船内
苦しくて目がさめた。
暑いのか、のどが渇いたのか。
とにかく水を、と身じろいだとたん、痛みにうめく。
肩が痛い、腕が痛い、足が痛い。
そして腹に差し込むような痛み。
丸まることもできずに脂汗を流していたら、額に冷たい感触が落ちた。
手のひら?
髪をすくのが気持ちよくて身を任せているうち体の力が抜け、痛みが少しまぎれる。
それにしてもこの脈打つような腹の痛みは何か。
これもまた動かしにくい腕でそろりとなでると包帯の感触がした。
「気がついたか」
と誰かが言うので
「水」
と答えると
「まだだめだ。口だけ濡らしてやる」
と言う声とともに何か濡れた物が口に当たる。
濡らした布か何か。
こんなのじゃだめだ。
のどがからからで死にそうなんだ。
すぐに離れたのが恨めしく
「もっと」
とねだると
「だめだ、腹を縫ったんだから。明日になったらやるから今日だけ我慢しろ」
と言われる。
苦しくて、熱くて、痛い。
声にならない声でつぶやいたらふうとため息がして
「飲み込んじゃだめだぞ。口の中で溜めるんだ」
と言う声とともにほんの一口にも満たないほどわずかだが、水が口に流しこまれた。
のどがなりそうになるのを我慢して口の中で転がしていくうち、まるで吸収されるようになくなってしまう。
それでも少し楽になったらしく、また記憶が途切れた。
繰り返し夢を見た。
軍隊時代の夢。
俺は某大国の西の片隅で生まれた。
もともとは小さな独立国だったが、昔から某国の侵略を受けたり自治権を確保したりの争いの絶えない地域。
誰もが一生のうちに一度は弾圧を受けると言われる所。
イスラム系が多かったが、俺たちのような混血も結構いた。
ヨーロッパに近いこと、石油のパイプラインであることからどんなに侵略を跳ね除けようとしても執拗に狙われる、不運な一帯。
社会主義崩壊のときに独立を宣言し、ほんの一時だけ幸福に酔った。
独立の時、俺は医者になるために某国の首都に市民として住んでいた。
成績がよく、最新医学を学ぶため推挙されたのだ。
俺は医師になりたかった。
そうして故郷で小さい医院を開き、近隣の住民に頼りにされるような医師になりたかった。
だがそんな医師として埋もれるより薬学の研究者になるよう勧められてもいた。
某国での医師の地位は低い。
人に一番尊敬されるのは技術者。
コンピュータや精密機器を扱う技師だ。
研究者は技術者に近い待遇を受けられる。
少数民族の地に生まれた人間にこのような待遇を受けるチャンスはそうそうない。
故郷に戻ろうと思いつつも、このままここで研究者として暮らすのも魅力的だった。
ぐずぐずためらっている内に、故郷への侵攻が始まった。
国としての独立を許さず、対外的には『内乱の鎮圧』という名目を押し通し続けたので、国連も『内政干渉』できなかった。
真実は大国の侵略だというのに。
ちっぽけな地域の『秩序の回復』をするなんて簡単だと思ったのだろう。
訓練もされていない若者を多数徴兵して戦地にやった。
まさか自分がその中に組み入れられるなんて。
少数民族は軍隊の中では肩身が狭い。
しかも侵攻される側出身の人間ともなると、毎日が悪夢だった。
リンチまがいの訓練を受けたし、夜には何度も男たちの餌食になった。
でもそんな新兵はほかにもいたし、死んだやつは『訓練中の事故』として闇に葬り去られるのみ。
軍隊の規律はなっていなくて恐ろしいほどだったが、そんな事も戦地に行くまでの我慢だと慰められた。
うとうとしてははっと目覚める。
身じろいで激痛にあえぐ。
そのたび口に滑り込むわずかな水。
額に置かれる冷たい手。
現実は厳しかった。
住民がゲリラ化して戦うため、民間人もゲリラもなく無差別攻撃されていた。
あの集落がゲリラをかくまっている、という情報があるとその集落を包囲し、その集落の10歳から60歳代までの男性を強制的に連行し、尋問という名の暴力を振るう。
この集落に100丁の武器が隠されているとの情報がある、と包囲し、その数だけの武器を差し出さないと『武器を探す』という名目の略奪が始まる。
兵隊には薬が支給された。
いわゆる『恐怖心をなくす』薬、『回りすべてが敵に見える』薬。
そんな『薬』を処方するのも医師の役目。
本当は処方なんてきれいなものじゃない。
命令されれば出すだけの、無力なただの薬箱の管理者。
渡せば一方的な虐殺が始まるのに。
気づくと皮膚が乾燥していた。
汗もかかない。
体が熱い。
「ほら」
さっきの声が俺の口に、今度は2度3度とスプーンを運んでくれる。
