馴れ初め
車を転がしながら、俺は愉快な気持ちだった。
さっきまでの最悪な気分が嘘のようだ。
これは死にたがりの子供の面倒を押し付けてやったせいだけじゃない。
あいつのあの顔。
思い出しただけでも愉快になる、歯をむき出して怒鳴る様。
頭から湯気を出してにらむ顔。
面白い。
最初会った時には二つ名のごとく、死に神の化身そのものの冷たい仮面をかぶっていた奴は、いつのまにかその仮面の隙間から表情をこぼすようになっていった。
患者の重なる奴と俺は、まるで宿命のように何度も出会い、いがみ合い、口論した。
正直、俺の治した患者が事故で死んだ時、居合わせたあいつに哄笑されたときにはちくしょうとしか思えなかった。
親を自分の手で楽にしてやりたいからと早まった真似をされたときには、やり切れなさでいっぱいになった。
だが治した患者が急激に老人になり、俺が自分の驕りに気づいたその時、こいつも肩を震わせて嘆いていた。
患者は勝負の道具ではない。
俺たちはあの時、そのことに初めて気づいたのだ。
俺たちは己のことを、本物の神や死に神だとでも思っていたのか。
今思えば、多分あの時初めて俺はあいつを医者だと認めたのだろう。
それまで憎くて許せない思想の商売敵だったあいつのことが、気になるようになったのだから。
俺はどうも気になる人間を追いかけてしまう癖があるようで、空港で見つけた男を追って同じ飛行機に乗ってしまったこともあった。
あの時はオペを横取りしたりして、俺も子供じみたことをしたもんだと思う。
自分の手腕を見せて気を引こうなんて、子供のころにやればかわいげもあるが、大の大人がやることじゃない。
奴の妹が来た時、俺はまた奴の邪魔をしてやれると心のどこかでうきうきしていた。
まさか患者が奴自身だったとは。
気が立った手負いの獣のような男に少々手を焼いたが、取り乱したあいつの姿にぞくぞくしていたのは事実だ。
しかも俺が何とかしないともうこのぞくぞくにも会えないのだと思うとオペの集中度がいや増しに増した。
多分この頃から俺はこいつに特別な執着を持つようになったのだろう。
症状が安定するまでの10日ほどの間に初めてみたプライベートな顔は、存外若くて驚いた。
もしかしたら、こいつは俺よりずっと若いのかもしれない。
地獄は人間を老けさせる。
10に満たない俺の内面がどれだけ変貌したか。
少年時代の俺はさぞかし不気味な子供だったことだろう。
年とともに俺はそれと折り合いをつけ、又周囲も老けてくれたので同化がたやすくなったが、こいつのそれはまだ生々しいのかもしれない。
それからの俺は、もうまったく何はばかることなく奴に突進していった。
お前の安楽死は、じゅくじゅくとただれた傷だ。
傷口ばかりを見るんじゃない。
そう言いたくてたまらなかった。
ニューヨークで奴に会った時のことは、一生忘れられそうにない。
あんなごみごみした異国の町で、なぜ俺たちは会えるのか。
これはもう、運命としか言えないのではないか。
たった1時間の猶予を、俺たちは走った。
極限の間延びしたような、凝縮しつくしたような奇妙な時間の中で、俺たちの心は確かに触れ合った。
俺も医者のはしくれだ、というあいつの言葉が今でも耳に残っている。
病院の屋上から見るニューヨークの夜景が妙にきれいで、思い切って飲みに誘った。
帰り際、連絡することがあるかもしれないから、と住所と電話を交換してから、時々飲みに連れ出したり、酒を持って奴の家に突撃したりしている。
あいつも時々うちに来るようになった。
どうやらピノコに妹の小さい頃を重ねているのか、彼女の相手を嫌がらずにするので、奴の株は急上昇中だ。
相変わらずあいつは安楽死をしているが、あの子供を殺すことはないだろう。
今の
「俺の仕事は神聖なんだ」
と怒鳴るようなあいつなら。
いつの間にかそれだけの信頼をするようになった俺自身が、本当は一番変わったのかもしれない。
すっきりしたところで日常の生活に戻り、往診だのオペだの取立てだのの日々を過ごしていると、あいつから電話が来た。
電話から耳を遠ざけないとならないくらい、ものすごい剣幕だ。
損害賠償だの、この責任はだのという大嫌いな言葉を聞き流しながら、大まかな言い分を聞く。
