1週間後
あれから1週間後の昼ごろ、キリコから電話があった。
俺が取ったんじゃない。
カルテを見直していた俺の耳にピノコの
「キリコのおじちゃん」
と言う声が入ってきて、それから聞き耳を立てていたが、ピノコの楽しそうな相槌が続くだけで一向に話している内容がわからない。
いいかげん替わろうと部屋を出たところで電話は切れてしまった。
何気ない風に
「誰からの電話だった?」
と聞くと、彼女は嬉しそうに
「今日キリコのおじちゃんがお菓子を買ってくるから、おやつを食べないで待っててって。
ピノコにね、TOPSのケーキを買ってきてくれるって」
と、跳ねながら行ってしまった。
TOPSのケーキか。
俺もあれは嫌いじゃない。
チョコクリームの奴が好きなんだが、そっちを買ってきてくれるかな。
何となくそわそわしながらも、俺もカルテの整理に戻っていった。
奴が来たのは3時を少し過ぎた頃。
湯を沸かし、紅茶のポットの用意も万端終わったピノコが俺の周りをうろうろし始めた頃だった。
車の止まる音がした途端、ドアを開けに飛び出したピノコの後をゆっくり歩いていくと、ちょうど奴が入ってきた。
TOPSのビニール袋と和菓子の包み?
あの包みは何か見覚えがあるような。
「伊勢屋だな! ピノコ、俺は日本茶にしてくれ。渋めがいい、いや、やっぱり俺が入れるよ」
と台所に向かう。
彼女の入れる日本茶は俺には薄い。
こういう時は自分で入れたほうがいい。
つい急ぎ足になってしまい、後ろで2人のくすくす笑いが聞こえた気がしたが構うもんか。
あそこの和菓子は、大好物なのだ。
鶴瀬という駅から徒歩5分。
伊勢屋という和菓子屋にはありふれた名前のその店は、昔ながらの田舎風和菓子を作り続けている。
この店の菓子の特徴は、とにかくでかい、ということ。
今風のお上品な饅頭の優に倍は重みのある菓子類は、腹がぽっこりと出て頼もしい。
どこにでも売っていそうなのに、いまどきこんな風に下品なほど大振りな和菓子にはなかなかお目にかかれない。
しかもあんこの甘さ加減が絶妙で、俺はここの和菓子ならでかくても2個はいける。
いや、多分5個ぐらいまで食べられると思うが、そうすると夕食が入らなくなるのでピノコが怒るだろう。
一度キリコの家に買っていったことがあったから覚えていたんだな。
あの時は珍しく東上線沿線の客の所に行ったから、帰りにわざわざ途中下車して買っていったんだ。
まだこんな関係になる前で・・・という所まで考えた所で手元が滑り、茶葉を入れすぎてしまった。
さすがにこれでは濃すぎるか。
ピノコに見つからない内に上の方だけへずって戻しておこう。
とりあえずキリコと俺の2杯、茶を入れてリビングに入ったら、奴の前には既にピノコの入れた紅茶があった。
しまった、奴はケーキを食べるんだったのか。
俺のだけ入れてくれればよかった、と思うがもう両手に湯飲みを持ってきてしまっている。
戻ろうとしたら
「日本茶もくれ」
と言われ、振り向いたら2人とも何かニヤニヤしている。
「ちぇんちぇーのお茶、あたちも飲みたい」
とピノコにまで言われ、やはりからかわれている、と思ったが、どうしようもないので仕方なく湯飲みを1つキリコに渡し、俺も席に着いた。
包みを目の前にすると、仏頂面も続けることが出来ない。
一応礼を言ってからバリバリと包みを開けると、俺の大好きな味噌柏が3個も!
豆大福も2個!
それに豆餅と黄身時雨が1つずつ。
「俺とお嬢ちゃんに豆餅と黄身時雨を残しといてくれ」
と言うのにうなずきつつ、味噌柏の葉っぱをそうっと剥く。
ピンク色の餅の腹の薄いところから、今にも味噌餡が出てきそうな迫力。
がぶりと噛むと、結構味噌の効いた白餡が口いっぱいに広がる。
この味噌加減が好きなのだ。
うーん、やっぱりうまい。
こういうのが日々のささやかな幸せって奴だよな。
「ちぇんちぇー、あたちにもお茶頂戴」
と言われ、はっとすると2人とも俺のことを見ていた。
「お前たち、ケーキにするんじゃなかったのか」
と聞くと、
「夕ご飯の後のデザートにするの。おじちゃんが可愛いお砂糖もお土産にくれたから紅茶も入れたけど、もう飲んじゃった。ピノコも黄色いお菓子を食べゆ」
と黄身時雨を取っていった。
自分のお茶のお替りのついでにピノコの茶を入れに台所に向かう俺の背中で、ピノコの
「うわー中から赤い所も出てきた、きれい」
と言うはしゃいだ声が響いていた。
「おじちゃん、お夕飯作るの手伝ってえ」
とピノコが甘えた声を出す。
「こら、ピノコ」
と言うが、奴は
「いいぜ。お嬢ちゃんがご馳走してくれるんだから、少しは手伝わなくちゃな」
と言いながら、身軽に立って台所に行ってしまう。
最初奴を来させた時には、間が持たなかったのでついピノコのわがままを許した。
それから彼女は味をしめたらしく、キリコが来るとまとわりつく。
奴が患者でないというのもあるのだろう。
ここに患者以外の人間が来る事はめったにないし、彼女もほかの知り合いのときにわがままは言わない。
台所からピノコの楽しそうな声が響く。
俺は行ってもどうせ邪魔だ。
仕方がないので新聞を手に取るが、何となく疎外感を覚える。
奴は俺の客なのに。
そりゃあ2人でいてもそんなに会話は弾まないし、ピノコが楽しいのはいいことだ。
でも、俺の客なのに。
夕飯のときもピノコはにぎやかで、いつもより更に元気だ。
「おじちゃん、今日はお泊まりするんでしょ?ピノコ、明日の朝ごはんは大きい玉子焼き、作ってあげゆ」
と言うのに
「ありがとな」
と奴も返す。
こいつ、子供には甘くないか?
