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急な不調

 

 

「ただいま」

誰もいない空間に心の中で唱える。

普段は声に出すこともあるが、今日はその気力もなかった。

深夜の自宅。

こんな時間に帰ってきたのは、依頼に応えてきたからだ。

今日も一つ、命を摘んだ。

俺の仕事だ。

誇りを持って行っている。

それでもこんなに続けざまにあると、少々堪える。

 

手袋を外し、上着を脱ぎ、ネクタイを外し、シャツのボタンをくつろげ。

風呂に入ろうかと思ったが、仕事前に入っている。

疲れているし、もういいか。

洗濯物だけ脱衣室に放り込んで、そのまま2階に上がり、ベッドにもぐりこんだ。

 

そうやって不精をしたのがいけなかったのだろうか。

物音で目が覚めた。

がちがちと、耳障りな音。

聞いているだけで体中に力が入ってしまうようで、不愉快で仕方ない。

眠いのに、何の音だ。

と不承不承目を覚ますと、それは俺の歯が立てる音だった。

 

歯の根が合わない。

ああ、体が冷えていたのか。

帰りの車、ちゃんと暖房をつけたのにな。

まだ10月の初めだ、そんなに寒いはずないのに。

 

縮こまったり布団を抱えてみたりして何とか震えを止めようとしたが、ダメだ。

仕方なくベッドを抜け出して隣の部屋から冬用の布団を取り出す。

こんなのまだ早いと思っていたのに、今日は冷えるんだな。

分厚い布団に包まって、さあ安心だ、と目をつぶったのだが、がちがちとなる歯の根は一向に止まらず、それどころか体全体が震えだした。

 

腹筋が痛い。

肩に力が入って、腕どころか胸や背中まで痛む。

心なしか体温まで下がったような気がする。

あ、これはダメなやつだ。

なんだかわからないけど、これは全然ダメなやつ。

このまま放置したら、体温低下で俺自身が安楽死しそう。

それはダメだ。

3日後にも仕事が入っているんだから。

 

這うようにして1階に下りる。

とりあえず、風呂だ。

シャワーじゃない奴。

風呂釜が多少汚れてようが構いはしない。

風呂栓をセットしてボタンを押し、脱衣室であるだけのバスタオルを体に巻きつけながら、毛布を持ってくればよかったのにと後悔する。

歯が鳴りすぎて、あごが痛い。

体に力が入りすぎて、関節がだるくなってきた。

なんか、インフルエンザの時みたいだ。

あれ、俺インフルエンザとかじゃないよな。

咳も出ないし、のども痛くないし、熱もないんだから、違うよな・・?

 

風呂が半分たまったところで、我慢できずに入る。

ああ、温か、くない。

湯が少ないせいだろうかと足を曲げてなるべく湯の中に体をつけたが、どうにも寒い。

湯がいっぱいになるまで待っても、全然温かくない。

追い炊きをかけるとほんの少し温まった気がするが、追い炊きが止まった途端寒くなる。

温度設定を1度、もう1度と上げるがダメだ。

体の震えは止まっているし、体表は確かに熱いのに、骨の中は氷点下。

42度なんて、今まで浸かった事もないのに。

 

寒すぎてどうしても出る気になれず、そのまま居座っているうちに頭が痛くなってきた。

いつの間にか、湯温が下がっている。

胃がどんよりと重くて、吐き気もする。

やはり風邪なのか。

それなら長湯などせず、出なくては。

 

立ち上がろうとして、できない。

喉が渇いているような気がするので湯を掬って飲んでみたら、口にまずい。

喉が渇いているのに、飲みたくないこの感じには覚えがある。

体が脱水を起こしかけているのだ。

 

これは、まずい。

湯のふちから反対側の腕を伸ばし、ずるずるとまたぎこすように足を上げて、浴槽から這い出た。

バスタオルを引っつかんで肩に引っ掛け、よろよろと台所に向かう。

非常用のポカリのペットボトルがまだ1本残っていたはず。

 

台所のドアから明かりが漏れているのを変だな、と頭の隅では思ったのだ。

俺は基本的に、部屋から出る時に必ずスイッチを切るから。

ノブをひねった先の台所にはゴキブリのように神出鬼没な男がいた。

ラッパ飲みしているのは、俺のポカリだ。

 

ああ。

 

男はペットボトルを口から離すと

「お前さん、いくら自宅だからってはしたない。俺達はいつ、どんな死に方するかわかったもんじゃないんだぞ。俺が殺し屋だったら、とりあえずお前さんを殺した後で思いっきり恥ずかしいポーズを取らせるからな」

