月は地球の周りを回りながら、地球に様々な影響をあたえている。

潮の満ち干だけではない。

動物は、満月と新月を中心に子供を産む。

感情にも作用を及ぼすのか、犯罪件数にも影響するという。

 

 

狂の月

 

 

― キリコ ―

 

赤い月。

これを見ると平静ではいられない。

いつも青々と静かな顔を見せている月が赤くなった時、必ず変事が起きた。

奇襲。

爆撃。

普通明るい満月の日にはまず起こらないようなことがなぜか起こった。

 

初めて安楽死をして、フラフラと外に出て仰いだ空にかかっていたのも、赤い月だった。

父の葬儀の夜も。

そして、あいつの変貌に初めて出会ったのも。

みんな赤い月の夜。

 

あの日俺は雑踏をさまよっていた。

ふと見上げた空にかかった月が赤いのに気づいた途端、今までの後悔がどっと押し寄せて、そのまま家に戻れなくなったのだ。

 

俺は安楽死をしすぎてしまっているのではないか。

普段なら絶対に考えまいとしていること。

だがこんな夜には必ず考えてしまうこと。

 

俺がもっと精神的にも肉体的にも強かったら。

天才的な技術を持っていたら。

たとえば、あの男のように。

そうだったらあの戦場で苦しむ人間はもっとずっと少なく、安楽死を望まざるを得ないような苦しみも少なかったのではないか。

俺は本当に極限までがんばったか。

どこかで惰性に陥ってはいなかったか。

 

そんなことはない。

俺は俺なりに限界までがんばった。

そのはずだ。

そう思おうとしても、あの男に出会った今では虚しいこと。

心の中で、俺は負けたと知っている。

だからこんな赤い月の夜にはたまらない。

苦しくて、苦しくて、夜の街をさ迷い歩く。

心の中に溜まりに溜まった涙を外に出してしまいたい。

もう出し方も忘れてしまっているのに。

きっと心が溺れ死ぬまでこのままどんどん溜まっていくのだ。

 

うっかりしてぶつかった男は、いつもと違った顔をしていた。

異星人。

昼間見る、医者の矜持に溢れた顔とも違う。

夜見る、恋人としての顔とも違う。

それは今まで見たどの顔とも違っていた。

俺の心の奥底に巣食った卑屈さをすべてさらけ出させる顔。

後悔するとわかっているのに、俺は狂った。

 

 

それからも来る、赤い月の日。

俺は心の中で後悔の涙を流し続ける。

外に出られない涙は体の中で澱み、俺の身をがんじがらめにする。

 

ノックもせずにドアが開き

「来たぜ」

と男がつぶやく。

吸血鬼を思わせる、暗い目。

普段は明るい茶色なのに、なぜか今日はあの月に似ている。

 

やることは、唯一つ。

黒い衣装を無造作に脱いでいく男。

シャツまでをはだけたところで、俺のシャツに手をかける。

その手を取り、目を覗く。

赤い月の中、深く、深く沈みこむような、黒い瞳孔。

 

俺がおかしいこんな時に、なぜ来る。

俺が狂うさまをそんなに見たいか。

 

何故いつものように出来ないのだろう。

優しさのかけらもない手で壊したくなる。

単に激情をぶつけるだけのセックスなんて、獣以下だ。

そう思うのに止められなくて。

なのに赤裸にされるのは俺のほう。

 

ひどいことをしているのは俺なのに、涙があふれて止まらない。

涙腺のたがが外れたように涙をぼたぼたたらしながら、気が狂ったように腰を動かす俺。

お前は何故俺の下で抵抗しない。

いつもならちょっとしたことで文句を言うくせに、がくがく揺れるまま、俺のどこかをこじ開け、無遠慮にかき回していく。

身の内に溜まっていた後悔と苦痛を涙とともに思い出させる男。

けれど身動きできないほど溜まった物を外に出せる喜びに、快感が止まらない。

 

体が空っぽになるまで腰を動かし、蹂躙し、涙を流して、この月のせいだと言い訳する。

赤い月が俺を覆う。

 

気がつくと月は去り、俺の下の男は意識を失っている。

死体のようにぐんにゃりとした体をかき抱いて、俺はまた泣く。

心の中に溜まった澱がすべて出尽くすまで。

 

俺は気が狂っている。

 

 

― ブラック・ジャック ―

 

寝覚めが悪い。

1日中いらいらする。

やっとの思いで来た患者に法外な値段を吹っかけ、追い出す。

せっかくピノコが作った食事にけちをつけ、しょんぼりした姿を残して外に飛び出す。

 

そんな時、赤い月が俺を見下ろしている。

 

この月は嫌いだ。

事故の後、初めて意識が戻った時、包帯の隙間からこの月が見えた。

母が死んだ日、呆けながら見た空にかかっていたのも、赤い、赤い月だった。

まるで母と俺の血と涙を吸い込んだような、赤い月。

俺の涙はあの日に枯れた。

 

