猛暑

 

 

今年の夏は暑い、らしい。

らしいというのは、正直言って俺には良くわからないからだ。

外出時には必ずコートを着用。

それが一種のルールになってしまっているので、外出時の俺は意識的に体感温度を一定に感じるようにしているらしい。

 

俺がコートを着続けるようになったのはいつからだったか。

病院に勤めていた頃は普通の人間と同じ格好をしていたから、BJと名乗るようになってからだ。

闇で仕事をすると決心した頃は冬だったから黒装束も不自然ではなかった。

けれど春になり、夏になっても俺はコートを離せなかった。

それは俺を外界から守ってくれる、大事な皮膚と化していた。

 

心頭滅却すれば、火もまた凉。

という言葉があるが、あながち間違いではない。

これさえ着ていれば、最低限の治療ができる。

どんな危難にあっても、何とかなる。

 

もしくはこれは、影法師。

普通の格好では悪目立ちするこの姿も、黒装束なら目立たない。

闇の世界の人間なら、どんな容姿でも黙認される。

 

そういう自己暗示が働いているのか、夏場でも装束を脱ぐ気になれなくなっていた。

着ていなければならないとなると、不思議と汗などかかないものだ。

飛び込みのセールスマンの中にも1年中スーツを着こんで汗ひとつかかずに歩き回っている人間がいるが、ああいう人間を見ると「同類だな」と思う。

気を張っていれば、人間そんなに汗をかかない。

とりあえず、顔は。

 

急に涼しい場所に入るとシャツや下着が汗で濡れているのに気づくこともある。

そういう時は勧められてもコートを脱がない。

脱いだ途端に汗の匂いがする、なんて最低だから。

冬場のほうが、外に出た時の寒さを考えて脱ぐことが多いくらいだ。

 

万一塩でも吹いたら困るので、汗をかいたらこまめに洗濯はする。

なにしろクリーニング屋が定期的に御用聞きの電話をかけてくるくらいだ。

辺鄙でも、それなりに見返りがあるからだろう。

ハンカチは基本的に2枚持ち、汗がにじむとたまにぬぐう。

2枚目は予備だ。

だが、今年は2枚目を使うこともたびたびあったので、確かに暑いのかもしれない。

 

そんな俺もさすがに家では上着を脱ぐが、基本的に急患がいつ来てもおかしくない仕事なので、緩めていてもタイ位はつけていることが多い。

衣服の緩みは心の緩み。

それに俺がだらければ、ピノコもそれでいいと思うだろう。

俺なんぞが人の規範になれるはずもないが、あの子は女の子。

いずれ誰かを好きになった時に、相手の親に「だらしない子」と思われるようではあの子も不憫だ。

だから朝食前には必ず洗顔し、ひげをあたり、きちんと着替えて。

夕食後はタイを取っても、就寝近くに入浴するまでパジャマにならないことが多い。

 

何年か前までは石造りの自宅に冷房など必要ない、と思っていたが、今はいくつもエアコンがついている。

ピノコは常人より体温調節がうまくいかないし、患者の部屋にエアコンがないと余計に衰弱してしまう。

だからオペ室と病室のほか、居間と彼女の寝室にはエアコンをつけた。

けれど自室はエアコンなし。

昼間かけない分、存分に汗をかいて眠る。

汗ぐっしょりになって起きて、熱めのシャワーを短時間浴び、さっと出る。

着替える前、5分だけ扇風機に当たる。

そうすれば今日1日、昼間汗をかかなくても健康に暮らせるのだ。

 

だが、そんなある意味清い? 生活をしている俺を悪の道に踏み込ませようとしている輩がいる。

その名はキリコ。

俺の天敵である。

 

あいつからの電話は、いつも唐突だ。

「今夜、来いよ」

「今、あいてないか」

そんな電話にうなずいてしまう、俺は本当に馬鹿だ。

そんな誘い、放っておけばいい。

そう思うのに、患者の予定が入っていない限り、俺はのこのこ出かけてしまう。

 

会う場所は、たいてい奴の家。

うちに来ることもあるが、それは夏以外。

俺の部屋にエアコンがないからだ。

ついでにエアコンのある部屋でも設定温度が高すぎるらしい。

外気温との差を5度以内に設定しているので、猛暑の季節はエアコンをつけていても下手すると30度以上になるからだ。

本当は健康の為にはこのくらいの設定が一番だと思うが、奴の故郷は夏でも涼しかったので我慢できないらしい。

「エアコンをつけた部屋くらい、涼しくしろ」

とうるさいが、俺の勝手だ。

 

 

車を降り、チャイムを鳴らすと

「開いているから、入ってこい」

と声がした。

相変わらず無用心な奴だ。

ドアを開けると、鼻をくすぐるうまそうな香り。

「おう、ちょうどモツを煮た所だ。こういうものは、一人分作っても全然うまくないからな。上着、そこにかけてこい。居間で食おう」

そう言われ、コートとスーツをかけると皿を渡され、居間に向かう。

ソファの前のローテーブルには、すでに簡単なつまみが載っていた。

部屋は冷房がキンキンにかかっていて、ずっと上着を着ていた俺には少々寒い。

「お前、設定温度が低いぞ。この環境破壊者め」

とののしるが

「料理を作るのは暑いんだ。今日は俺の家なんだし、俺の設定どおりにさせてもらう」

と返されると何も言えない。

こいつのモツ煮は俺の大好物なのだ。

それを知ってから、こいつはちょくちょく作ってくれる。

でも作るのは、確かにすごく暑いはず。

ピノコだって、夏場に煮物なんて絶対に作らない。

仕方ないか。

 