と俺をなじった。

そこはせめて

「邪魔してるぞ」

じゃないのか。

俺だって普段はこんな裸族みたいな格好しているわけじゃない。

パンツをはく余裕もないほど、水分を欲していたんだ。

お前さんがまたラッパ飲みを再開しているそれを飲みたくてだな。

 

言いたい事はたっぷりあったように思うのだが、もう脳みそも口も働かなかった。

無言のままシンクに向かい、コップに水を注いで飲む。

一気飲みはできなかった。

そんな飲み方をしても、気持ちが悪くなって吐くだけだ。

脱水が進んで体が受け付けなくなっているらしく、ただの水道水を苦く感じた。

一口飲んでは唇を離し、水が胃に入ったのを確認しては次の一口。

何とか飲み終えた時には他人がいることも忘れ、シンクに体重をかけて大きくため息をついていた。

 

「おい、どうした。具合が悪いのか」

と肩に手をかけられ、ああこいつがいたか、と思う。

「何か急用か?」

と問いかけると

「いや、近くにきたから寄っただけだ。玄関のチャイム、聞こえなかったか? 外から見たら風呂場の電気がついていたから出るまで待とうと思っていたが、出る気配がないから裏口から入らせてもらった」

と、こいつにしては真っ当な応え。

 

ふうん、家捜しじゃなかったんだ。

それならまあ、いいか。

と思うあたり、何度も突撃された俺の感覚は少々麻痺してしまっているかもしれない。

が、今はどうでもいい。

「悪いが寒気がするんでもてなしはできない。適当に病室でも使ってくれ。話は明日だ」

と軽く手を振って歩こうとして、体の重さに舌打ちした。

 

こういう時、大きい家は不便だ。

ホテルくらいの部屋に住みたい。

ワンルームで机があって、トイレとバスがついていれば、俺は後は何も要らない。

 

腕をぐいと持ち上げられたと思ったら、脇の下に奴の頭が入っていた。

「馬鹿、ふらついているぞ」

と俺を支えて男が歩く。

こいつ、案外力があるのだ。

下からの支えがあれば、階段も楽に上れた。

 

ベッドに転がり込み、体を丸めて大きく息をつく。

ああ、ほっとした。

「ありがとな。どの部屋でも使ってくれ」

と言って目をつぶる。

さっきまで風呂に入っていたと言うのに、もう体が冷えてしまった。

つま先が冷たくて、身震いする。

 

しまった。

もう1枚布団を足しておけばよかったな。

またがちがちと歯を鳴らしていると、体に重みがかかった。

 

布団がふっ飛んできた。

どこから、とか誰が、と言うことなど考えず、ただ体のこわばりが取れるのを感じてそのまま寝入った。

 

 

「・・・暑」

足を思い切り上げて、布団から出す。

もわっと湿った布団の中にひんやりとした風が入ってきて、気持ちいい。

 

喉がからからで目が覚めた。

あんなに寒かったはずの体は汗にまみれて、シーツにくっついている。

そういえば、素っ裸のまま眠ってしまった。

台所までの距離を考えるとうんざりするが、この部屋にある水分なんて、厳重に保管した毒薬くらい。

いくら面倒だからって、あれを飲むのはさすがに人生捨てすぎだ。

 

起き上がると頭がぐらぐらして、汗がすうっと冷える。

あんなに暑くてたまらなかったのにもう寒いとは。

やはり面倒がらずにパジャマは着るべきだった。

後悔しながら足を下ろしたら足がぐにゃりとしたものを踏んで、そこから「ぐが」と音がした。

足の下に、寝転がった男の腹があった。

 

「何でここに」

と言うと

「お前さん、俺を誰だと思っている。医者の前に具合の悪い奴がいたら、気になるのは当然だろうが。もちろん治療費はたんまりもらってやるから遠慮するな」

とにやりと笑うので

「結構だ。医者は間に合っている。俺も医者だ」

と反論したが、残念ながら立ち上がるのもおぼつかない。

部屋から追い出すなんてこと、できるはずがない。

 

奴は

「その顔は、水だろう。ほら」

とコップに入った水を差し出し、俺が飲み干している間に勝手にクローゼットをあさってタオルを出すと、俺の顔や首筋、背中をごしごしこすり、やはり見つけ出したTシャツを頭にかぶせた。

俺の薬品、明日も無事だろうか、と危惧しつつもありがたく腕を通す。

やはり、裸で寝具に直接・・・はいただけない。

隣に人肌でもあれば別だろうけど。

 

「すごい汗だ。脈拍も速い。さっきはほとんど取れないほど弱かったし、脈拍も50しかなかった。ぽっくりいくんじゃないかと思ったが、今度は逆だな。血圧の変動も激しい。といっても血液検査では異常は見当たらなかったが」

 

俺、何されているんだろう。

さっきから妙に右腕の内側がかゆいと思っていたけど、もしかして採血されたのか?