「傷が腹だから本当は慎重にしたいが、脱水症になるといけないからな。点滴ができないんだ。この一晩だけ乗り切れ。そうしたら楽になる。」
低い声と額の手につかの間安心してまた悪夢に戻る。
傷を負い後方に移されたそこは捕虜収容所だった。
そここそが本当の地獄絵図だった。
俺は人体実験の場にいた。
口封じの場。
収容所の外には2度と出せない秘密の場。
枯れ葉剤、黒死病、そんなものから毒性を強化したものを植えつけられたものたちを観察し、報告する。
人がどんな風に生きながら崩れていくか。
どんな残酷な死に方をしていくか。
精神の崩壊を見せた医師は、ある日急にいなくなる。
忽然と。
うなされて手を伸ばすと誰かが俺の手を取った。
すがりつきたいが力が出ない。
ほんの少し力を込めると握り返された。
その手を頼りに悪夢に戻る。
「一思いに殺して」という人、もう言葉も発せられなくて目だけで訴えかける人。
目も開けられずにただ弱々しく苦しみもがきながら死という永遠の安らぎをただ待ち続ける人。
そんな人を能面のような顔で観察していく俺。
もうやめてくれ。
もうこんなことしたくない。
いっそ狂って実験される側になったほうがどんなに気が楽か。
その先に地獄の苦しみしかなくとも。
突然実験体がばたばたと死んでいくのと俺との間の相関関係などすぐにばれ、尋問と拷問の日々が始まった。
ゲリラのスパイと断定されたのだ。
生まれを考えればそう勘ぐりたくもなるだろう。
情報を搾り取ろうと手を変え品を変えいろいろされたが、あいにくそんな物、チリほども持っていなかった。
奇襲をかけたゲリラからもそう思われたなんて、馬鹿みたいな話。
「意識がはっきりしていないのか?」
と俺を覗きこむやつがいる。
見覚えのある声、見覚えのある顔。
でもどうしても思い出せない。
まぶたを開けていられなくて閉じる。
亡命するしかなかった。
俺は軍から見ても故郷から見ても裏切り者だった。
故郷の村は掃討作戦で全滅したという。
そのとき母も死んだらしい。
だが、こんな俺を見ずに死ねたのは逆に幸せだったかもしれない。
父と妹は父の病気のために他国に出ていたから無事だったが、再会した時には彼らの知る俺ではなかった。
俺は安楽死をし続ける。
死にたくて死ねない人のために。
あの時死ねずにもがき苦しんだ人のかわりに。
故郷の争いは利権争いやテロ組織まで入って泥沼化し、すでに人口の20パーセントが殺されたという。
「寝汗がひどいな。痛むときには言え」
という声とともにかけられたものがはがれ、重いまぶたを上げるとすごく天井の低い部屋の中だった。
収容所、と一瞬思い、すぐに違うと思い直す。
不安定にゆらゆら揺れるここは。
「今度は本当に目が覚めたか。ここは小型船舶の中だ。一応助かったらしいぞ。」
と奴に声をかけられ、それまでのことを思い出した。
「ほかに誰が助かった」
と聞くと、少し辛そうに
「俺とお前、それにミドリという女だけだ」
と言われる。
「俺を撃った男は」
と訊ねると
「あいつは死んだ」
とだけ返される。
「島が爆発したような気がしたが」
と問うと
「ああ、だからあの細菌も死滅しただろう」
と答えられた。
ではあの細菌兵器は闇に葬ることができたのか。
ダイダロスグループの総元締め、あいつだけはこの手で引導を渡さずにいられなかった。
あんな兵器をもしあの国が手に入れたとしたら。
それどころではない、世界が俺の故郷のように荒廃してしまうようなものを誰かが保有するなんて。
でも、一人だったら見ない振りをしてそのまま去ろうとしただろう。
亡命したときと同じ。
ちっぽけな自分にできることなんかないとあきらめて。
「なるべくそっと拭くけれど、痛むときは言え。骨折はしていないようだが、かなり高場から落ちたからひび位は入っているかもしれない」
手早く体を拭かれながら、さっきの手はこいつだったのかと思う。
冷たいけれど、心地よい手。
こいつはどんな奴なんだろう。
他人に好奇心を持つなんて、何年ぶりだったか。
俺の中で死んだと思っていた何かがひそかに頭をもち上げるのを感じた。
映画中キリコがBJに紹介されるとき「彼は戦争中、細菌兵器の患者を診た経験がある」というようなせりふがあったと思いますが、そこからの妄想文です。
ほかのキリコとは設定が違います。
映画では戦争中に兵隊に安楽死を施したと言っていたじゃないかという部分は「人は二番目につらいことは言えても一番つらいことは言えないものだ」ということでお許しいただければ幸いです。