とりあえずあの子供は死にたがらなくなったようだし、回収にいくか。
死にたがりの子供をキリコの家に連れて行くなんて、俺には先見の明があった。
厄介払いどころかあいつの商売道具を壊すことが出来たとは、これぞ一石二鳥だ。
という思いが出ないよう、なるべく冷静な顔を作りながら子供の話を聞いた。
女性患者は一目見ただけで死期が迫っていることが明白だったが、新鮮な腎臓提供者はいることだし、先日考案した手順は拒絶反応がほとんど起こらない画期的な方法だ。
あの手法を使えば移植に成功することだろう。
いつもの同窓生に連絡して、オペ室を借りる。
昔はたくさん無茶をしたもんだが、正直うちで移植をすると、その後無菌を保つのが大変なのだ。
あいつは恩着せがましいことを言うが、世渡り上手で医師会の受けがいいし、この間難しいオペを代行してやったから後2、3回迷惑をかけてもおつりが来るはずだ。
1週間後、上等の酒を持ってあいつの家に行った。
あいつは俺の顔を見ると
「お前か。その顔はオペが成功したんだな」
とあきらめたように1歩下がり、部屋に入れてくれた。
酒を渡しながら
「どうだ、装置は直ったか」
と聞くと
「そんなに簡単に直るような単純な機械だったら良かったんだがね」
とちょっと恨みがましい目をする。
畜生。
今の俺にはこの目が拗ねているようにしか見えない。
どこでどう間違ってしまったのかわからないが、この顔色の悪い、ノーメイクでお化け屋敷の従業員が出来そうな男に俺は惚れてしまったらしい。
やはり極限の中の共同作業が効いたのだろうか。
それともあの孤島の10日間二人きりの時に悪いものでも食べてしまったのだろうか。
人間顔ではないとはいえ、いや、この顔ももちろんいい顔だと思うがどこをとっても男、しかも俺より老けて見えるおっさん顔の男をつまみに飲む酒が一番うまいと思う俺は、何かが吹っ切れてしまったのかもしれない。
それどころか酒以上の事がしたくてたまらず、男同士の性行為についてまじめに調べてしまったと言ったら、こいつはやはり引くだろうか。
引くだろうな。
引かれてもいい、だめなら又方策を練ってこいつの仕事の邪魔から始めればいいんだ。
キリコが聞いたら怒りそうなことを考えながら、ソファに並んで座る。
一人掛けの方に移動しようとするキリコを押さえて、俺の左に。
逆に座っては目が見えない。
「何でお前はぎゅうぎゅうに座るのが好きなのかね」
と言う男は、わざとらしく一つため息をつくと、それでも居心地いいように座り直した。
袋から取り出した酒瓶を見て
「へえ、詫びの印か? お前にもそのくらいの常識はあったと知ってほっとしたよ。でも損害賠償の請求はしっかりするからな。何しろ俺はあの子供のせいで商売上がったりなんだから」
と表情をほころばせつつ丁寧に封を開ける。
俺にとっても取って置きの酒だからな。
グラス2つに慎重に注ぎ、片方を手に取り電灯に向けて透かし見る。
「奇麗な色だ」
と感嘆してからグラスを鼻に持っていき
「香りもいい」
とうっとりするのに
「お前の方が綺麗だ」
という歯の浮くようなせりふが思い浮かんでしまい、流石にそれは引くだろう、と我慢していると
「お前は飲まないのか」
と怪訝そうな顔をされた。
あわてて一口含んでむせそうになり、それから慎重にちびちび飲む。
あわてて飲むには惜しい酒だ。
俺のことなんて視界に入れてないようなのに、グラスが空になるとタイミングよく持ち上げられる瓶。
穏やかな気配。
やはりあの知識はしばらく封印しておいたほうがいいかもしれない。
せっかくここまでこぎつけたのに、また振り出しからもう一度、はつらい。
やっと喧嘩なしで話せるようになるまでだってあんなにかかったのだ。
こんな風にうまい酒を楽しめるだけでも今は十分じゃないか。
どんなにいい酒だって、一人で飲む時にはただの酒でしかないんだから。
ソファにゆっくり座り直して舐めるように飲んでいると、キリコが口を開いた。
「ブラックジャック、お前は本当におせっかいだな。こんなチンケな安楽死医なんて放っておけばいいのに、こんな風に付きまとって。確かにお前はすごい。俺はお前に会うたび自分の未熟さを痛感するよ。この間のあの患者だって、俺は手を尽くしたつもりだった。もう消極的な治療しかできないと見極めて、患者が満足したところで安楽死を施すつもりだった。なのに」