どうやら血圧も何度も測られているようだけど、後は何をされているのか。

きっと多分親切心なんだろうけど、この男の医者としての倫理観は、俺のと違いすぎる。

 

「押し売りでの診療には支払わないからな」

と言おうと思ったが、藪をつついて蛇を出すことになりそうだったので口をつぐんだ。

だが顔に出ていたらしく

「押し売りの代金は勝手にむしりとっていくから、お前さんは寝ていればいいんだよ」

と手をとられ、ゆっくり起こされる。

ベッドのそばに椅子を持ってきて俺を座らせると、男は手早くシーツを取り替え

「寝ろ」

と俺をまたベッドに横たえた。

 

そこまでならいいが、自分も布団に入ってくる。

「おい」

といっても背中を向けたまま

「早く寝ろ」

と言うだけだ。

 

俺は人肌が苦手なんだ。

こんな狭いところで寝られるか。

 

文句はあったが、この男が簡単に出て行くとは思えない。

あきらめて、俺も反対の壁を向く。

 

 

こんなので眠れるか、と思っていたが、次に気がついたときには激しい動悸で飛び起きたのだから、その間、寝てはいたのだろう。

胸が苦しくて、両手で心臓の上辺りをぎゅうっと掴む。

深呼吸しようとすると胸がつかえるのだ。

こういうの、昔もあったな。

戦争から戻った直後の、精神的に不安定だった時期に。

そういえばあの頃もこんなことがあった気がする。

身体的にはどこもおかしくないんだ。

ただ、安定しない情緒が体に現れただけで。

 

「お前さん、言いたくないが男の更年期かもしれないな」

後ろの男がごそごそ寝返りを売って、俺の手をどけるように腕を回してきた。

早鐘を打つ心臓を軽く撫で

「大丈夫だ。お前さんの体はどこもおかしくない。ここはお前の城の中だ。一番安全な場所だ。」

とゆっくりささやく。

体のこわばりが溶けていくのがわかった。

さすがに患者を落ち着かせるのがうまい。

 

まあ、俺も40をとっくに越えた。

正直、ここまで生きるとは思わなかった。

絶対に戦争から生きて戻れると思えなかったし、安楽死医になってからはいつ死んでもいいと思っていた。

最初の頃は半分は死に場所を探しているようなものだったし、今もそういう気持ちはある。

 

だが、きっともうそれを探す必要はないのだ。

抗いようもなくそれはもう俺のそばにいるのだから。

俺に寄り添い、そっと俺の体力をはぎ、脳を少しずつ衰えさせ、欲を抜き。

そうやって、多分少しずつ受け入れる準備をさせていくのだろう。

俺だけじゃない。

一国の王にも、今を盛りと輝く若者にも、生まれたばかりの赤子にも、俺の心臓に手をおくこの男にも、同じものは寄り添って、それぞれの終末へと誘っていく。

 

今回のは、そいつと俺の中の生々しい部分のテンポが崩れたのだろう。

そのまま急落してもよさそうなものを、何とか体調を戻そうとしていた自分に苦笑する。

そう言えば、グマの時も必死だったな。

あの頃には、すでに俺は変わってきていたのだ。

きっと。

 

落ち着くと、この体勢が気になってきた。

何しろ俺は、シャツ1枚きりだ。

誰かが密着している時、ここまで下半身が無防備なのはいかがなものか。

「おい、もう大丈夫だ」

と振り返ろうにも、腕はがっちり巻きついていて離れない。

この男に寄り添う奴はきっとすごくてこずるんだろうな。

そのうち、腕が重く、背中が温かくなり、後ろの男が寝入ったことを知った。

ほっとして体をずらそうとしたが、しっかり巻きついた腕ははがれない。

 

こいつはコアラか。

 

あきれつつ目をつぶり、背中に当たる男の寝息をこそばゆく思っているうち、俺の呼吸も同じリズムを刻んでいった。

 

つまりはこんな風に、俺達の距離は縮まっていった。

 

 

更年期はマジに急に来ます。

皆様もお気をつけください。