碇
眠っているところを枕元の電話で起こされた。
こんなことはあまりない。
自宅ならともかくここはホテルの中で、俺を起こしたのは携帯ではなく、ホテル備え付けのものだったから。
俺はPキスタンの首都にある、ちょっと名の知れたホテルに泊まっていた。
正直町の中心からは遠く、ホテル前のタクシーはぼったくりばかりで毎回乗るたびに料金交渉が面倒なのだが、この国では幾度となく貞操の危機にあっているので少々気をつけているのだ。
このホテルに俺が泊まっているのを知っているのはお嬢ちゃんとBJくらいだが、二人とも俺の携帯番号を知っているのに。
いぶかしく思いながら電話を取ると、フロントからだった。
「ただいまタクシーの運転手がフロントにおりまして、お連れのBJという方のタクシー代金を代わりにお支払いいただきたいと申しております。いかがしますか」
という言葉にすぐ行くと答え、財布と部屋の鍵をつかむ。
俺に支払わせるなんて、何かがあったとしか思えない。
エレベーターが来るのももどかしいくらい気が急く。
だがこういう時に焦った風を見せると足元を見られると思い直し、1階についてからはなるべく落ち着いた足取りでフロントに向かう。
運転手と一緒にタクシーに戻ると、確かに後部座席に奴が納まっていた。
おい、と声を掛けると薄目を明け
「悪いが言い値を支払ってくれ」
と言う。
どうやら何かに巻き込まれたらしい。
運転手にはこの国にしては目玉の飛び出るような額を言われたが、深夜、タクシーの中で寝ているところをたたき起こされ、かなりのスピードでかなりの距離を走らされたらしい。
「ガソリンだってもうぎりぎりでスタンドがあくまで何時間か待たないといけないし、帰りのガソリン代もいるんだ」
と言われ、それでも高いと思いながらも言い値を払う。
後部座席を開けて中に頭を突っ込んだ途端、血の匂いがぷんとした。
それと曰く言い難い、けだものの匂いが。
この料金は口止め料込み、ということなのか。
こいつ。
奴を背負って中に入るとボーイが手伝おうと大急ぎで近寄ってきたが、大丈夫と制してエレベーターに向かう。
ロビーがあまり明るくなくてよかった。
部屋に入り、ベッドに下ろしてコートを開く。
いつも羽織っているだけのコートをしっかり着込んでいるのをいぶかしく思っていたが、下は素肌にズボンを着込んだだけだった。
一面に凌辱の痕。
でもこの血の匂いは、とよく見ると、握りこんだ右手に傷を負っていた。
「指は動くか」と一本ずつ動かすよう言う。
幸い神経は大丈夫なようだが、こいつの神の手を切られるなんて。
怒りにたぎりながらも様子を調べていく。
傷の具合から見て、ナイフを握りこんだのか。
危惧したより深くないのは、握りこんだナイフを放さなかったか、相手のナイフがなまくらだったか。
多分両方だ。
止血はほぼできているものの、これは縫わないと。
俺はそんなに医療用具は持ち歩かないのだが、ほんの少し持ち歩いている救急薬品の中に手術用の針付き糸を忍ばせていた。
奴の大事な商売道具を慎重に縫っていく。
こいつのこの手が少しでも損なわれたら。
こんな大事な手に傷を負うなんて。
本来は包帯で固定したいがそこまでの持ち合わせはないし、こんな深夜に薬局も開いていないだろうからガーゼの上から清潔なタオルを巻いて代わりにする。
その後備え付けのタオルを湯でぬらし、体を拭く。
本当は風呂に入れてやりたいが、こんな傷ではしばらく無理だ。
この国は気をつけないといけないことくらい奴だってよく知っているはずなのに、それでも一瞬の気の緩みにつけ込まれたのだろう。
本当に、こいつは。
それでも俺は、こいつが俺を頼ってきてくれたのが嬉しかった。
以前のこいつなら俺の前でこんな姿をさらすくらいなら野垂れ死にを選んだはず。
そんなの、俺の方が耐えられない。
こいつの天才的な技術が失われるのも惜しいが、今となってはこいつ自身がいなくなるのが怖くてたまらないのだ。
無鉄砲で向こう見ずで危険を顧みない。
いつも俺に命の尊さを説く割に、自分の命なんて何とも思っていないような言動を、噂で聞くたびに心が波立った。
それが奴の決めた仕事のスタイルだとしたら、俺には何も言えないのだが。
体中さまざまな分泌物にまみれていてたちまちタオルが汚れてしまい、何度も湯を換えることになった。
直腸内にも精液が大量に残っているので、なんとか出さなくては後で腹痛に苦しむだろう。
この部屋のシャワーは日本のようにホースでつながれていてヘッドも取り外せるものだったので、これで洗腸することにする。
今回このホテルに泊まってよかった。
結構いいホテルでも、シャワーは固定式で壁にくっついたままのところが多いのだ。
傷を腕ごとビニールで厳重に覆い、風呂まで抱えていく。
何にも入っていないバスタブに座らせ、こちらを向いて縁にすがらせる。
「洗腸するからな」
とヘッドをはずしてホース状にしたシャワーを見せると、ちょっと眉をしかめたが、それでも腰を持ち上げた。
湯の温度を手で確かめてから肛門部に押し付ける。
圧力によって腹の中に湯が入っていくのが外からも見て取れる。
目を閉じた奴の苦しげな顔。
我慢強いこいつは、嗜虐心をそそる男だ。
嫌なことも恥ずかしいこともみんな隠そうとしてしきれない、そんな顔を凌辱者にも見せたのかと思うと、はらわたが煮えくり返りそうになる。
腹の中がいっぱいになり、湯があふれだしたところでシャワーを放り、便器に座らせる。
そのまま腹を押さえて中身を出させる。
精液だけでなく大腸の内容物や粘液といったものも容赦なく出させ、もう一度ホースを当てて繰り返した。