あの月に気づくたび、俺はおかしくなる。

破壊衝動が起き、何もかも壊したくなる。

幼い頃は人形を突き刺し、長じては喧嘩に明け暮れた。

 

美しかった母の記憶すら、俺を癒しはしない。

こんな月の日に母を思い出そうとしても、復讐の念をかき立てるだけだ。

満たされぬ思いに心がどんどん干からびていく。

復讐が終わればこの思いは消えるのか。

それともその時こそ、血と涙の最後の一滴までが枯れはてるのか。

 

この激情を収めるために、女性と関係を持ったこともある。

けれどひどい抱き方をする俺を、商売女すら嫌がった。

人でないものに抱かれている気がするという。

それはそうだ。

俺は女から潤いを搾り取ろうとしているのだから。

 

患者や関係者に同情や好意を寄せられることもあったが、そんな気持ちを感じるだけで虫唾が走った。

俺は慈善事業をするつもりも、しているつもりもない。

それどころか俺は大金を吹っかけ、人を試し、気に入った奴だけを治療する、人非人だ。

金持ちが俺の言い分に右往左往するのに喜びを感じ、無理難題を言っては困るさまを見てあざ笑う。

そんな男を偶像視するなんて、その目は節穴か。

 

きっとあいつはこんなこと、考えたこともないだろう。

あの死神と呼ばれる男は。

死神は悪魔ではない。

人をいたずらに惑わせたりはしない。

俺のように。

 

いつもの衝動が湧き上がる。

何もかも壊してしまいたい。

自分の位置も、その役割も。

気持ちをねじ伏せる為、一心不乱にひたすら歩く。

海岸沿いを月を見ながらずっと行くこともある。

わざと中央分離帯を歩くこともある。

そして今日のように、雑踏の中を縫って歩くことも。

人ごみの中では逆に誰にも声をかけられることがない。

すぐ近くをすれ違う人に注意を寄せる者もない。

雑踏は好きだ。

この寂しさが心地いいから。

もしかしたら歩きつかれたら、どこかで眠れるかもしれない。

 

月を見ながらそんなことを考えていたら、人にぶつかった。

「失礼」

という俺に

「BJ?」

と返る、その声にはっとする。

今一番会いたくない男。

一番嫌いで一番見られたくなくて、一番そばにいたい男。

男は幽霊でも見たような顔をしている。

 

俺の乾いた表情に驚いたか。

 

今までどんな衝動にも打ち勝ってきた。

歩け、忘れろ、と理性が怒鳴る。

大事な男だろう。

孤独な生活に生まれた一時の憩い。

その時間をすべてふいにしてしまうのか。

乾ききり、ひび割れた化け物の俺を暴いてほしいのか。

 

この男に軽蔑されたい。

そうでなければ、この男を貶めたい。

 

見せてやる。

俺は悪魔だ。

人の汗を、涙を、搾り取って喜んで飲み干す。

それで心が潤うわけでもないのに。

「付き合えよ」

そういうと、男は悪夢を見ている顔でうなずいた。

 

 

それから赤い満月の夜、俺はもう歩き回らない。

行く場所が決まったからだ。

行くとあいつは幽霊でも見たような顔をしてよろめく。

普段、嬉しそうにするのと対照的な顔。

ほんの少し湧く、罪悪感。

それでも俺は逃がさない。

その目を見つめたまま服を脱ぎ、男を誘う。

 

死神は涙を流さないなんて、うそだ。

こんな時だけあいつはよく泣く。

下半身を手でこすって暖めてやると火がついた体は俺を求めるが、本当に俺が欲しくて抱いているのではないだろう。

狂ったように嗚咽を撒き散らし、涙をぼとぼと俺の体に落としながら、そうすることしか出来ないように俺を揺さぶる。

その涙は滑稽で、無様で、けれど俺の干からびた心の土を熱く濡らす。

硬く乾燥した俺の心に湿り気をくれる。

身体の痛みなんてどうでもいい。

尽きせぬ衝動が癒される、この快感。

 

 

ふと気がつくと、男が静かに俺の体をぬぐっている。

また途中で失神してしまったらしい。

優しい男をまた傷つけたことに少し罪悪感を抱きながらも、その顔に涙の跡がなくなってしまったことを残念に思う。

 

何か言おうとする男の口を手で封じる。

触れた頬にはまだ湿り気がある。

明日になったら普通にするから、もう少しだけお前の涙で潤してくれ。

月はとうに沈んだのに、俺の狂気は納まらない。

 

 

 

あゆみ様の79998ニアピンリクエストは「『ルナティック』(月と言うより狂気で)キリジャ」でした。

狂気→普段出さないよう努めるもの→キリコの涙という訳のわからない方式からひねり出してみたのですが、どうしてもうまくまとめることができなくて。

あゆみ様、リクエストをありがとうございました。

未熟者ですみません。