通り魔の襲撃の後
俺はちょっとふらつきながら空港を歩いていた。
つい昨日まで入院していたのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
きっかけはアラスカ、マッキンリーからの手紙だった。
そのおかげで殺人犯と間違えられるは、かまいたちの犠牲にならないといけないは、路上オペショーをするは、入院しながら脅迫しなければいけないはでここしばらく神経を張り詰めていたせいだろう、飛行機に乗った途端疲れが出てぐったりしていたと言うのに飛行機はエアーポケットに入るし、おまけに到着ロビーはすごい混雑で、揉まれている内また傷口が開いたようだ。
なんだか服の中が嫌な感じにじんわり湿ってきた。
ああ、参ったな。
こんなことじゃ、まっすぐ家に帰れやしない。
薬局で薬を買ったらホテルにでも2,3日泊まるか、と思いながらよろよろ歩いている時、少し前を歩く男の後姿が眼に入った。
あ、あいつ。
勢いよく駆け出したはいいが
「キリコ、この」
と胸を掴んだところで目の前が真っ暗になり、勢いのまま倒れ掛かる。
「おいおい、掴みかかったまま貧血起こすとはとんだ医者の不養生だな。俺は家に帰るだけだ。もうお前さんの出番はないよ。おい放せ、ておい、なんだかお前さん熱っぽくないか?」
何とか倒れずに踏ん張った男が改めて掴んだのは、怪我した俺の左腕。
わめくまいと硬く口をつぐんだはいいが、膝が砕けるのを止めるすべまではなかった。
「おい」
という声に、意識はあるとコクコクうなずきながら
「大丈夫だ、ほっとけ」
と言おうとしたが、我ながらまったく呂律が回らない。
「まったく」
と腕を取られて肩に回され、引きずられるように歩き、気が付くと俺は車に乗っていた。
「らいりょーぶにゃってなんだ。にゃって。お前さん、まったく大丈夫じゃないな」
バタンと運転席のドアが閉まり、俺の体にシートベルトがかけられたような気がした時には、背もたれに体を預けられ、ほっとした俺の意識は半分飛んでいる。
情けない限り。
で、気が付くとまったく知らない場所にいたのだ。
殺風景な部屋。
真っ白な部屋には、俺の寝ているベッドしかない。
しかもいつの間にか上着もない。
というより、半裸と言ったほうがいい感じ。
俺の服は、と見回すと、ベッドの足元のかごの中に入れてある。
何だこれ、と思ったところでドアが開いて男が入ってきた。
「キリコ」
「お前さん、いつも派手な登場の仕方をするんだな。何だ、この傷」
男が押すワゴンの上には外傷薬や消毒液、包帯など。
男は薄い手袋をはめると手早く俺の包帯を外していく。
「なるほど、それでこんな大怪我を負った、と。しかも抜糸も済んでいないうちに飛行機に乗ったらエアーポケットに入って傷口が開いた、と。医者の不養生ここに極まれりだな」
問われるままに経過を話しているうち、手当てが終わる。
薬の蓋を閉じながら
「これでニューヨークの貸し借りはなしだからな」
という男に
「この程度じゃまだまだ。後2,3回は世話にならなきゃ元が取れない」
と着替えながら応じると
「そんな怪我、そんなにしょっちゅうするつもりか」
と無造作に腕をつかまれた。
そんなに強くはないが、傷の真上だ。
歯を食いしばって腕を振りながら自由を取り戻すと
「世話になったな」
と言いざま歩き出そうとして、貧血を起こした。
と言ってもちょっとふらついただけだったのに、目ざとく見つかりコートを人質に取られた。
あえなくベッドに逆戻りだ。
「やっぱりここで清算だ。超過には勘定しないから、今日は休んでいけ」
掛け布団を運ばれ、体にかけられるとそのふんわりした重みにがんじがらめになった気分。本格的に眠くなってきた。