酒とつまみを囲んでしばしの歓談。

いや、二人でいてもそんなに口数が多くはならない。

ぽつんと話す言葉にぽつんと一言返す、そんな雨だれのような会話。

けれどそれが心地いい。

うまい酒、うまい肴と相まって、緊張が解ける。

 

奴が席を立った。

テーブルを廻って、俺の側に来る。

こいつは最初から俺の隣に座る事は余りない。

一応普段は日本人の距離感を大事にしているらしい。

けれど酒が入ると本性が出てくる。

こいつは、触りたがりだ。

 

こいつはロシアの血が混ざっているからか、とにかくスキンシップが好きなのだ。

コサックはヨーロッパ人すら嫌がる、男同士のキスが挨拶の民族なので、もしかしてそっちの血も混ざっているのかもしれない。

 

俺の隣に座ると、すぐにべたべたが始まる。

当然のように解かれるタイ。

「何するんだ」

と言っても

「窮屈だ」

とテーブルの端に置かれてしまう。

そして

「箸が止まっているぞ。ん?」

と食べるよう、促す。

確かにこういうのは熱い内がうまいのだが、当然のように肩や腰に廻る手が気になって仕方ない。

 

それでも満腹する頃にはその手に慣れている。

余りに寒いからだ。

冷房の良く効いた部屋はまるで冬のように、寒い。

熱い物を食べていても、酒を飲んでいてすら寒いと感じる。

だから腰にあった手が肩から頭にかかり、なでられると気持ちよくてつい、頭を男の肩に乗せてしまう。

だらけた体勢で酒をちびちび舐めていると、なんかうっとりするほど気持ちよくて。

頬をなでられても、顔の傷を指で辿られても、嫌な気分にはならない。

 

時々はキスもされる。

最初はびっくりして手が出そうになったが『挨拶だろう』と言われてからは控えている。

こういう文化の人間なら仕方ない。

俺は日本人なので本当はこんなことをしたくはないはずなのだが、なぜか仕掛けられると答えてしまう。

死神相手に挨拶なんて笑ってしまうが、どんどん熱烈な挨拶になっているのではなかろうか。

酔っているせいもあるが、そんな時には今までのいがみ合いなんてジョークだろうとしか思えなくなる。

案外あいつも、俺のそんな反応がおもしろくて仕掛けてくるのかもしれない。

さすがにコサックだって、よほど親しくなければ舌まで絡めないんじゃないかな。

何度も挨拶を繰り返すうちに酔いが回り、いつも最後は夢との境界があいまいだ。

 

そんなこんなでいつもソファの上か床の上で、毛布に包まって震えながら目覚める。

寒かったせいか変な夢を見るし、だるいし、ひどい時にはのどがいがらっぽくなっている。

それにも増してつらいのは、一晩ですっかり体が冷房に慣れてしまい、普段の服装をまとうのがかなりつらくなることだ。

正直、この家から出るときほどコートが重いことはない。

汗がだらだら出て、スーツ一式クリーニングに出す羽目になる。

それなのに、なぜまた来てしまうのか。

 

 

奴が横に来たときにはまたいつものパターンかと思っていたのだが、今日は何かが微妙に違った。

キスがいつも以上に長い。

それは気持ちいいからいいのだが、なんか胸元がもぞもぞする。

なんだ? と手を胸元に持っていくと、なぜか地肌に触れてしまった。

あれ、ボタンでも落としちまったかな、とぼんやり考えているうち、かちゃかちゃと金属音もし始めた。

ベルトか?

別に苦しくないから、緩めなくてもいいんだけど。

 

わき腹をなぞり上げられ、大慌てでキスを振りほどいた。

「な、なんだなんだ」

と言う俺の顔を面白そうに見ながら、死神の動きは止まらない。

「そろそろ慣れてきただろう」

と言いながら、どんどんシャツをはだけ、べたべた触っていく。

確かに今までもわき腹だの、胸だの触られたことはあるし

「ここ、乳首だろ」

とシャツの上からひねられたこともある(いわゆる「乳首探しゲーム」という奴だ。学生時代にやっていた奴らがいるだろう?)が、こんなふうに地肌に触られたことは。

大体、これではまるで性交渉のようではないか。

 

いつの間にか俺の体は半ばソファに倒されていた。

俺に馬乗りになった状態の死神が薄笑いを浮かべながら

「怖いか」

と問う。

条件反射的に

「怖いもんか」

と言ってしまったのは軽率だった。

きっと酔いが回っていたのだ。

それともいつもの夢と酷似していたので、つい流されてしまったのだろうか。

 

 

翌日、俺はいつもどおり床で目覚めた。

隣の男に抱え込まれるように寝ていたため寒くはなかったが、体は普段以上に重く、だるい。

のどがいがらっぽいのは、普段のように風邪のせいではない。

なんてこった。

それもこれもここの冷房が効きすぎているせいだ。

 

出る前にコートを取ろうとしたら、タッチの差で男にさらわれ

「かけてやる」

と背後に回られた。

肩にかかったのはいつも馴染んだ重さだけではなかった。

 

その日から2、3日はコートを羽織ろうとするとあの時の抱擁を思い出してしまい、結局着られずに腕にかけて通した。

会う人が皆、判で押したように

「先生がコートを羽織られないなんて、今年の猛暑は本当にひどいですな」

と言う。

それにあいまいに答えながら、別に暑くはないんだがな、と心の中でつぶやく俺だった。