本当は奴の腹痛が心配なのではなく、単に俺が奴に誰かの残滓を入れておきたくないだけなのかもしれない。
ぐったりと疲れた様子の男をもう一度抱え上げ、ベッドに運んだ。
荷物の中から俺の下着とパジャマ代わりの民族衣装を取り出し、渡す。
手伝おうかと思ったがもそもそ着替えだしたのでそのままに
「ルームサービスを頼むか。それとも何か飲むか」
と聞く。
「酒、あるか」
と問われたので、免税店で買って持ち込んだ酒を2つのコップに少しずつ注ぎ、水で薄めて持っていく。
本来は縫った後のアルコールはご法度だが、この場合、少し飲んだほうが落ち着くだろう。
それに俺自身も今は飲みたい気分だった。
奴が座ったベッドの隣に座ると、そっと凭れかけてきた。
こいつがそんな動作をするのは珍しい。
やはりダメージがきついのだろうか。
なんとなく何が起きたかの推測はできるが、本当のところを聞いてしまっても大丈夫だろうか。
肩を引き寄せながら聞かなくてもいいか、と思っていると、奴の方から口を開いた。
「悪かったな。今回どじ踏んで、荷物も医療かばんもみんな置いてきちまった。コートにパスポートとトラベラーズチェックが入っていたから帰ることはできるけど、財布は落としたみたいだからカードは朝一で使用停止にしないと。」
などと言うので
「そんなことより、一番の商売道具を大事にするんだな。お前の右手がだめになったら商売上がったりだろう」
と苦言を述べると
「そうだ。でもあの時、俺は帰らなくては、としか考えられなかった」
と、静かに話し始めた。
「今回の奴らは本当に溜まっているから便所貸せっていうだけの奴らで、深刻には命の危険を感じてなかったんだ。なのに俺にも待ってくれる人間がいるんだと突然気がついて、そうしたら」
そこで言いよどんで酒を飲んだ。
「若いころに不良だったりすごく思い切った事をしていた奴が、結婚して子供ができた途端おとなしく丸くなっていくのを今まで軽蔑していた。それまで肩で風を切っていたような奴が、まるきり牙を落として守りに入っちまうのを、なんて無様なんだってずっと思っていた。でもそれは、そいつに大事なものができて、そいつを大事に思う奴のためにも無茶せず守るってことだ。それが傍から格好悪く見えても、そうすることもひとつの勇気だろうと思ったんだ」
言い切ると、また酒をすする。
こいつの口からこんな言葉が出るなんて、思ってもいなかった。
けれど、やっとこいつは大事な人間に気づいたんだ。
「若いころの無茶はするべきだと思うが、そうだな。家族を持ったら大事なものを悲しませるのが一番格好悪いな」
と答えると
「俺はこれからなるべく安宿には泊まらない。ちょっと位不便で面倒くさくてもちゃんとした宿に泊まって、せめて自分から災難を呼ばないように気をつける。」
そう自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
お嬢ちゃん、よかったな。
そんなに行動は変わらないかもしれないが、こいつは自分を大切にし始めた。
俺もほんの少し安心できる、と思っていたら
「だからお前もせめて伝染病の蔓延地に行くときにはなるべく予防措置を取ってくれ。死の立ち会いの瞬間だけは仕方なくても、それまではなるべく」
と言われ、どきりとした。
そう、俺はいつも心のどこかで死を望んできた。
今は間違えて生きてしまっているだけなんだから、早く間違いが正されればいい、と。
でも俺はいつの間にかこんなホテルに泊まり、身の安全を考えるようになっていた。
いつの間にか野垂れ死には嫌だと思うようになっていた。
普段茶色の奴の目が、赤っぽく見える。
興奮か緊張をしている証拠。
今気づいたけれど、俺にも生きる価値がほんの少しはあるのだ。
だって多分、俺が死んだら悲しむ奴がここに一人はいるのだから。
あてなく漂っていた小船に小さな碇がついた気分だった。
父も妹も俺の重石にはならなかったのに。
単なる奴のいつもの忠告かもしれない。
だが、その時の俺にはそれが何かの告白のように響き、目の前が明るくなったのだ。
お互い、そんな約束「なるべく」しか守れないことがわかっている。
安宿どころか泊まる場所にも苦労するような僻地もあるし、依頼人がどんな筋の人間でも、条件が折り合えば行くのが俺たちに共通する流儀だ。
仕事に入るとプライベートのことなんて忘れてしまう。
伝染病の蔓延地に踏み込むことだってあるし、診察はともかく安楽死の時にはよほどのことがない限り、俺はスーツかそれに順ずる服装で見送るのを礼儀としている。
それでも気持ちだけは。
「冒険と無頼の日々に終止符を打つわけか」
とふざけたら
「お互い急に老けるかな」
とふざけ返された。
俺たちは変わってしまうのだろうか。
少なくとも旅のスタイルは変わるだろう。
すでに俺は変わってきている。
見るもの、聞くものが限定されそうな恐ろしさはある。
それでも。
人はすべての人生を生きることはできない。
一歩を踏み出すというのはそういうことではないか。
「怪我が治ったら思い切り抱くからな」
そう言って奴をベッドに押し込んで俺も隣にもぐりこみ、二人で寝不足を取り戻すことにした。
ふと見ると、窓の外が白みかけていた。
昨日までもっと「さらば青春の日々」という感じの内容だったのですが、誤字チェックの最中にキリコが主張を始めてしまい、ラストが大幅に変わりました。
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