目薬−B
急にあいつから呼び出されたので絶対に何かあるだろうと思ったが、目を見えなくさせられた。
目薬を指されるとしばらく視界がゆがむものだが、そのまま焦点が絞れなくなる。
一瞬失明かとも思うが、特別痛くはないし光は入るので、多分瞳孔を開く薬だろう。
なら、しばらくすれば視力は戻るはず。
こういうときにはパニックに陥った方が負けだ。
大丈夫。ちゃんと俺の視力は戻る。
戻るはず。
引きずられるように立たされ、ぐるぐる歩き回らされて目が回る。
手を離されると我慢できずに尻餅をつくが、まだ目が回っているし、次に何をされるのかわからないのでうかつには動かない。
落ち着け。
相手の出方を見るんだ。
あいつはよほどのことがない限り、本当の危害を与えはしない。
もしそんなことをするとしたら、それは俺がそれだけのことをしたのだ。
それならもう仕方がない。
思い切った途端、頭の中が冷めていく。
こういうとき、自分の命をなんと軽く感じるものか。
いつもは俺が奴に命のことを軽々しく扱うなと言うのに、おかしなことだ。
命など惜しくない。
いつも重要だと思っている復讐も、患者も、大事なピノコの行く末さえこういう時には大したことではなくなってしまう。
そうでないと負けるのだ。
やせ我慢。
そうかもしれない。
でも矜持、プライド、そういうものを持たずにただ生きていくなんて、俺はごめんだ。
そんなの俺ではないと思う。
服を切り刻まれていくのがわかるが、残念だが俺は場数を踏みすぎているようだ。
ただの暴力なら怖くない。
こういう嵐はやり過ごせ、と脳が体に命令する。
大体こいつはへたくそだ。
性的に攻めるのなら多弁なのもいいかもしれないが、こいつは怖がらせたいと最初に宣言している。
俺ならそんな馬鹿なことはしない。
目が見えない相手なら、放っておくのが一番だと思う。
多分俺なら一番堪える。
放っておかれるうち恐ろしい考えに沈んでいき、パニックに陥るかもしれない。
この間同じ思いをしたはずなのに、わからないのだろうか。
本当にそういったことが、考えられない奴なのか。
本当に、軽い気持ちでやったのだ。
快感にもだえる様でも、泣き顔でも見られれば儲け物、と思ってやった。
いつだって奴は付き合ってやっている、という姿勢を崩さなかったから。
最初から突っかかっていくのは俺だけ。
俺が歯を剥いてののしっても、密告して牢屋にぶち込む真似をしてさえ、奴は感情を全部自分の中に閉じ込めてしまう。
俺にののしり返すことなんてめったにない。
体の関係も俺から誘った。
酔った勢いでのしかかってその気にさせて、でも途中で手順がわからなくなってもたもたしているうち、逆に抱かれる羽目になったが。
それから回数を重ねて今では俺が抱くことも多いが、いつもあいつは乱れない。
結局そのほうが面倒くさくないから付き合ってくれているだけのような気がして、別れた後いつも少し寂しくなる。
何のかの言っても俺にこれだけ付き合ってくれているのだから、自惚れでなく好意もあるんだと思う。
それだけで満足していればいいのに、俺は欲深にもっとと思った。
俺がこんなに体当たりで追いかけているんだ。
もう少し色々さらして欲しかった。
そのためには弱みを握るような真似でもしてやろうと思ったのだ。
そう、こんな風にでもぶつかってきて欲しかった。
切られながらそう思う。
時々メスが体を掠めて、そのたびにピリッとした痛みを感じる。
俺のメスなら結構血が出ているかもな、と他人事のように思う。
このまま失血死してもいい。
今だけは、こいつの心を占めているのは俺だけだろう。
そのことに暗い満足感さえ抱く。
突然うめくような声と共に遠くで金属音がした。
メスか?
そんなことをしたら刃こぼれしてしまう。
そんな場違いなことを思っていたら、首に指がかかった。
最期は絞殺か。
ピノコごめんな。
俺はどうも保護者には向いていないようだ。
お前は聡くていい女になるだろうから、もっといい男を捕まえてくれ。
そんな自分勝手なことを考えていたが、いつまでたっても指の力は強まらない。
手首をそっと掴んで離しても。
そのまま腕を引いて近づけるとぼんやり奴の顔が見えた。
力なく泣いていた。
似合わないことをして。
安楽死なんて死神みたいな稼業をしているから最初はどんなに冷酷な奴かと思っていたのに、知り合えば知り合うほどこいつの別の面が見えてきた。
こいつも俺と同じくらい必死で患者を救いたいと思っている。
その方向性は絶対に容認できないが、それはわかる。
それどころかこいつは俺のように気まぐれに患者を選んだりせず、誰かになじられてもつばを吐きかけられるような真似をされても、ただ黙々と患者の望みに答えようとするような奴なのだ。
窮鼠猫を噛む、ということわざが唐突に頭に浮かんだ。
猫に噛み付いたねずみはうまく逃げおおせたのか。
それとも怒った猫に散々なぶられた挙句食われてしまったのだろうか。
服を剥いでも抱きしめてもどこかぼんやりしている体を抱いた。
こいつのいいところはこの間調べつくした。
パニックを起こしてすがりつくのをいいことに、さんざんあおっていじり倒した。
丁寧に反応を引き出せば、体は反応する。
でもそれだけ。
いつも乱れないのが見下ろされているみたいで不愉快だった。
でもこいつはそうして自分を保っていたのだろうか。
何も話さないが過去に傷を持っているのが容易に想像できる男なのに、俺は今まで気付こうともしていなかった。
報復を覚悟してここに来たつもりだった。
俺は全然わかってなかった。
俺はこいつが怒っているだろう、怒り狂っているだろうとしか考えていなかった。
こんなにこいつを傷つけていたのか。
俺が死んでも失いたくないと思う、そういう同じプライドを持っている奴だったのに、俺はそれを暴こうとした。
だからせめて俺にも同じようになってほしかったのか。
俺の矜持なんて、今はくだらない。
おびえてみせればよかった。
逃げてやればよかった。
そんな演技でこいつが満足したかどうかはわからないけれど。
どんなに丁寧に優しく抱きしめてもこいつがどこかに行ってしまう気がする。
物理的に失踪するだけなら何とかして探し出すことはできる。
自殺だけはしない奴だ。
でももし心が消えてしまったら。
こいつの抜け殻をいくら抱いてもむなしいだけだ。
悪かった。
もう大それた望みなんて持たないから。
薄く目を開けた奴をかき口説く。
お前の矜持を砕くつもりじゃなかった。
ほんの少し、内面を見せてほしかったんだ。
もう俺ばかり押し付けたりしない。
体の関係だってお前の好きな形でいい。
もう抱き合うのが嫌なら、たまに会った時に一緒に食事をしたり酒を飲んだりするだけでもいい。
だから頼む。
俺を置いてどこかに行かないでくれ。
俺を抜け殻にしないでくれ。
奴は何も答えてはくれなかった。
目をつぶった途端、ことりと眠ってしまった。
眼の下に酷い隈が浮いているのに気付いて起こすに忍びず、毛布を探した後はずっと寝顔を見て過ごした。
穏やかな寝顔に一縷の望みを託して。
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