代と共に変わる。

今お前が悩んでいることも苦しんでいることも、必ずいつか糧になる。動けないときにはうずくまっていればいい。たぶん、それもお前に必要なんだ。死ぬ時、一つでも良かったと思えることがあればいい。』

そう言いながら自分の拳を何度もなでていた、その手の動きが忘れられない。

 

人を打つ手は痛い。

この人は軍隊時代によく見た、暴力を楽しむ輩じゃない。

それは罪だと思いつつ、罪を犯してまで俺を立ち直らせようとしてくれている、とその時わかったんだ。」

そう言いつつ自分の拳をなでている。

彼の動きをなぞっているのか。

 

「むちゃくちゃなところもある人だったがね。

夜になると眠れない俺に『疲れたら眠れるぜ』と手を出したりするんだから。

ま、確かに無茶されると気絶するように眠れたけれど、そんな翌日でも必ず早朝に叩き起こされた。

こっちは足腰が痛いってのに『今寝たら又夜眠れないぞ。そうしたら明日はもっと腰が痛くなるだろうな』とすごまれて。

でも確かに痛みを我慢しながらする作業はそれにばかり気持ちが行くから、フラッシュバックなんて悠長なことは起こらないんだ。

なかなか作業が終わらないから怒られながらいつもより遅くまで作業して、そうすると夕食の支度をしながらもう眠くて仕方なくなる。

何日かは夢も見ずにぐっすり眠れるのさ。」

そうしてくすっと思い出し笑いする、その目はとても楽しげだった。

 

すごく不謹慎だが「無茶」の内容が気になる。

お前、どんな顔を見せていたんだ。

絶対に俺にはその顔、見せてないだろ。

俺が抱く時でも、お前はいつも俺を気遣い、そっと誘導するんだから。

 

「そうは言っても俺なんてたいした戦力になるわけじゃなし、裕福なわけでもなかったから俺の分の食費だって結構な負担だったはずだ。

なのに何でこんなことをしてくれるのか、と聞いたことがあった。

その時彼は『順繰りなんだ』と言った。

『俺もどん底にいた時、それを救ってくれた人がいた。その人に恩返しができなかったから、代わりにお前に返しているんだ。だからお前は煩わなくていい。いつか他の人に返せる機会があったらその時に返せばいいんだ』と。」

そう言って墓石を見る奴の目には、その頃の光景が写っているのだろうか。

 

「少しずつ立ち直ってやすりがけだけでなく、他のちょっとしたことも手伝わせてもらえるようになった頃、彼が倒れた。

末期癌だった。

最初からよく腹に手を当てているなとは思っていたんだ。

次に体重が減って、力が弱くなってきているような気がした。

絶対におかしいから検査を受けろ、受けてくれとすがるようにして、嫌がる彼を検査した時には癌が体中に転移していた。

なまじ体力があるし、我慢強いから発見が遅れたんだ。

いや、本人も自覚があったから余計に検査を嫌がったのかもしれない。

すぐに痛みにのた打ち回るようになった。

手術しようにも取りきれない。

延命治療しても、もって半年、しなければ1月ももたないだろうと思われた。

 

俺はどうしても彼に生きていて欲しかった。

少しでも別れを先延ばしにしたくて、その病院で働く代わりに手術させてもらう算段を取り、入院の手続きもした。

でもあの人は嫌がっていた。

『俺は仕事をしてこそ俺なんだ。チューブにつながれて寝ているだけなら、ただ生きているだけの人形じゃないか』と言って。

 

それでも説得していたが、入院予定の前日、こう言われた。

『俺はお前に会って、ほんのちょっとでも役に立てたか。なら俺にも少しは生きる価値があった。最後にお前と会えたから、俺の人生もちょっとしたもんだと思えるよ。

本当はお前を見つけたとき、面倒に巻き込まれたと思ったんだ。でも死ぬ前にお前に会えてよかった。俺にも1つ花が咲いた。これで死んでも胸を張れる。

お前はお前の役割を果たしてくれ。俺は苦しい。お前は俺を楽にできるんだろう』って。」

 

「それが戦場以外でした、初めての安楽死だった。

それまで苦痛にゆがんでいた顔が、すうっと穏やかになっていくのをずっと見ていた。

俺は病院をやめた。

そのまま放浪を続けるうちに、いつの間にか安楽死医と呼ばれるようになっていた。」

 

