目薬
奴に目薬をさした。
普通のものではない。
瞳孔を開くためのもの。
害があるわけではないが、焦点が合わなくなるので一時的に盲目の状態になる。
目隠しと同じ。
「目が赤いぞ」
とうそをつき、だまし討ちのようにさした。
「何をした」
と怒る奴に
「目には目をって知ってるか」
と言うと、不機嫌そうに黙り込んだ。
別に俺がされたことをそっくり返そうとまでは思っていない。
でもあの日から、夜電気を消して眠れなくなった。
眠りにつくことはできる。
だが夜中目を覚ました時、奴の気配を探してしまう。
ただの闇なのに、目隠しされて放置されているような寄る辺ない気持ちになる。
服を切り刻まれた時のような平衡感覚の狂っためまいに襲われる。
いくらもう一度寝ようとしても、その後にあった恥辱の時間を思い出してしまう。
あいつにすがり付いて
「離れないでくれ」
と泣き叫んだ。
「お前の内臓の色も形も、手触りまで知っている俺相手に何を隠せると思う」
とささやかれ、あられもない声を上げ、何度も達した。
何度思い出しても体を切って捨てたくなる。
薬のせいもあったかもしれない。
奴と寝たことは何度もあったし、抱かれたことだって初めてじゃない。
それでも。
俺が、そんな、まさか。
こんなもの、他の記憶に塗り替えなければ。
手を取って無理やり立ち上がらせて、室内を目茶苦茶に引っ張って歩かせる。
そのあと何度かぐるぐる回して、部屋の真ん中で手を離した。
目を回したのだろう、ぺたりと尻餅をつくのを見ながら「逃げろよ」と言う。
「俺はお前ほどお前のメスに慣れていないから、服だけじゃなく、中身まで切っちまうかもしれない。いや、使うのはメスだけとは限らないぜ。何しろ俺の本業は安楽死だからな」
と、奴の胸元を切ってみせる。
動かない奴にじれてメスの背を首筋に当て「頚動脈を切られてからじゃ遅いだろ」とささやく。
動け。逃げろ。おびえてみせろ。
そう思うのに奴は虚空をうつろに見つめたまま動かない。
乱暴にリボンタイを解く。
メスを使ってシャツのボタンを跳ね飛ばす。
シャツやズボンを少しずつ切り刻んでいく。
皮膚をほんの少し掠めただけで血の粒が見る見る膨らみ、シャツの残骸が赤く染まる。
何箇所か手が滑りそのたびに浅手を負うのに、奴はほとんどうめきもせず、彫刻のように固まっている。
白いシャツに少しずつ赤い色がついていく。
戦争で、麻薬を服用して暴れる兵士を何度も見た。
恐怖心をなくすために支給されるのだ。
人によって無敵感にあふれたり、逆に被害妄想になったりするらしい。
無力な一般市民を狂ったように虐殺していく。
何人も、何人も。
隠れん坊の鬼のように探し回っては、どんどん引きずり出してきて。
ここはあそこで、俺は今虐殺をする側に回っているのか。
手の中のメスをもぎ放すようにして、部屋の隅に放り出す。
動け。逃げろ。怖がってくれ。
でないと俺は取り返しのつかないことをしてしまう。
殺すとか。
一生メスを握れない体にするとか。
ほら、首に手が伸びた。
頚動脈の位置なんてよく知っている。
耳の真下に近い、ここ。
軽い力でもここを抑え続ければ、簡単に人は失神する。
血流を留め続ければ脳が死に、しばらくすれば綺麗な死体の一丁上がり。
そして。
俺はその後どうするんだ。
目の前に奴の死体が転がって。
そして俺は抜け殻になる。
死んだ抜け殻と生きたままの抜け殻が1つずつ。
どちらが先に朽ちるだろう。
気がつくと俺の手は奴の首から離れていた。
奴の手が俺の両手首を握っている。
強く引き剥がされたのではないだろう。
その証拠に、奴の握り方も優しいと言っていいほど。
「馬鹿な奴。お前にだまし討ちは似合わないな」
と言う奴の瞳孔が、いつの間にか狭まってきている。
まだ焦点はうまく合わないようだが、ぼんやりとは見えているのだろう。
もう薬の効き目が切れてきたのか。
体を引き寄せられて、お互いの顔が近くなる。
頬をぬぐわれて、自分が涙を出していたのに気付いた。
なんだって俺はこう。
「お前にサディズムの傾向はないな。仕事でどんなに冷酷に振舞っても、それは相手の心を思えばこそのことだ。お前は単に楽しむために誰かをいたぶることなんてできないんだよ」
ずばりと言われて急激な疲労感に襲われる。
そのまま口付けられても、もう撥ね退ける気力は残っていなかった。
「この間は悪かった。お前、そんなに怖かったのか。でも、そんなことしたらまた報復があるとは思わなかったか」
そう言われても後頭部が遊離したようにしびれて、もう指一本自分の意思で動かせない。
「お前の弱点は、自律神経の弱い所だな」
と言いつつ奴が俺の服をゆっくり剥いでいくのを他人事のように眺めながら、もうだめだと思った。
さらけ出される。
逃げ場がもうない。
奴は、まるでオペを行うときのように恐ろしく丁寧で的確だった。
「怖がるな。そんなにひどいこと、してないだろう」
と言うが、それこそが恐ろしいのだ。
俺も見たことのない俺の中まで知っている男。
俺よりも俺の反応を知っている手。
その男の手に狂わされる。
俺が俺でなくなる。
それともこれこそが俺の浅ましい正体なのか。
世の女性は何でこんなことが平気なんだろう。
神経が焼切れる。
朦朧として目も開けていられなくなり、なすがままになっていると
「最後の矜持まで俺にくれというんじゃないんだ。ほんの少し、素のお前を見せて欲しいだけなんだ」
と言う声が聞こえた。
何とかしてもう一度目をあけたら、もう焦点もしっかり合った真剣な瞳が俺を見つめていた。
「本当に、それだけでいいんだ。俺はこうやって抱きたいけど、もしもう抱かれるのが嫌なら俺がずっと下になってもいい。どうしても寝るのが嫌なら、たまに会ったときに一緒に食事をしたり、酒を飲んだりするだけでもいい。だから離れていかないでくれ。俺を抜け殻にしないでくれ」
そして答えを待つように口をつぐんだ。
俺は答えず又目をつぶった。
次に目を覚ますまで、絶対返事なんてしてやるもんか。
その日俺はあれ以来、初めて心ゆくまで熟睡した。
あんなことされてもキリコは何もBJにお返ししないんですか、と毎日のようにメールで言って下さったK様に捧げます。