大きなため息。
「でも俺は安楽死をやめないよ。彼女は莫大な遺産があったから移植を繰り返すことができたが、普通の人間には無理だ。病院の中で無為な寿命を生きる老人もいる。医学の進歩のおかげで、逆に機械にがんじがらめになって生きているだけの人も。
彼らは死にたい、死なせてくれ、と俺に頼んでくるんだ。これでやっと死ねる、と涙を流して喜ぶ人がどれだけいるか、お前は考えたことがあるか」
沈黙が落ちる。
その横顔はこの間、夢に見たキリコそっくりだった。
追いかけても、追いかけても捕まえられなかったあの時のもどかしさがよみがえる。
「とは言ってもお前のおかげで俺も変わったとは思う。お前もそう思うからあの子供を押し付けたんだろう? 何しろ俺は昔、自殺したい奴は殺してやったほうが社会とそいつのためだと思っていたんだからな。
けどもうそんなことはないんだから、俺のことなんか気にしないでいいんだぜ」
グラスを置いてこちらに穏やかな顔を向ける男の言葉に、我慢できなくなった。
グラスをあおってテーブルに置き、その勢いで男の肩を抱き、一瞬唇を合わせる。
固まった体からわずかに離れ、驚く顔に
「こういうことだ。悪いか」
と言って、もう一度、今度はさっきよりしつこく唇を合わせる。
男の体は一瞬抗いをみせたが、ふと肩の力が抜けたのがわかった。
そっと俺の背に手が回ったのを了解と解釈して、舌を差し込む。
キスは、今まで飲んでいた酒の味。
だが、この酒はこんなに甘かっただろうか。
薄目を開けるときょろきょろこちらを伺う片方だけの目と合う。
左手の親指でまぶたに触り、そっと目を閉じさせ、もう一度。
そげた頬が俺の舌でいびつにゆがむ。
それを指で感じながら、頤を両手で掴んで離さない。
離れた時には、俺の息は切れていた。
目の前の男も普段より顔に赤みがある。
「ブラックジャック先生がこんな趣味だったとはね」
と皮肉を言う男の呂律が回っていない。
「本当に自分の趣味の悪さにはうんざりしているよ」
と言いながら男の髪の毛に指を差し込み、頭の形を辿ってみる。
いつの日からか、この髪に触りたくて仕方なかった。
男はしばらく俺の眼を覗いていたが、急に目元を赤くすると
「おい、よせ。たちの悪い冗談じゃないのか」
と頭を振って俺の手をどけた。
いったん引くか。
「残念ながら、冗句のセンスはなくてな」
と言いながらグラスを取り、口元に運んでから中を飲み干してしまったのに気づく。
間抜けなことを。
俺も動転しているのか。
酒瓶を取ろうとテーブルを見回すと、キリコが自分のグラスに酒を注いでいるところだった。
そのまま
「ほら」
と俺にビンを突き出す。
「どうせならさっきみたいに注いでくれよ」
と言うと
「なんてずうずうしい奴なんだ」
とぶつぶつ言いながらもグラスに注いでくれた。
「そりゃアどうせなら惚れた奴のお酌で飲みたいじゃないか」
と言いながら口をつけると
「ぶは」
とむせる音。
グラスを置き、激しく咳き込む男の背中をさすりながらさり気なくグラスを取り上げる。
咳が納まる頃には男の肩に俺の腕が回っている。
もちろん女のようなもろさはないが、思い描いていたより薄くて少々驚く。
顔を覗き込むようにしながら
「お前の返事は?」
と耳元でささやく。
男の肩がぶるりと震えたのがわかった。
「人の耳元で」
と身じろいで耳を押さえ、俺から離れようとする体にのしかかり、逆の耳に
「返事、聞かせろよ」
と吹き込む。
こいつが目をそらす前から、答えなんてもうわかっていたけれど。
こうして俺たちの関係には、もう一段重みと厚みが加わったのだった。
90000HITのきりリクは『キリコが死に神から医者に認識される馴れ初め(ジャキリ)』でした。
死に神から医者に認識される馴れ初めからジャキリまでの距離が遠くて・・・色々説明ばかり増えてしまい、ジャキリが少なくてすみません。
『小うるさい自殺者』の中でキリコはBJを『おまえ』と呼ぶのにBJはキリコを『おまえさん』と呼ぶことからの若キリコ妄想です(^_^;)
西様、リクエストをありがとうございましたv