あんな穏やかな顔しやがって。
それよりいつの間に奴は泊まると決まったのか。
むっとしていると
「泊まっていいか?」
と聞かれ、それでもつい頷いていた。
そのあとどくんと心臓が鳴った。
どういうことだ。
奴が家に泊まるなんてよくあることだし、ピノコがいるこの家では絶対に手を出してこない奴だってことはわかっている。
でも、俺の方が心臓をばくばくいわせている。
つい1週間前にはもう3ヶ月はしなくていいと、あれほど思ったのに。
俺はどうしてしまったんだろう。
いつものように食後、俺の部屋で酒を飲んでいるだけなのに、いつものように馬鹿な話をしているだけなのに。
妙にのどが渇いてしまい、注いだばかりのウイスキーを水と錯覚して思い切り飲み込んで、むせる。
不審そうな奴の顔。
冷静に、冷静にならなくては。
それとも、踏み込んでしまおうか。
俺らしくない、という思いと、いや、それこそが俺らしいんじゃないかという思いが交錯して、動きが取れなくなる。
こいつは絶対にここでは手を出してこないだろう。
ピノコを可愛がっているこいつ。
俺もピノコが可愛いし、彼女にばれるのはいやだ。
でも、今、こんなに近くにこいつがいる。
いつどんな依頼が来るかわからない。
長期間拘束されることはざらだ。
それどころかお互いいつどんなことに巻き込まれてどんな死に方をするかわからない。
今を逃して後で悔やむのか?
それは嫌だ。
「おい、キリコ」
いつもは人の目を見て話すのが癖なのに、そらせたくなって困った。
でもこうなったら最後まで。
「狭い家に住んでいても兄弟のいる家族、多いよな。そういう家の両親は、子供が寝静まってから隣の部屋なんかでしているんだよな。」
奴がへ? と言う顔をするのを見ながらどんどん顔がこわばっていくのがわかったが、言ってしまった言葉は戻せやしない。
前後の脈絡がなさ過ぎたか?
たとえがあいまいすぎた?
この後なんて続ければいいだろう。
「だからピノコが寝たらしよう」?
「あとで俺の部屋に来い」?
でも、もう顔がこわばりすぎて、口が開かない。
やっぱりやめよう。
今日はやめだ。
何かうまい言い抜けが出来ないかめまぐるしく頭の中で考えていたら、
「部屋で待っていればいいのか? 俺がこっちに来るか?」
と言われて一気に気が抜けた。
「お風呂、あきまちたよ」
と、ノックと共にピノコの顔が覗く。
「おじちゃん、寝る前に1つお話してくれゆって言ったの、覚えてゆ?」
というピノコに引きずられるようにして部屋を出がてら
「先に風呂、入っといてくれよ」
というあいつ。
まだ家に泊まるのは3回目か、4回目。
なのにいつの間にあんなに仲良くなったんだ。
いつの間に奴はこの家に馴染んだんだ。
いつの間に俺は奴に馴染んだんだ。
自分でもおかしいほど体をごしごしこすって、のぼせそうなほど風呂につかった。
そうすればさっきの自分の言葉が消えやしないかと思ったが、やっぱりそんなに都合よくない。
俺が自分から誘ったんだ。
ここはピノコと俺の家なのに。
ああ、又奴を俺の中に招き入れてしまった。
奴と風呂を交代してからピノコの部屋を覗いてみると、既に気持ちよさそうに眠っていた。
人形が1体添い寝している。
この間キリコが選んだ服を着た人形。
それまでそんなにお気に入りではなかったのに、あれからこの人形でばかり遊ぶピノコ。
頼むから朝まで起きないでくれよ。
俺もキリコも嫌わないでくれ。
部屋に戻ると程なくしてキリコが入ってきた。
今日はなるべく声を立てたくないから理性を保って夢中になり過ぎないように、と最初に確認。
ああ、何かパジャマ越しに抱き合うだけでもほっとする。
俺もあいつも1人で物事に立ち向かっていけるけど、今だけは相手に寄りかかっていい。
腕の中のしっかりした体。
あいつが俺を抱きしめているだけじゃない。
俺もあいつを抱きしめているんだ。
しばらくそのままでいたが、奴の手が背中で悪さを始めたので俺も真似して裾から手を入れる。
俺はわき腹を触られると弱いんだが、こいつは背骨のラインらしい。
すっとなぞってやると、周りの筋肉が緊張してひくつくのがはっきりわかる。
触診するように丁寧に触っていくと、あちこちにぴくりとする線や点が散らばっている。
