嫉妬−K 

 

 

その時俺は暇だった。

ある町で仕事を終え、とりあえず1時間ほど電車に乗って隣の国に入る。

ヨーロッパではこんなことが容易だ。

 

「失礼ですが、ドクターキリコ?」

と声を掛けられ、はっとする。

一瞬、あいつが若返ったのかと思った。

「ランプの使いです。地獄の。お分かりですか?」

と軽い口調で話す男はどこか作り物めいたところがあり、そこを似ていると感じたのだろうか。

いや、やはり顔立ちや姿勢の良さなど、どことなくあいつに通じるところがある。

あいつも傷がなかったら、こんな嫌味なまでの美青年になったのだろうか。

 

「失礼?」

と声を掛けられ

「なんでもない。用件は?」

と聞く。

「あなたの力を借りたいのだそうです」

という答えに不穏なものを感じる。

俺は昔、祖国から亡命した。

その時俺を逃がしてくれたのが地獄のランプの二つ名で知られる男だ。

「歩きながら話しましょう」

という言葉に従い、話を促す。

彼は今祖国のA国で反政府ゲリラをしている。

国内の現状や軍部の暴走をビデオに撮ってはネットで流すのを繰り返しているが、機材と薬品がどうしても足りないとのこと。

つまりは俺に運び屋をしてほしいということだ。

なるほど、俺の職業なら薬品も機材も持ち込むことができるはず。

 

次の依頼はない。

妹は成人しているし、両親も死んだ。

しがらみはないし、どうせあの時亡命していなかったらもっとひどい死に方をするはずだったのだ。

「具体的にどうするんだ」

と聞きながら黒くてひねくれたあの男の面影がちらついたのは、目の前の男の容貌が似ているからか。

それともあいつが聞いたらどんな顔をするかと思ったのか。

 

突然男が俺の腕に手を絡めて体を寄せ

「つけられている」

とささやいた。

男の腰に手をかけ、抱き寄せる振りをしてそっと後ろを伺い、目を疑う。

黒いコートはこの季節、いくらでもある。

だが、あんなふうに風をまとった歩き方をする奴なんて、一人しかいない。

「ああ、あれはBJだ。きっと俺をつけているだけだよ。俺の仕事を阻止しようとしているんだろう」

と思わず体の力を抜いた俺に

「阻止というにしては楽しそうだ。おわかりと思いますが、たとえ親友でも恋人でも他言無用です。詳しくはこの中に」

と何かを口に含むと俺の首に手を回し。

 

カプセルが口移しされるまでしっかりホールドされ続けていた。

なぜ手渡しではいけなかったのかを厳重に問いたい。

あいつ以外につけていた奴がいたのだろうか。

そう思うと邪険にもできず、かすかに顔をこわばらせた奴が近づいてくるのを待つしかない。

だが

「あれ、先生。お久しぶりです」

とにこやかに口を切ったのは俺の隣の男だった。

 

じゃあBJはこの男を知っているのか。

ということは、このキスは奴に対してのあてつけで。

 

頭の中がすうっと醒めて、腹の奥で何かがどろりとざわめいた。

もうずっと久しく感じたことのない感情。

どうかしている。

この俺が、嫉妬など。

しかもこんな小僧っ子に。

何がキリコ先生だ。

すかした顔しやがって、あの男。

 

「まさかまた安楽死の依頼じゃないだろうな」

と真剣に俺をうかがう様が愛しく、なのに

「残念ながら、それはちょうど終わったところさ。他の町でね」

とわざと口を滑らせ、その顔がゆがむのを見て暗い満足に浸る。

今、この男は俺のことでいっぱいだ。

なのに

「あの男、ジョナサンか」

と他の男の名前が出たとたん、胸の中がじりじり焦がれ、つい知り合いなのかと詰問してしまう。

しがらみがないなんて、よく言えたものだ。

「今のはなんだ」

と問う、感情を閉じ込めずにいられぬその顔は、本当にすべてが俺へのものなのか。

 

これは嫉妬じゃない。

ゲリラ地帯への運び屋なんてこと、他言無用だからだ。

そんな言い訳、自分すら欺けやしない。

 

俺を睨み付けたまま複雑な色を見せる瞳。

大きな傷。

この傷や他の傷のせいで、こいつはあちこちにねじれができた。

その姿かたちだけでなく性格までねじれきっていて、なのになぜこいつはこんなに人を惹きつけるのだろう。

それはねじれを隠すのでなく、そのままに生きようとあがいたからだ。

できた当初は醜かったかもしれないねじれが、今はぴったりこの男に馴染んで特異な美しさをかもし出している。

陰影の美しさ。

あんな薄っぺらい男に面影を見てしまったなんて、こいつに失礼と言うもの。

 

そして俺だって薄っぺらい人生を歩いてきたわけじゃない。

 

いつもどこか跳ねている頭を抱きかかえて胸に押し付け、目を隠して口内のカプセルをそっと吐き出し、握りこむ。

こんなのがあったらキスの一つもできやしない。

プラスチックらしいカプセルをポケットに滑り込ませ、改めてぎゅっと抱きしめる。

今は僥倖を喜ぶべきだ。

危険の前にもう一度だけ、こいつの肌を感じたかった。

 

こいつも何かを感じたのだろうか、普段の口論もなく妙におとなしかった。

時々柄にもなくすがるような目をするのが新鮮で、どうせならと丁寧に順序を踏んでみる。

いつもは年甲斐もなく無茶を強いる真似をしてしまったりもするのだが、最後かも、と思うとひどい思い出にしたくない。

いつもだって、次はないかもと思っているはずなのに。

 

俺のコートのポケットの中に入っているカプセル。

あれを見たら後戻りできない。

だから今日の間だけ、コートは椅子の背にかけたまま、こいつだけを見ていようと思う。

 

 

 

ということで、今回は『脱出行』(通販中^^;)の設定で、本誌よりほんのちょっと前の二人を書かせていただきました。

どうしてもキリコが枯れ葉舞い散る下で美青年とキスするシチュエーションを思いつくことができず、苦し紛れにこんなことに。

格好いいたらしのキリコじゃなくてすみません〜!

ジョナサンはBJ先生の推測どおり、本当にただの使いっ走りです。