急速に入眠しながらやっぱりあそこは敵地だったんだなと思う。
何しろ軍事基地相手に脅迫していたのだ。
こんなごろつき、銃持ち放題のあの国では消すのなんて簡単だ。
ど田舎だから埋める場所にも困らないし。
何とか動けるようになってすぐ帰国を決めたのは、気を休める暇がなかったからだ。
じゃあ、ここは敵地じゃないんだろうか。
翌日も昼ごろまで眠ってしまい、目が覚めるとまぶたが重く腫れていた。
男は、と部屋を出ると、以前と感じが変わっている。
この間はいろんな場所にダンボールやゴミ袋がごろごろしていたのに、ずいぶんさっぱりしたもんだ。
玄関入ってすぐの居間なんてジャングルみたいだったのに、まるでこれは。
「まるでこれは診察室じゃないか?」
後ろから声がして驚いて振り向くと
「本当に嗅ぎ回るのが好きだな。さっきまで寝ていたと思うと、もうこれだ。まずは飯を、なんて思わないのかね」
と言うキリコ。
そういえば、どこかからいい匂いがする。
気が付くと、胃が絞れるように空腹だ。
「ちょうど昼飯作ったところだ。ありあわせのチャーハンだが、食うか?」
という言葉にいそいそと従う。
「色々片付けていたらああなった。別に診療所をするつもりなんてないぜ。そんなことしたら商売上がったりになっちまう。俺は安楽死を辞めるつもりはないしな。ただ、体裁を整えておくのも悪いことじゃないと思って」
食後のコーヒーをすすりながら、そんなふうに奴は話した。
どうせなら安楽死なんて辞めてここで普通に診療すればいいのに、と思うが、形だけでも整うことになぜか安堵する。
今の日本で安楽死なんて。
しかも安楽死のみの医師なんて。
どんなに人が来なくても、診療所を開く医師という形になってさえいれば、握らせるべきところにそれなりの保険をかけておけば訴えられる危険も少しは減るはず。
こいつがそういうこと、考えているかは知らないが。
車を断り、タクシーを呼んでもらって帰った。
とてつもない金額になったが、まだ電車に乗るのはつらい。
もう1日いればいいと言われたが、ありがたく辞退した。
あのまま2人きりで夜になったら、あの晩を思い出さずにはいられない。
今ならまだ気の迷いでも済む。
なんといっても根本的に相容れない奴なのだ。
俺は虎視眈々と奴の患者を横取りせずにいられないし、奴は俺に気づかれないうち、そっと仕事をするだろう。
お互い、己の判断こそが正しいと信じて。
けど、やはりあの夜は忘れがたい。
あれほど楽しい事はなかった。
醜いところを見せ合ってきた相手だから、いくらでも奔放になれた。
まあ、俺にとっての奔放だから、他人にとってどうかはわからないけど。
でも、いつも気を張って生きてきた俺にとって、あれは驚くべき夜だったのだ。
不意にがたんと衝撃があって、目を覚ます。
うとうとしていたらしく、もう県境を越えたようだ。
「すみません、猫が飛び出してきたものですから」
と言うタクシーの運転手にわずかに手を振り、気にするな、の合図にし、座りなおす。
それから目をつぶり、男との会話を反芻した。
今回は、結構話せた。
あいつ、俺の怪我に驚いてたな。
ただで泊めてくれるなんて、案外親切な奴だ。
大体女ならともかく、あれは男だ。
もとよりそんなの対象外じゃないか。
もしかしたら、このまま行けばいい友達になれたりして。
このままいけば。
そこまで考えて、己の欺瞞に吐き気がした。
なにがあるというのだろう。
俺とあいつの間に。
何のことはない、俺は怖じ気づいたのだ。
わかっていても、踏ん切りはつかない。
オペの時のように大胆になれればいいのに、と思ってもかなわず、俺は家に着くまで奴のしぐさを反芻することしかできなかった。