こいつ、結構敏感かも。
これは楽しい。
俺もいつもこうやって探られているんだろうか、と思ったら急に顔を拝みたくなり、上を向いたらすぐ目が合った。
しまった俺、今ガキくさい顔していたんじゃないか。
こういうとき、いつも目が合うような気がする。
もしかして、よく顔を見られているんだろうか。
じっと見られて内心たじろぐ。
目をそらせなくなり、こうなったらにらみ合いだ、と思っていたらべろりと鼻をなめられ、びっくりして飛びのいたらベッドにつまずきひっくり返った。
うう、吹き出された。
落ち着け落ち着け、と心の中で唱えるが、こういう時はどうすればいいんだ。
焦るほどに手足がこんがらかる、と思っている内に服が剥がされていく。
服を剥かれた自分の顔が赤いのがわかる。
顔を隠すためにしがみついたら、何か誘っている形になってしまったようで、奴が俄然張り切りだした。
違うんだと言うのに。
心の中でうわーうわーと叫んでいる内に、着々と準備が整っていく。
どういうこった。
こいつ、何でサックとかローションを持っているんだ。
俺は用意していないぞ。
もしかしてあんな恥ずかしいこと、言わなくてもよかったのか!?
なんてこった。はは。
俺はこいつに夢を見すぎていたんだろうか。
もうここまでくればまな板の上の鯉。
最初は奴の反応を確かめる余裕もあったのに、今は声を出さないでいるのが精一杯だ。
口をつぐんでいても、妙な鼻声が出て困る。
口からの声より鼻からの声の方が、トーンが高く聞こえるのは気のせいか。
まさかいつもこんな高い声を出しているなんて考えたくない。
気持ちいいんです、と白状しているみたいで耳をふさぎたい。
ふさげないので目をつぶる。
つぶっていても視線を感じる。
奴のたった一つの目で見られているだけのはずなのに、もっと複数の目に見られているような錯覚を覚える。
本当は目を開けたら相手は奴じゃなく、又嫌な誰かになぶられているだけなんじゃないだろうか。
つぶっていると何もわからない。
そっちの方が本当のような気がする。
全部俺の幻想なんじゃないか。
俺に穏やかな時間があるなんて嘘っぽい。
ましてや相手が奴なんて。
「ほら」
と肩をゆすぶられて思わず目を開けたら、俺を見ていたのは奴だった。
想像していた目とは全然違う。
欲望に少しぎらついてはいるけど、いがみ合っている時とも、外で会っている時とも違う、目。
ピノコを見ているときと、ほんの少し似ている。
この目は嫌いじゃない。
全然嫌いじゃない。
「やっぱり声、無理に我慢しなくても少しは大丈夫なんじゃないか。鍵を閉めているんだから急に開けられるわけじゃないし。リラックスしろ。楽しむためにすることだろう。」
言われてがっくり力が抜けた。
そうだ、今を楽しみたくて誘ったんだ。
俺は沢山後悔してきた。
後になってからああすれば良かった、こうすれば良かったと思ってばかりだ。
今度こそ後悔したくないのなら、今の時間を楽しまないと。
昔の記憶に引きずられている時間なんてない。
何となく尻切れトンボのように終わってしまったが、そのままくだらない話をしたりふざけあっている内に、又そういう雰囲気になったので仕切り直しをした。
終わってパジャマを着なおしても名残惜しくなってしまい、結局客室から毛布と枕を運んできて床に雑魚寝だ。
下が固いが、我慢できないほどじゃない。
こいつは明日、帰ってしまうんだから。
ピノコが昼間こいつに付きまとっていたのは、こんな気持ちからなのかな。
翌朝ノックと共にドアが開く音がしたな、と思ったら
「ちぇんちぇーずるい! ピノコも一緒に寝たかった!」
という叫び声。
はっと飛び起きると彼女が仁王立ちでぷりぷり怒っている。
「そういや、毛布を運んでから鍵かけるの忘れたな」
ぼりぼりと体をかきながらのんびり話すキリコに殺意を覚えつつ、ゴミ箱だけは覗かないでくれ、と切実に願う俺だった。
18禁とは名ばかりですみません。
もう少し色気のあるシーンが入らないかと2、3日放置してみたのですが、無理でした。
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