気がつくとワインの瓶はすべて空になっていた。

「変な話を聞かせたな」

と言う奴はいつものように穏やかだった。

こいつは一つ安楽死をするたびに、その人のことを思っているんだろうか。

俺には絶対に割って入れない、多分こいつにとっての聖域。

こいつは死ぬ時、きっとこの人のことを思うだろう。

俺じゃなく。

俺はこいつにもらうばかりで、何も与えてはやれないから。

 

立ち上がり、服の埃をはたきながら

「行こうか」

と言う奴に

「俺はお前の順繰りなのか」

と聞く。

こいつは優しい。

俺が闇の中でうずくまっているのを察して今まで手を伸ばしてくれたのか。

なら、俺もこいつから卒業しなくては。

 

急に奴がぷっと吹き出した。

「お前、もしかして妬いているのか?

この人は大事な人だ。俺の中で永久に。

お前だってそういう人の1人や2人、いるだろう。

 

俺にとってのお前は、そうだな。俺が初めて抱いてみたいと思った男だ。

最初にそう言っただろう。

ずっと過去だけを胸に生きていこうと思っていた俺が、踏み込んで付き合いたいと思ったたった一人だ。

来るもの拒まず去るもの追わずだったけれど、自分から付き合って痛い思いまでしてもいいと思ったのは」

そこで真顔になり

「お前だけだな」

と言われた。

 

俺も立ち上がり

「ついて来てしまってすまなかった」

とわびると

「いいんだ。本当は今までここに来るのが怖かった。

ずっと思い出すのがつらかったんだ。

でもお前に話してあの人の言葉の数々を思い出せたから、今度からもっと頻繁に墓参りできそうな気がする。

それにお前のことも報告できたし」。

 

こんな外だというのに、何度もキスした。

墓の前で不謹慎かもしれないけれど、止まらなかった。

なあ、あんた。

あんたがこいつを拾ってくれたのは嬉しい。

けど何で病気になんてなったんだ。

あんたが病気にならなければこいつももっと幸せで、安楽死なんかに手を染めなかったかもしれないのに。

 

でもそうしたら俺と会うことなんてなかったのだ。

 

切なくて、やるせなくて、でもどうにもできなかった。

「俺の部屋に来るか」

と言われ、うなずく。

最後にもう一度だけ墓に向かい、二人で歩いた。

 

いつになくお互いに積極的になった。

シャワーも浴びずにベッドにもつれ込む。

なんだってしてやりたかった。

なんだってして欲しかった。

それでいつもと違う顔が見られるなら。

俺が普段無意識に隠してしまう顔を見せられるなら。

なんだってさらけ出すから、俺にも全部見せてくれ。

 

なんか散々恥ずかしいことを言ったような気がするし、されたような気がする。

でもそんなの、気にならなかった。

今会えている、そのことが奇跡なのだ。

こんな田舎町でこんな風に会える僥倖。

ならその時間を1分だって無駄にできない。

 

朝になったら、気持ちも変わる。

でも今俺が映しているのはこいつだけで、きっとこいつも俺だけ。

オペに入ると俺が母を治すつもりで必死になるように、こいつも楽になっていく人を見ながらその人を思うのだろう。

でも今は。

 

翌日、俺の腰は抜けていた。

奴の手を借りてよたよたと風呂に入り、ルームサービスで食事にしている時、奴の携帯が鳴った。

二人して固まる。

奴は俺を一瞥してから意を決したように携帯を取った。

 

依頼だ。

漏れ聞く言葉を聞くだけでわかる。

「俺は行くが、お前はここをそのまま使え」

と言いつつ目を合わそうとしない奴の背中に

「俺は患者の予後の観察で後3日はここにいる。もし俺の見立ても聞きたいと思ったら、ここに電話しろ。」

とだけ言った。

そのまま見ていると決心がぐらつきそうで窓の外を見ていたら、後ろから一瞬だけ抱きしめられた。

ぬくもりが離れた後も、窓から目をそらせなかった。

 

 

60000HITリクエストは「過去の男を想うキリコと、それを察して焦燥感を募らせるBJ」でした。

想うどころかキリコはべらべらしゃべるし、BJは焦燥と言うよりもろに嫉妬に走ってしまいましたが、ぎりぎりリクエストに答えられましたでしょうか。

キョーコ様、書き甲斐のあるリクエストをありがとうございました。

感想など、いただけたら嬉しいです。